第32話 このまま二人で

 新幹線に乗り、私鉄を乗り継いで吉駒駅に降り立つ。

 懐かしさに胸が詰まった。


 ケーブルカーの駅は封鎖されており、その周りもフェンスで囲われ、大きく立ち入り禁止と書かれた看板が立てかけられてあった。


「こっち」


 亜里沙は迷わず進んでいく。

 きっと何度もこの場所に来ているのだろう。


 フェンスの穴を潜り、二人で山を登る。

 亜里沙が前へ前へと進み、悠馬はその後ろについていくだけ。


 確かに恐怖は感じていた。

 だが、やはりどこかで乖離していた。

 そして何より、悠馬には黒峯ヶ丘の問題を解決する気がなかった。


 亜里沙の頼みを断れずにずるずるとここまで来てしまった。

 だが、本当は向き合う気も覚悟もなかった。


「ここから入れると思う」


 あの時と同じく、黒くぬめった膜が張っていた。

 中から呻き声が聞こえる。アンデッドたちのものだろう。


 この中に亜里沙の声も混ざっているのだろうか。


 亜里沙が狂ったあの瞬間が脳に走る。

 悠馬は口元を押さえた。


「ごめん、やっぱり一人で来るべきだったね」


 膜に向き合い、亜里沙は大きく息をする。


「今までは勇気がなかったけど……」


 彼女は悠馬に笑いかけた。


「私、行くよ。もし帰ってこなかったら――」

「駄目だ」


 悠馬は亜里沙の前に立ちはだかる。

 アンデッドの声を背にまっすぐ亜里沙を見つめる。

 だが、その姿が霞み、やがて、滲んで見えなくなる。


「行かないで、亜里沙」

「悠馬」

「二度といなくならないで……」 


 知っている。

 今ここにいる亜里沙はもう一人の亜里沙であり、自分と長い時間を共にした亜里沙ではないと。

 だけど、もう失いたくなかった。


「こうなるって分かってたのにな」


 亜里沙が泣き笑いの表情を浮かべる。


「ねえ、悠馬。もうこのままでもいいかな」

「え?」

「この世界の、私の悠馬になってくれる?」


 息を呑んだ。

 それは過去との決別だ。

 

 亜里沙は先生である悠馬を忘れる。

 悠馬は狂った亜里沙のことを忘れる。

 そして、ここにいる二人で共に。

 

 潤んだ目でこちらを見上げる亜里沙が唇を結んだ後、口にする。


「触れていい?」


 悠馬は頷く。

 亜里沙の手が悠馬の頬に伸びた。

 

 これでいい。

 これが幸せなんだ。


 そう思った。


「ごめん」


 その言葉は二人の口からこぼれ落ちた。

 亜里沙は悠馬に伸ばした手を引き、悠馬は後ろに一歩下がっていた。


 二人が触れ合うことはなかった。


「やっぱり駄目だね」

「うん、駄目だ」


 亜里沙は流れる涙を何度も拭い、笑う。

 悠馬も同じ顔をしていた。

 

 どれだけ見た目が同じでも、どれだけ過去を共有できたとしても、たとえ同じ人間だったとしても――。


「俺にとっての亜里沙は、亜里沙だけだった」

「私にとっての悠馬は、悠馬だけだった」


 不気味な呻きが聞こえる中、二人で笑った。


「ごめんね」

「ううん、これでいいんだよ」


 晴れ晴れとした気分だった。

 悠馬は黒く淀む世界を見つめる。


 狂った亜里沙がきっとまだこの中にいる。

 それを意識した瞬間、全身が粟立った。


「大丈夫?」

「うん」


 驚いた。

 今、全ての感情が繋がった。


 先生の世界への恐怖、これに立ち向かわなければならないという絶望感。

 そして、亜里沙を取り戻したいという溢れんばかりの思い。

 

 今、この瞬間、悠馬は自身に起きた全てのことを実感できた。

 母が無理心中を図ったあの日も、亜里沙が傍にいてくれた日々も、怒りも憎しみも、それに呑まれかけたことも、先生と対峙したことも、亜里沙が狂ったことも、この無為な三年間も、全て。


 悠馬は強く唇を噛む。

 感情をその場で感じるというのはこんなに苦しいことだったのか。

 だが、それを背負い、悠馬は黒い世界を睨んだ。


「必ず取り戻す。亜里沙、待っててね」


 自ずと出てきた言葉だった。

 だが、悠馬の強い覚悟とは裏腹に膜は肥大し始め、悠馬と亜里沙を襲う。

 二人で悲鳴を上げ、逃げ出した。


 こちらを押しつぶすかのように迫ってくるそれに二人は一心不乱になって走った。

 そのため方向を見誤ったようだ。


「崖だ」


 絶体絶命を肌で感じ、悠馬の声は震える。

 亜里沙は下を覗き込んでいるが、どう見積もっても五メートル以上ある。


 後ろに近づく影に悠馬は怯えて声を出す。


「来るな!」


 刹那、それの動きが止まった。

 そして、ゆっくりと潮が引くように遠ざかっていく。

 亜里沙と顔を見合わせ、ぽかんと口を開いた。


 二人で意見を交わしながら山を歩けば、十分もしないうちに街へ帰ることができた。

 何かを掴めそうな気がする。

 二人で強く頷いた。


 東京に帰るの新幹線の中で弁当を食べる。

 先にパンを食べ終えた亜里沙が口元をハンカチで拭く。


「ねえ、これから悠馬じゃなくて、篠倉くんって呼んでいい?」

「うん。じゃあ俺も高梨さんって呼ぶね」


 それが二人のあるべき距離だった。


 新幹線を降りるとそれぞれの帰路につく。

 亜里沙、いや、高梨の背を見送る。


 あの時、触れていればよかったと後悔する日が来るかもしれない。

 それでも、今はそう思わなかった。

 きっと高梨もそうだろう。


 アパートまでの道のりで悠馬は様々な感情に翻弄された。

 先生のことを考えては怖くなり、亜里沙との日々を思い出して辛くなった。


 アパートに帰ると、悠馬はスマホを取り出す。

 黒峯ヶ丘の人間は全てあの世界に取り込まれてしまった。

 だから、まともに証言できる人間はいない。


 ただ一人を除いては。


 ずっと避けてきた。

 高梨も彼の存在に気付いていただろう。

 だが、きっと気を遣ってくれていたのだ。


 それでも悠馬は決めた。

 亜里沙を取り戻すためなら向き合える。

 

 スマホに入った連絡先、着信履歴も発信履歴もない電話番号がある。

 悠馬は震える指で電話をかける。


「もしもし、父さん。少し、聞きたいことがあるんだ」


 電話越しの声はひどく戸惑っていた。

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