第22話 その境内には
狂気の世界が秩序を取り戻した。
二人の足は自然と速くなる。見慣れた山道が見えてきたのだ。
石の鳥居に、朽ちた祠、切れたしめ縄は自分たちのいる世界と何ら変わらずそこにあった。
どくん、と心音が鳴った。
亜里沙の手をほどき、祠の裏に駆けた。
先生はあの時、アレを口に含んだはずだ。そして、力を手に入れた。
心音は近くで鳴っている。核になる心臓はきっとここに残っている。
後ろで黒猫がニャーと鳴いた。
何もなかった。
呆然と立ち尽くす悠馬に亜里沙が並ぶ。
「何もない」
「何もないね」
亜里沙の声にも、悠馬自身のその声にも、落胆が滲んでいた。
亜里沙が辺りを見渡す。
「もう少し調べてみよう」
悠馬は頷くと、亜里沙と共に境内を回る。だが、何もない。
猫は暢気に毛づくろいを始めた。
アレの影はどこにもない。なのに、また心音が聞こえてくる。
それは近くで鳴っているような気がする。
じっとりと嫌な汗が額に浮いた。
視線を移す。黒猫の方に足を進める。
悠馬はポケットの中でナイフを抜き身にする。ナイフを取り出し、それを振り下ろした。
猫が身をひるがえす。ナイフは空を切る。
ケタケタ笑いが聞こえた。それは猫から放たれている。
その黒い毛皮が背から裂けた。
まるで脱皮をするかのように中から人の頭が出てくる。
猫の皮を引き裂いて出てきたのは先生だった。
「惜しかったね、悠馬」
先生は大きく伸びをし、そう言った。
亜里沙の顔が絶望に染まっている。
それもそうだろう。撫でていた猫が先生だと分かったら正直気持ち悪い。
先生は悠馬と亜里沙の顔を交互に見やると、満面の笑みを浮かべた。
「いい顔だねぇ。残念だけどここには何もないよ」
「では、ボクたちをここに案内した理由を教えてもらおうか」
「うん? 暇つぶし」
亜里沙の怒りの滲んだ声に、先生は楽しそうに答えた。
まるで脅威とみなされていない。
先生の舐め切ったその態度に自分たちの無力さを痛感させられる。
「アレを殺しに来たんだろう? あの化け物さえ殺せば何とかなると」
「ああ、そうだ。その通りだ」
「お気の毒様」
先生は眉を八の字にして、それでも口には嘲笑を浮かべ、白いカッターシャツのボタンをはずした。
はだけた胸に見えたものに思わず息を忘れた。
「化け物はここにいる」
そこには黒い心臓があった。根を張っている、と言った方が正しいだろうか。
グロテスクに飛び出たそれが脈を打つ。
どくん、と心音が鳴った。
「アレを喰った」
先生がいそいそと服を整え始める。
カッターシャツのボタンを下から閉めていく。
何も残らない境内が気味悪くて仕方なかった。
アレと対峙し、自分の頭の中に流れたのはその一部を取り込む映像だ。
なのに、ここには跡形もない。
ボタンを止め終えた先生が襟元を正す。
「すっごい不味かったのにさ、食べる手が止められなくて全部食べちゃったんだよね。悠馬がこっちの世界に来るって知っていたら、残しておいたのに」
ため息をつきながら先生は悠馬を見やる。
「食べなかったの? アレ」
「殺した」
先生が目を見開いた。
そして、突然狂ったように笑い始める。
「あははは! そういうことか! 悠馬は! お前は! あの時、間違った道を選んだ篠倉悠馬か!」
先生は腹を押さえ、目にたまった涙を拭う。
「そうか、そうか。なるほどね。だからそんなに辛そうなんだ」
「は?」
「自分を押し込めて、嘘をついて。あはは! 駄目だ、また面白くなってきた!」
早くここから逃げ出した方がいいだろう。
隣に立つ亜里沙の手を握る。二人で頷き合う。
だが、後ろには地面がなかった。
「悠馬、ありがとう。すごく面白かった。代わりにいいものをあげるよ」
空から紐が下りてきた。それが首に絡みつく。
上に引っ張り上げられたなら、死ぬ。
横では亜里沙もまた、紐を結わえられていた。
「さあ、行こうか」
悠馬たちは敗者だった。
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