第27話 それはすでに化物で

 後ろからついてきた足音が止まる。

 無邪気なその声に振り返ると、先生は悠馬を見据えた。

 その目に敵意はない。


「悠馬、こっちにおいでよ。亜里沙なんか捨ててさ、一緒に楽しいこと、しよう?」

「断る」

 

 今度ははっきりと声に出せた。それに安堵した。

 だが、先生はその目を柔らかく細める。


「悠馬は俺で、俺は悠馬だ。やめておきなよ。また後悔することになるよ」

 

 見透かしたような言葉に心臓が跳ねた。

 先生のように復讐に走らなかったことを何度も後悔した。


「馬鹿! 悠馬をお前と一緒にするな!」

「一緒だよ。あ、そうだ!」


 先生が手を打った。小気味よい音が赤黒い世界に響く。


「せっかくの機会だし、亜里沙に篠倉悠馬を教えてあげよう」

「やめろ」


 喉奥が締め付けられるような声が出た。悠馬の息は浅くなる。


「どうせ隠し切れないよ」

「やめろ!」


 叫ぶ悠馬を無視して、先生は饒舌に話し出す。


「亜里沙、悠馬はこの集落を憎んでいる。まあ、これは知っているかもしれないね」


 悠馬は地面を蹴った。先生に飛びかかる。

 だがそれを余裕ありげに避け、先生は続ける。


「復讐したくてたまらないんだ。この集落の人間に苦痛を与えたいんだ。その機会をずっと待っていた」

「違う」

「だから、今回のことも本当はどこかで喜んでいる」

「違う!」

「だったら、城山さん、あんなに必死に殺さないよね?」

 

 言葉に詰まってしまう自分がいた。

 亜里沙がこちらを見ている。

 その視線が突き刺さる。


「悠馬はね、亜里沙も憎んでいるんだよ」

「ボクも……?」

「そう。亜里沙も。だって、亜里沙は高梨家の大事なお嬢さんだ。ねえ、亜里沙、知ってる?」

「黙れ!」


 悠馬は先生に拳を突き出す。

 それも軽々しくいなされ、悠馬は体勢を崩す。


「悠馬が亜里沙と一緒にいるのはね、亜里沙を利用するためだよ」

「え?」

「亜里沙を幸せにした後、裏切ってどん底に突き落とそうとしてるんだ」

「そ、そんなわけないだろう! 悠馬がそんなこと、そんなこと!」

「俺は篠倉悠馬だ」


 先生の言葉に亜里沙が一瞬、黙った。

 もうこれ以上、喋らせてなるものか。


 悠馬は立ち上がると、先生の膝めがけて蹴りを入れる。

 当たった。

 だが、先生は笑うばかり。


 アンデッドと同じなのだ。

 彼は化け物で、痛みを感じないのだ。

 勝ち目などない。

 

 悠馬は一歩一歩後退する。

 背中に何かが当たった。

 亜里沙の小さい身体だ。


 彼女が不安げに悠馬を見上げる。


「違うよな? そんなこと、ないよな……?」


 頷こうとした。だが、首に冷たいものが触れた。


「下手に動くと死ぬから、やめときなよ」


 後ろから聞こえる先生の声に悠馬の身体が強張る。

 首に当てられた冷たいものの正体は分からない。

 だが、顔を青くする亜里沙と脅すような先生の言葉から、動けば命がないことは分かる。


「さあ、亜里沙。選択肢をあげるよ」

「やめろ」

「悠馬は黙っておいてね」


 首に痛みが走る。

 冷たいものが微かに首を滑った。

 切れ味のいい刃物が、悠馬の皮を軽く裂いた。


「亜里沙、こちら側に来たら悠馬を助けてあげるよ」

「なるほど。ではボクはどうなる?」

「殺しはしない。自分に正直になった悠馬をただ見続けてもらう。それだけ」

「駄目だ。亜里沙、こんな奴の言葉なんか聞くな……」


 首を切られようとも、悠馬は声に出す。


「逃げろ、亜里沙! 逃げてくれ!」

「でも、ボクは悠馬に死んでほしくないんだ」


 涙を浮かべた亜里沙が一歩前に進む。

 先生と距離が近づく。


「たとえ、悠馬がボクを憎んでいたとしても、ボクは君に死んでほしくない」

「だってさ、悠馬。一世一代の告白だ。どう返す?」

「分かった! お前の言う通りにしてやる! だから、だから亜里沙だけは!」

「ふはははははっ!」


 先生は狂ったように笑った。

 そして、不気味な笑い声を収めないまま、亜里沙の手を引いた。


「綺麗だ、綺麗すぎるよ、悠馬。だから、突き通してみろ」


 悠馬の首からナイフが外れた。

 代わりにそれは亜里沙の頬を裂いた。


 先生が指を噛み切る。

 亜里沙の傷口に黒い血を擦り付けた。

 

