第三章

第20話 何の変哲もない黒猫

 午前五時に踏切前で二人は合流した。

 

 動きやすいスニーカー、いつでも捨てられるような褪せたパーカーを羽織った。

 亜里沙も似たようないで立ちだった。


「踏切は開くだろうか」

「開くよ、きっと」


 先生は悠馬があの世界にやってくることを望んでいる。

 先生の思い通りに動く世界だ。開かないはずがない。

 やはり、踏切は二人を迎え入れるかのように遮断機を上げた。


 亜里沙と頷き合い、一歩踏み出した。

 踏切の中央で足を止める。


「やっぱり帰ってくれないの?」

「当然だ」


 強く言われてしまえば仕方ない。

 一人で行く作戦をいくつも考えたが、亜里沙に言われてしまった。

 もし悠馬が一人で行くようなことがあれば必ず追いかける、と。

 

 亜里沙一人であの狂った世界を彷徨わせるなら、まだ二人の方がいい。

 いざとなった時に自分を囮にして亜里沙を逃がすことができるからだ。


 踏切を越える。目の前に赤黒い世界が広がる。

 全てが夢であれば。そんな淡い期待は粉々に砕け散った。

 

 相も変わらずアンデッドたちが徘徊し、地面はぬかるんでいる。

 空には膜が張ってあり、波打っている。

 

 悠馬たちは音をたてないように、ゆっくりと林の方に移動する。

 アンデッドたちから身を隠すと、亜里沙が大きく息を吸い込んだ。

 そして、悠馬を見上げる。頷く。二人で山を登り始めた。

 

 悠馬と亜里沙は山頂を目指していた。

 何かあるとすればあの廃神社しかない。

 少ない手がかりの中導いた拙い答えだった。

 

 山道の入口を探す。この世界は狂っているとはいえ、黒峯ヶ丘と鏡合わせの形をしている。

 方角さえ間違えなければ、たどり着くはずだ。

 

 それにしても、アンデッドの数が増えている。

 呻き声や意味のない笑い声を上げるそれらを横目に前へ進む。

 迷彩柄の服を着た群団が見えた。

 

 先生がお客さんと言っていた自衛隊だろうか。

 ならば、不味い。


 お客さんが片付いたら悠馬の世界にやってくると言っていた。

 もう一刻の猶予もない。

 

 今日で終わらせる。

 悠馬は固く誓った。

 

 だが、歩けども歩けども目的の場所は見えてこない。

 亜里沙が不安げに辺りを見渡す。

 

 場所としては合っているはずだ。

 だが、その入り口が見当たらないのだ。

 あるとすれば、黒々とした闇だけ。

 さすがにそこに踏み込む勇気はないようだ。

 

 悠馬は亜里沙の前に出る。

 恐ろしいとは思っているが、いつものように感情は乖離している。

 ならば自分が行けばいい。


「行ってくるね」


 亜里沙が首を横に振る。

 刹那、上空に巨大な何かが横切った。自然と顔は上を向く。

 

 大きな鳥がそこにはいた。三メートルほどありそうだ。

 目玉が飛び出ている。皮がむけている。肉から血が滴っている。

 足は白い骨で、飛び出た目がこちらに向いた。

 

 きっと喰われるのだろう。

 冷静にそう思った。


 亜里沙を突き飛ばす。鳥が高度を下げてくる。大きなくちばしを開く。

 その光景がスローモーションのように見えた。

 

 亜里沙が悠馬の名を叫んだ。

 目を閉じる。

 

 このまま死ぬのか。

 他人事のように思った。


「シャー!」


 いつまで経っても衝撃は来なかった。

 代わりに聞こえてきた動物の威嚇に目を開ける。


 目の前に一匹の黒猫がいた。

 

 それはどこからどう見てもおかしなところのない普通の猫だった。

 この狂気の世界で初めて見た化け物ではない動物だ。

 

 だが、そんな小さな存在に恐れをなしたのか、怪鳥はそのまま空へ飛び立ち二度と降りてくることはなかった。

 

 亜里沙が悠馬の元へ駆けてくる。

 その頭を強く悠馬の胸に押し付けた。


「馬鹿」

「ニャー」


 猫の鳴き声に亜里沙は顔を上げ、しゃがみ込む。

 小ぶりなその猫に亜里沙は手を伸ばし、優しく触れる。


「助けてくれてありがとう」 

「それも化け物かもしれないよ」


 見た目は確かに普通の猫だが、こんな世界にまともな生物がいるはずがない。

 訝しむ悠馬に亜里沙はむっと眉間にしわを寄せる。


「命の恩人に向かってそれはないだろう」


 その猫がいなければ死んでいたのは確かだが、どうも信用できない。

 だが、亜里沙はすでにその猫に心を開いてしまったようで、のど元を撫でては笑顔を見せている。


「君はここの猫なのか?」

「ニャー」

「山頂への道を知らないか?」

「知らないよ、きっと」


 悠馬はため息をつき、深い闇の方を見つめる。

 あの中にきっと答えがある。

 

 亜里沙は名残惜しそうに猫と戯れるのをやめると、悠馬と同じく闇の方を見つめた。


「さあ、行こうか」


 結局、亜里沙も行くことになりそうだ。悠馬は半ば諦め、足を前に向ける。

 すると、黒猫がすました様子で前を歩き始めた。


「道案内をしてくれるのか?」


 亜里沙が目を輝かせる。猫は応えるようにひと声上げた。

 こんな都合のいいことがあるだろうか。

 悠馬の疑念はさらに膨らむ。

 だが、亜里沙は猫の目を見てお礼を言っている。


 さすがに呆れてしまうが、考えてみればそうだ。

 猫がいてもいなくても行く道は同じだ。

 もう一度声をあげた猫に続き、二人は歩き始める。

 

 どこかから、どくん、と心音が聞こえた。


「!」


 悠馬は驚き、足を止め、素早く辺りを確認する。

 あの化け物の心音だ。


「どうした?」


 以前ここに来た時もそうだった。

 あの心音は亜里沙には聞こえていないらしい。

 だが、この音が聞こえるということはアレが近い証だ。


 猫がまた鳴く。

 どこから聞こえたか分からない心音を不気味に思いながら、悠馬は首を横に振り、再び歩き始める。


 この先にアレがいるとすれば、自分たちの行く道は間違いではないのだ。

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