第30話 高梨亜里沙の人生
「高梨亜里沙は生まれも育ちも黒峯ヶ丘だった」
彼女の話はそう始まった。
代々この土地に住む高梨家に生まれた亜里沙は幼い頃からこの集落が嫌いだった。
見張りあいのような密な関係に排他的な態度、根も葉もない人の噂は年から年中。
さっきまで仲良く話していても、別れれば悪口。
どれも嫌いで仕方なかった。
一刻も早くこの土地から逃げ出したかった。
この集落の人間とは違った生き物になりたかった。
口調を硬くし、一人称を「ボク」にした。
制服はスラックスを選び、髪を極端に短くした。
家族は嘆いたが、それが亜里沙を満足させた。
「だけど、結局私も他の人間と何ら変わりなかった」
それをどこかで自覚しながら日々を過ごしていた。
たまらない閉塞感に襲われた。
「そんな時に現れたのが悠馬だった」
彼女は自嘲的な笑みを浮かべる。
周りから仲間外れにされる悠馬を見て、亜里沙は彼を仲間だと思った。
いや、どこかで打算があった。
仲間外れの仲間になれば、自分も仲間外れにしてもらえるんじゃないかと思ったのだ。
だから、あの桜の木の下で悠馬に声をかけた。
「悠馬もどこか気付いていたんじゃないかな?」
答えられなかった。
彼女は辛そうに笑顔を浮かべ、また話し出す。
計算通りだった。
悠馬をかばう亜里沙を皆が避けるようになっていった。
家族にも悠馬には近寄らないように再三言われた。
だが、亜里沙はそれを無視した。むしろ誇らしい気分だった。
二年が経った頃、篠倉家の心中事件が起こった。
家族にあの呪われた家にはもう二度と関わるなと言われた。
亜里沙とて、ショックがなかったわけではない。
見ないふりをするのが賢明だと分かっていた。
だが、呆然と立ち尽くす悠馬を見て、亜里沙は駆け寄っていた。
「その頃にはもう悠馬は私にとってかけがえのない人になっていた」
苦し気に微笑む彼女に悠馬の胸は締め付けられる。
悠馬は黒峯ヶ丘に残ると言った。
亜里沙は驚いた。そして、どこかで怖かった。
悠馬の目に陰が現れ始めたのはこの頃からだった。
母が死に、妹が死に、恨んでいたとはいえ祖母も死んだ。
悠馬の父は逃げていった。
暗い陰が灯るのは当然だ。
亜里沙は待った。悠馬に弱音を吐いてほしかった。
少しでもその陰を吐き出してほしかった。
だけど、いつまで経っても悠馬はそうしてくれなかった。
ある晩のことだ。
借りたノートを返しに行こうとした。
悠馬がジャケットを着こみ、山道へ歩いていくのを見た。
嫌な予感に後をつけると、山頂に着いた。
そこには廃神社があり、悠馬はやすやすとそこに入って行った。
その雰囲気は独特で、呪われるという迷信もあながち間違いではなさそうだった。
怖気付いた彼女の足はそこで止まった。
「聞こえてきたのは悠馬の話し声だった」
内容までは聞き取れない。
だが、話しているのは悠馬だけだった。
話し相手は、きっと、いない。
なのに、悠馬の声は弾んでいて、楽しげだった。
恐ろしくなって亜里沙は山を下った。
夜、悠馬が出かけていくところを何度も自室の窓から見た。
きっと山頂に行くのだろう。そう思うたび寒気がした。
「そして、あの日がやってくる」
朝から悠馬の様子がおかしかった。
顔が青白く、その瞳に生気がなかった。
何を言っても大丈夫と答える悠馬の笑顔は異常なほど明るかった。
いつもの下校時間がやってくる。
学校でも調子が悪そうだった。
ケーブルカーを降りた時、悠馬が咳をした。
口から流れたのは黒い血だった。
救急車を呼ぼうとした亜里沙を悠馬が止めた。
黒い血のついた手で、スマホを握る亜里沙の手を掴んだ。
皆には秘密、と悠馬は笑顔を見せた。
亜里沙の手に黒い染みができた。
「そこから浸食が始まった」
集落の人間が黒い染みに悩まされ始めた。
その染みは見る間に集落中に広がった。そして、人々の全身に広がり始めた。
亜里沙は悠馬の身を案じて、彼の口から出た黒い血のことは黙っていた。
だが、だんだんと嫌な笑みを見せ始めた悠馬を静観することはできなくなった。
話がしたい、と亜里沙は言った。
山頂の廃神社で待ち合わせよう、と悠馬は応えた。
初めて足を踏み入れた廃神社はひどい有様だった。
その神社は赤黒かった。
鳥居からは血が滴り、壊れた祠から目が覗いている。
足元には黒いぬめりを帯びた何かが這いまわり、地面が口を開いた。
それを背景に悠馬は笑った。
もう、自分の知っている悠馬ではなくなっていた。
恐ろしくなって後退り、そして、足を踏み外した。
悠馬の叫び声を最後に、気を失った。
「私も狂った悠馬から逃げ出した」
彼女の言葉に悠馬は目を伏せた。
気付けば亜里沙は吉駒市の病院にいた。
頭を強く打ったらしく、二週間ほど意識がなかったそうだ。
一命はとりとめたが、その頃にはもう黒峯ヶ丘は存在しなかった。
誰も立ち入ることができない場所になっていた。
「そこから、まあいろいろあって。今はバイトをしながら黒峯ヶ丘のことを調べてるって感じかな。その関係で悠馬にたどり着いたの」
疲れたようなその顔はこれまで彼女がどれだけの苦労を重ねてきたのかを教えてくれる。
親兄弟も知り合いもいなくなってしまったのだ。
さぞ心細かっただろう。さぞ辛かっただろう。
だが、彼女は一つかぶりを振ると俯くように丸くなっていた姿勢をもう一度正した。
「ねえ、お願いがあるの」
彼女のまっすぐな瞳が悠馬を見据える。
「悠馬を止めたい。ううん、取り戻したい。その手伝いをしてほしい」
彼女は亜里沙ではない。
自分の知る高梨亜里沙ではないのだ。
「お願いします」
だが、その意志の強い目は亜里沙だった。
亜里沙でしかなかった。
悠馬はその頼みを断ることができなかった。
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