第33話 父親

 約束を取り付けたのは悠馬とは言え、心臓がひどいほど脈を打っていた。


「大丈夫?」


 高梨に顔を覗きこまれ、恥ずかしさを覚えながらも首を縦に振る。

 父が住むマンションは電車で一時間かかる場所にある。

 電車に揺られながら、父との暮らしを思い返す。

 

 黒峯ヶ丘に引っ越す前までは、父のことがとても好きだった。

 尊敬できる優しい父親だった。

 だが、黒峯ヶ丘に引っ越すと、父は祖母と共に母を虐げ始めた。

 そして、心中事件が起こり、一人であの集落を出ていった。


 悠馬があの世界から逃げ出した後、一年ほど共に暮らしたが顔を合わせることはほとんどなかった。


 小ぎれいなマンションのエレベーターに乗り、五階で降りる。

 部屋が近づくほどに口の中が乾いていく。

 

 前のように実感が湧かなければこんなことにはならなかったはずだ。

 不便に思うが、それでもこの実感を大切にしたかった。

 

 なけなしの強がりで高梨の前を歩く。

 何度も深呼吸をしてからインターフォンを押す。その手が震える。

 だが、高梨は急かすことも、呆れることもなく見守ってくれた。


『はい』

「悠馬だけど」


 聞こえてきた固い声に、同じく固い声で返す。

 インターフォンが切れる音がし、足音が玄関に迫ってくる。

 扉が開いた。

 

 父は相変わらず老け込んで見えた。

 身ぎれいにはしているが、その表情に生気がない。


「元気だったか?」

「うん。それなりに」


 ぎこちない挨拶を形式通りこなすと、父の視線は高梨に向かう。

 高梨が小さく頭を下げた。


「高梨亜里沙です。ご無沙汰しています」

 

 父が大きく目を見開いた。

 彼が最後に高梨と顔を合わせたのはあの集落を出ていく前のはずだ。

 あまりにも印象が違いすぎる。


「何もないですが、どうぞ」


 1LDKの広々とした部屋には言葉通り、何もなかった。

 設置されたテーブルセットには二脚の椅子しかなく、父はデスクチェアーを引っ張り出してきた。


「これ、よろしければ」


 高梨が手に持った紙袋を父に渡す。

 恐縮しながら受け取る父に愛想のいい笑顔を浮かべる高梨を見ながら、彼女はもう自分の知る高梨亜里沙とは違う道を歩んでいることを強く感じた。


「お茶を入れるよ」


 父がキッチンへ向かう。

 気まずい沈黙の中、父が冷たい茶を用意する音だけが響く。


 目の前に出された麦茶を一気に飲み干すと、悠馬は切り出した。


「黒峯ヶ丘について教えてほしい」

「は?」


 今日の今日まで悠馬は父に話の内容を伝えなかった。

 きっと父にとってもあの集落のことは思い出したくもないはずだ。

 だが、門前払いをされるわけにはいかない。


 父の顔にはあからさまに動揺が浮かんでいた。

 悠馬は芯の通った声で問う。


「あの村で何があったのか、あの廃神社は何なのか。知っていることを教えてほしい」

「知ってどうするんだ」


 父が押し殺した低い声を出す。悠馬の身が強張る。

 テーブルの下で握った悠馬の手にじっとりと汗が滲む。

 だが、理由ははっきりしていた。


「黒峯ヶ丘から救いたい人がいる」


 弾かれたように父は顔を上げた。


「あそこに入るつもりなのか?」


 強く頷いた。

 

 もう、迷いはない。


 父の困惑が手に取るように分かる。


「あそこは立ち入り禁止だ」

「知ってる」

「入った人間は戻ってこない」

「知ってる」

「やめなさい」

「やめない」


 静かに、だが、はっきりとした声で悠馬は放つ。


「これだけは、絶対にやめない」


 父が押し黙る。

 

 それもそうだ。

 悠馬がこれほど主張をしたのは、あの集落に残るといったあの時以来だ。

 それから先、悠馬は父の言うことを全て受け入れていたし、父もまた悠馬の言うことを受け入れていた。


 高梨が頭を下げる。


「私たちは黒峯ヶ丘を元に戻したいんです」


 さすがに篠倉悠馬が二人いるとは言えなかった。

 だが、高梨の言うことは嘘ではない。

 先生を止めるということはあの集落の解放を意味する。


「あなたの協力が必要なんです。お願いします」


 再び深々と頭を下げる高梨に倣い、悠馬も頭を下げた。


「最後の頼みだと思ってほしい。お願いします」


 長い沈黙が訪れた。

 熟考した末なのか、沈黙に耐えられなくなったのか、父が口を開く。


「……どうしてもか」

「どうしても」


 父の問いに悠馬はまっすぐ返した。

 二人の耳にも入るくらい父は大きなため息をついた。

 そして、ぽつりとこぼした。


「黒峯ヶ丘は呪われているんだ」


 話はそう始まった。

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