 一瞬の出来事だった。

 

 悠馬はこの時のことを何度も思い出すことになる。

 亜里沙の身体がまるで糸の切れた操り人形のように落ちる。

 そして赤い血を吐く。


 解放された悠馬はそんな亜里沙を抱きかかえ、何度も何度も揺さぶる。


「さあ、亜里沙。本能のままに動けばいい。理性を失ったんだ。何をしたっていいんだよ」


 まるで機械のように硬い動きで亜里沙が顔を上げる。

 白目と黒目が反転していた。


 悠馬は思わず手を離した。

 支えを失った亜里沙の頭が地面を打つ。

 

 それには何の反応も示さず、関節を一つずつ動かすような、奇妙な動作で亜里沙は立ち上がった。


「あはは、ははははははっ!」

「あ、りさ……?」

「ユうま! 欲シい! 君ガほしイ!」


 絶叫に似た声を上げ、亜里沙が悠馬に手を伸ばした。

 思わず避けた。

 だが、手首を掴まれる。


 その手の力は強く、暴力的で、爪が食い込み、悠馬の手から血が流れた。


「熱烈だな」


 目を丸くして先生は呟いている。

 その様子を冷静に横目で確認している自分がおかしいことに気付きながら、それでも、冷や汗が湧いて出る。


「悠マ、ゆウま、ユウ馬、ユウま!」


 壊れたように繰り返す亜里沙の腕を強引にほどく。

 遠い感情が警告を鳴らしている。


「ちょーダイ。ねェ、ユうマ。全ブ、チょうだイ?」


 狂気をはらんだ目に負けた。

 

 悠馬はもうそれを亜里沙として見ることができなかった。

 それは、化け物だった。

 

 背を向けて走り出す。

 もう逃げる先は踏切の向こうしかない。

 

 赤黒い世界に飛び込む。

 アンデッドは徘徊している。


 隠れる。

 亜里沙の声が聞こえる。

 

 逃げる。

 隠れる。

 逃げる。

 隠れる。

 逃げる。

 

 どこにいたとしても必ず見つけ出される。

 分かっていても足を止めることができない。

 

 狂った景色の中、桜を見た、紅葉を見た、普通の景色が広がっていた。

 だけど、そこも先生の領域で、目が反転した亜里沙はいつまでも追ってくる。

 

 線路がうねったケーブルカーの乗車口に着いてしまった。

 ケーブルカーこそが集落の入口であり、出口だ。

 終着点はここだ。

 

 亜里沙の奇声が聞こえ、悠馬は錆びたケーブルカーの車体に身を隠す。

 ここで見つかったら終わりだ。

 ケーブルカーの座席に潜り込む。


 血の付いた手がざらりとした床に触れ、痛みに顔をしかめる。

 だが、見つかりたくなかった。

 今は追ってくる亜里沙が一番怖かった。


 化け物になったとしても亜里沙は亜里沙だ。

 なのに、逃げ出してしまった自分が情けなくて仕方ない。

 それでも身体は恐怖に震える。

 

 化け物の叫びが聞こえた。

 悠馬は祈るように繰り返す。


「動け、動け、動け、動け」

 

 どこでもいいからここから遠くへ行きたい。

 ケーブルカーで山を下って。


 ああ、そうだ。

 山の下で何事もなかったかのように。

 

 大きな音が鳴った。錆びた音が響き始める。

 車体が大きく揺れ、ケーブルカーが動き始めた。

 

 唖然としたのもつかの間だった。

 揺れがひどくなってくる。悠馬はとっさに手すりを掴んだが、古びたそれは簡単に折れた。

頭に強い衝撃が走った。

 

 白んでいく景色の中、赤黒い世界が少しずつ遠くなっていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る