婚約破棄は離婚式のあとに
戯 一樹
第1話 突然の別れ話
指輪の輝きが陽光に溶ける。青空に
指の隙間から溢れる春の陽だまりに目を細めながら、
今日でこの輝きは失われる。未来永劫、この薬指に戻る事もなく。
そうして名残惜しげにゆっくり左手を下ろしたあとに、千冬はこうなってしまった経緯を思い出しながら石段へとゆっくり足を掛けた。
*
それは突然の事だった。
夫である智久に「大事な話がある」と言われ、日課の植木鉢の水やりを終えたあと、ダイニングテーブルの対面に着いた。
それから「大事な話って?」と訊ねてみると、智久はいつになく厳粛な空気を漂わせたあと、重々しく口を開いた。
「僕と別れてほしい」
え、と千冬は表情を凍らせた。
別れてほしい。確かにそう言われた。聞き間違えや幻聴でない事だけはわかる。
しかし言われはしたが、すぐには理解が追いつかなかった。
頭の中では「何故」という疑問ばかりで埋め尽くされる。何が起きているかわからないと動悸が早まる。
智久とは大学の授業で知り合い、そこからどちらからともなく惹かれ合うようになり、智久からのプロポーズを受けて、卒業後にめでたく結婚式を挙げた。
智久は卒業後、地元の銀行で勤めるようになり、千冬は短時間のパートをやりつつ家事もこなしていた。智久の収入なら別段パートに入らなければならないほどではなかったが、自分の小遣いくらいは自分で稼ぎたいと思っての決断だった。
そうして、かれこれ四年。智久との夫婦生活はまずまず順調と言って差し支えない日々だったと思う。
もちろん共に過ごしている以上、一度も不満を持たなかったわけではないし、一緒に住むアパートを探す際は多少揉めたけれど、それ以外はケンカらしいケンカもない新婚生活だった。
さすがに四年も経つと新婚とは言い難いが、気持ちはいつまでも結婚したばかりの頃のままだった。それくらい智久の事を愛していたし、智久も自分の事を愛してくれていると思っていた。
だから智久から大事な話があると言われた時も、きっと将来を見据えてのマンション購入とか、もしくは仕事関係だろうと思っていた。
しかしながら智久から告げられたのは、寝耳に水もいいところの急な別れ話。
これまでの智久との生活は一体なんだったのだろうと虚無感を覚えるくらい、智久との記憶が次々に色褪せていく。可憐に咲いていた花が瞬時に萎れていくように。
「……理由は」
混乱した頭で、それだけは訊ねた。兎にも角にも、まずは理由を聞かないと返事の仕様がない。
「どうしてもやりたい事ができたから」
間髪入れずに返してきた智久の言葉に、千冬は眉宇を
これがまだ、他に好きな人が出来たというのなら理解できる。決して納得はできないし、実際に離婚した際は絶対に多額の慰謝料を払ってもらうつもりではあるが、他の人を愛してしまったという事自体はどうしようもないと思っている。自分の感情に嘘は吐けないからだ。
もしくは、単なる性格の不一致というのであれば、それはそれで仕方のない事だ。千冬は千冬なりに一生懸命尽くしてきたつもりだったが、それが伝わっていなかったのだとしたら、互いの相性が良くなかったのだろうと諦めも付く。
だが智久はそのどちらでもなく、やりたい事があると端的に告げてきた。つまりそれは、千冬よりもやりたい事を優先したという事でもある。そんな素振り、これまで一切見せた事もないのに。
「やりたい事って何? まずはそれを聞いてからでないと、納得できない」
「それは……まだ言えない」
「言えないって……」
言葉尻を濁す智久に、千冬はテーブルの下でセーターの裾をギュッと握り締めた。
それまでは困惑するばかりであったが、言葉少なに離婚を迫る智久にだんだんと怒りにも似た憤りが体の奥底から滲み出てくるかのような気分である。
「きちんと説明もしてくれないまま離婚しろって言うの、智久は?」
「ごめん。でも離婚届を役所に届けるまでにはちゃんと言うつもりだから」
どうやら、智久の決意は相当に固いらしい。いつも温和で大概の事は相手に譲歩してしまう癖がある智久がこんな強情な事を言うなんて、にわかに信じられなかった。
それだけにショックだった。智久とはかれこれ八年近い付き合いになるのに、これだけの覚悟を内に秘めていたという事実に気が付きもしなかった自分が。
年数を重ねた分、相手を深く理解できるとは限らないが、共に積んできた時間は確かにお互いの愛を育んでいたと思っていた。それは千冬の勘違いだったのだろうか。すべては千冬の思い込みでしかなかったとでも言うのだろうか。
(ああ──私、まだ智久の事が好きなんだ)
これだけ無茶苦茶な事を言われているのに、それでもまだ智久の事を諦め切れないのは、未だ彼に対する想いが強く残っているからなのだろう。その事実を知ってより胸が締め付けられるように切なくなってしまった。通じ合わないお互いの気持ちに。
それゆえに、どうしてもこれだけは問い質しておきたかった。この感情に折り合いを付けるためにも。
「ねぇ。智久は私の事がどうでもよくなったの?」
「それは違う。今も千冬の事は好きだよ」
「好きなのに、私と離婚するの? 私だって、まだ智久の事が好きなままなんだよ?」
「ごめん……」
「考え直してくれる気はないのね……」
頑なに離婚案を引き下げない智久を見て、千冬はもうこれ以上何を言っても無理なのだろうと悟ってしまった。お互い、想い合ったままだというのに。
深い嘆息が肺から漏れる。いつしか、セーターの裾を握り締めていた手は力なく開き、ひんやりと熱を失っていた。春先とはいえ、まだ暖房を使っているにも関わらず、体の芯から冷えそうなほどダイニングは静まり返っていた。
「智久」
千冬の方から沈黙を破った。それまでとは打って変わって、感情の伴っていない声音で。
「ひとつだけ聞かせて。そのやりたい事に、私は邪魔だった? 一緒にはやれなかったの?」
「邪魔じゃないよ。それだけは決して違う」
何度も
「でも千冬とは一緒にやれない。これは僕一人でないと意味のない事だから」
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