第2話 色褪せる思い出



 ピアノソナタの静穏なBGMと共に、天井ファンが緩やかに回転する。シック調に設えた調度品はどれも落ち着いた色合いで目に優しく、決して広いとは言えない店でありながらも、まるで閉塞感のない空間が実に心地良い。カフェの雰囲気と相俟って、今飲んでいるコーヒーにすら沈静効果がありそうな気がした。

 だと言うのに、千冬の話を聞き終えた目の前の彼女は、あからさまに顔をしかめて「はあ?」と語調を荒げた。


「何それ? いくら何でも勝手過ぎない? なんの相談もなくいきなり離婚だとかやりたい事があるとか言い出してさ」

「……うん。でも、智久も色々考えての決断だと思うから」

「千冬は甘いって! もっと怒鳴ってやればいいのよそんな奴!」

美香子みかこ。ここ、お店の中だから……」


 千冬に諌められ、美香子と呼ばれた女性は眉間に皺を刻みながら、不承不承とばかりにティーカップを口に運んだ。

 美香子は高校時代からの親友で、お互いに家庭を持ってからもこうして親交を続けている間柄だ。もっとも美香子は結婚してからも某大企業で精力的に働いているキャリアウーマンなので、向こうの方が断然忙しいはずではあるのだが、何かあればすぐに面と向かって相談に乗ってくれる美香子の事を、千冬は誰よりも信頼していた。

 そういうわけもあり、智久との一件も美香子に相談してみると、すぐ会いに行くと言ってこのカフェに誘ってくれたのである。しかも今日は平日で、せっかくの貴重な昼休み中にも関わらずだ。感情的になりやすい部分はあるが、それを差し引いても余りあるほど心優しい親友だと思う。


「で、千冬はどうする気?」


 スーツにコーヒーのしずくが溢れないよう慎重にカップをソーサーに戻しつつも、依然として渋面になったまま美香子が口を開いた。


「まさか、まだそんな奴と一緒にいたいとか言わないわよね?」

「ううん、離婚はするつもり。もう何を言っても止まらない感じだったから」

「当然ね。千冬よりも別の事を選んだ男だもの、これ以上一緒にいるだけ不毛よ」


 そんな身勝手な男だとは思わなかったけれど、と智久の姿を思い浮かべるように、美香子は険の籠もった表情で顔を逸らした。

 美香子と智久は結婚前に数回だけ会わせた事がある。その時は互いに当たり障りのない対応で、別段どちらとも好印象とも悪印象とも言えない感じだったが、ここに来て美香子の智久に対する好感度は最悪方向に振り切ってしまったようだ。無理からぬ話ではあるが。


「まあ離婚はするとして、その後はどうするの? 千冬はずっと専業主婦だったし、働き口を探すのも大変そうね」

「うん。とりあえずアパートはそのまま私が使ってもいいって事だから、住むところは大丈夫なんだけど、私バイト経験くらいしかないから、働くとなったら苦労するかも……」

「けど慰謝料はけっこう貰えるんでしょ? 相手、銀行員なわけだし。だったらしばらくはゆっくり考えたらいいんじゃない? 何なら新しい恋を探すのもアリだし」

「新しい恋……」


 まだ智久の事を忘れられないのに、早々に次の恋を探す気にはなれない。

 などと言うと、またしても美香子に叱られそうな気がするので敢えて本音は口にしないが、しかしながらいつまでも智久にこだわるわけにはいかないのも事実だ。いつかは智久への思いを断ち切る必要がある。


(いつ智久と離れ離れになるのかはわからないけど)


 あの離婚話から翌日というのもあって、智久はまだ自宅のアパートにいる。荷物整理が済んでいないからだ。

 昨日の時点で智久から「今からでもホテル暮らしにする」と提案されたが、そこは断った。別に嫌い合っているわけでもないのに追い出すような真似も変だと思ったからだ。なんて事を可奈に言ったら、絶対また「甘い」とか怒られそうではあるが。

