第38話 亜里沙

 サバイバルナイフを強く握ると、悠馬は前を行く先生の腕を引く。

 驚きの声を上げる先生を地面に押し倒し、馬乗りになった。


「何をしてるの?」


 呆れ顔を浮かべる先生の手首を押さえつける。

 そして、左手首にナイフを振り下ろした。


 不気味に柔らかく中に芯があるような感触は確実に人間のものではなかった。

 悠馬はそれを切り落とす。

 先生は痛がりもせず、それを冷めた目で見ている。

 黒い血が顔に飛んだ。


「やめろ」


 先生が命令する。頬についた黒い血があっという間に全身に広がる。

 恐ろしい光景にひるむ。身体も動かない。


 だが、まだ口元は動いた。

 悠馬は目いっぱい叫ぶ。


「俺は逃げる!」

 

 口にした通り、身体が動いた。

 立ち上がり先生に背を向けて走り出す。


 握った先生の手首がひとりでに動き出すのを押さえ、リュックに放り込むと、拡声器を手にし、最大音量までダイヤルを捻る。


「俺は何も聞こえない!」


 先生が何かを言う前に全力で叫んだ。

 ハウリングが起き、耳が痛む。

 だが、音は遮断され先生の声は聞こえてこない。

 

 アンデッドたちがこちらに向かってくる。先生が指示を始めたのだろう。

 それらに声を浴びせかけ、時に催涙スプレーを吹きかけ、悠馬は狂った世界を駆ける。

 

 この作戦は高梨には言っていない。

 必ず止められるからだ。

 うまく高梨と別れることができた今しかチャンスはない。

 

 悠馬は見えた暗がりに身をひそめ、リュックを開けた。

 

 ***


 茂みから立ち上がり、口から流れた血を悠馬は拭う。

 身体に広がった黒い染みは消えた。

 だが、目の前は霞む。それでも歩かなければならない。

 

 一歩一歩足を前に出す。

 逃げ切ったのか、先生が諦めたのか、アンデッドたちがいない。


 おぼつかない足取りで進んでいく。

 見たことのある景色だった。

 

 赤い桜に死体が絡みついている。

 蓮畑にマネキンのような人間が咲いている。


 これは一度、亜里沙と来たことのある場所だ。

 猫に化けた先生に連れてこられた廃神社までの道だ。

 

 あの時と同じく強い風が吹いた。どこからか、桜の花びらが流れてきた。

 そちらに顔を向けると、誰かの泣き声が聞こえてくる。


 高梨が桜の木の元で泣いていた。


 初めて亜里沙と出会った日のことを思い出した。

 馴染めない集落に不安が溢れだしていた。

 そんな悠馬の顔を覗き、恐る恐る、そして無邪気に笑った。


「君が噂の転校生だな!」


 高梨は集落の人間から浮いた存在になるために悠馬を利用したと言っていた。

 それでもよかった。


 ただただ嬉しかった。

 

 こちらに気付いたのか高梨が顔を上げる。

 刹那、目を見開き、駆け寄ってきた。


「どうしたの!? 何をされたの?」

「何もされてないよ」

「でも、顔色が……」

「うん、分かってる。だから聞かないで」


 高梨は言葉に詰まったが、それ以上何かを聞いてくることはなかった。


「先生は止められそう?」

「分からない。亜里沙は見つかった?」


 優しい笑みが答えを示していた。

 高梨に連れられ歩く世界はやはり狂っていた。

 遊園地や展望台、自然公園が無秩序に並ぶ。

 だが、それはどこも現実にある風景で、それでいて見たことのあるものだった。

 

 高梨が穏やかに目を細めている。

 この景色は全て、亜里沙との思い出の場所だ。


「馬鹿だな……」


 小さく声に出た。

 それは先生に対しての言葉であり、自分に対してのものでもあった。


 視界が赤く染まった。

 紅葉だ。


 そうだ。

 あの出来事が起きた日、踏切ができてこちらの世界に来てしまったあの日、亜里沙は言っていた。

 今年も紅葉を見に行きたい、と。


 涙をこらえるように歯を食いしばる。


「篠倉くん」


 高梨の声に顔を上げ、その視線を追うと紅葉の中一人楽しそうに話をしている彼女が見えた。

 悠馬はかすむ視界の中、彼女の方に足を進める。


「ゆうマ、悠ま、これアゲる」


 調子っぱずれな声で、虚空に向かい彼女は紅葉の葉を手渡した。

 三年前から何も変わらない亜里沙がそこにいた。


 亜里沙はずっとここでこうしていたのだろうか。

 ずっと自分を思い続けてくれていたのだろうか。

 そう思うとたまらなくなった。


「亜里沙」


 声をかけると彼女は動きを止めた。


「ユウ馬、悠ま……?」

「そうだよ。悠馬だよ」


 彼女は奇声を上げ、悠馬に強く抱き着いた。

 締め上げるといっていいほどの力だ。


 亜里沙が狂ったその瞬間、悠馬はそれを振りほどいて逃げた。

 怖かった。

 今でも怖い。


 だが、今度はそれをしっかりと受け止める。


「遅くなってごめんね」


 狂った声をあげる亜里沙の手をなだめながら、高梨を振り返る。


「あれ、出してくれる?」

「了解」


 高梨が悠馬のリュックから取り出したのは手錠だった。

 悠馬は亜里沙の手を引きはがし、その手首に手錠をかける。


「あの、さすがにさっきの力で締め上げられると、その、危ないから……。本当にごめん」


 亜里沙は首を傾げるが、つけられた手錠が気に喰わないらしく、苛立たし気にそれを引っ張る。

 ありがたいことにさすがに鎖は引きちぎれないらしい。


「あの、ごめんね。その、はぐれないようにというか、なんというか」

「篠倉くん、言い訳がましい」

「はい……」


 狂ってしまった亜里沙は以前悠馬を襲おうとした。

 その経験から今回、手錠を持ってきたが実際に使うとなると気が引ける。

 亜里沙とはぐれないように手錠から延びた鎖を腕に巻き付け、悠馬は深呼吸をする。


「後は先生を止めるだけだね。先生の居場所は――」

「それなんだけどさ」


 高梨が悠馬の声を遮った。


「篠倉くん、亜里沙ちゃんと一緒に逃げて」

「え」

「狂ってしまった亜里沙でも、篠倉くんは愛してくれるでしょう?」


 迷わず頷いた。


「悠馬は私が止める」

「お互いに協力するって言ったはずだよ」

「皆死んじゃったら意味ないでしょう?」

「……高梨さんは死ぬつもりなの?」

「まさか」


 彼女は明るく笑った。


「でも、あんまりにも二人がお似合いだから。ねえ、あなたは篠倉くんに無茶をしてほしくないでしょう?」


 問いかけられた亜里沙は威嚇する猫のように鳴き声をあげる。

 高梨はそれを微笑ましく見ると亜里沙の頭を撫でた。


「踏切までは一緒に行こうか」

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