 そういうわけもあり、未だ智久と共に暮らしているが、以前までのような会話は勿論なく、気まずい雰囲気が漂ってしまっている。当然ながら今日の朝食も別々に取っており、交わした会話と言えば今朝の「行ってきます」と「行ってらっしゃい」の挨拶程度だ。

 おそらくいつかは智久から具体的な離婚の段取りと引っ越しの話があると思うが、その事を思うと心臓に針を刺されたように胸がチクチクと痛む。

 見るともなしに視線を落としたコーヒーの水面に、自分の傷心した顔が暗く映し出されていた。




 美香子と別れてから、千冬は昼下がりの街並みを一人で歩いていた。

 春になったばかりというのもあって、街路樹に僅かに新緑が顔を出し始めている。桜の木はまだ芽吹いたものばかりで開花するにはもう少しばかり時が必要になりそうだが、今日のような穏やか気候が続けば芽が開くのもそう遅くはならないだろう。

 歩道脇にある店はどこも春のキャンペーンを謳うサービスを展開しており、特に洋菓子や和菓子を扱う店舗からは桜を彷彿とさせる甘い香りがあちこちから漂ってくる。満開の桜が待ち遠しくなる匂いだ。

 そんな春の街並みを憂鬱とした思いで眺めながら、千冬はあてどもなく孤独に歩く。

 いつも視界に入れていた景色が、まるでセピア色に褪せて見える。まるで遠い国の光景を古びた映写機で鑑賞しているかのような気分だ。自分がこれまで住んでいた街とはとても思えない。世間が春に浮かれている事すらどこか他人事めいて見える。

 こうしている事に何も意味はない。今はただ、一人で歩きたい気分だった。単に一人寂しくあの家にいたくないだけというのもあるが。


(智久とこの街に来たばかりの頃は、あんなに胸が弾んでいたのに)


 智久と歩いた街中を一人で追想するように巡っていく。無駄だと分かりつつも、過去の思い出に縋るように。それだけ、好きなのに別れなければならないという現実が、千冬の心に暗い影を落としていた。

 そうして、どれだけ歩いた事だろう。気が付けばとある店先のショーウィンドウの前に立っていた。


「あ。テディベア……」


 ガラスの向こうで陳列されている小さな子熊のぬいぐるみ。それもただのぬいぐるみではない。一目で高級と分かるブランド品だ。

 一目で分かったのは、千冬に手芸の趣味があったからだ。特にテディベアは子供の子から好きで、昔はたまに自分で作っていたりもした。だからこそ、目の前のテディベアが安物ではないとすぐに把握できた。

 改めて立て看板を確認すると、テディベア専門店と書いてあった。道理でどの棚にもテディベアが飾られていたわけだ。それもテディベア専門店なだけあってか、ヴィンテージ物からそうでない物まで多種多様なテディベアが。

 ここは偶にしか通らない道ではあったが、こんな店があったなんて今まで知らなかった。いつもはバスを利用していたせいもあって、これまで気が付けずにいたのだろう。こんな素敵な店があったと知っていたら頻繁に足を運んでいたかもしれない。


「テディベア、か……」


 今でもテディベアは好きだ。というより自分の部屋やリビングにもいくつか飾っている。ブランド品から自作も含めて。

 けど、最近はめっきり自分でも作らなくなってしまった。結婚するまではあんなに嬉々として作っていたというのに。

 それこそ、いつかは目の前にあるようなテディベア専門店を自分で開きたいと夢見ていたくらいには。

 一体いつから、その夢を見ないようになってしまったのだろう──。


「千冬?」


 と、ショーウィンドウ越しのテディベアを眺めながら過去の記憶を脳裏に浮かべていた最中、不意に横から自分の名前を呼ばれたような気がした。それもどこか聞き覚えのある声が。

 郷愁にも似た不思議な感覚になりながら、千冬は声のした方をゆっくり振り向く。


竜二りゅうじ……」


 そこには、小学生の頃からの幼馴染。

 そしてかつての恋人が、目の前に立っていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る