第17話 山頂へ向かう

 十一月の夜は冷え込む。

 

 悠馬はかろうじて道だと分かる荒れ果てた山道をスマホの明かりを頼りに登っていく。

 急斜面に散らばった枝木、右手には柵などなく、足を滑らせれば暗い山坂に落ちていく。

 行く手を阻む枝を折りながら悠馬は進む。

 

 あの日まで毎日この山道を通っていた。

 あの頃はもう少し、道らしき道があったのだが。

 

 白い息を吐きながら足を前に出す。

 目指す先はこの山の頂上、ケーブルカーも通らない場所だ。

 

 この集落に来た頃、一度だけ父に言われた。山頂へは近づくな、と。

 だから、悠馬は近づいた。

 

 母と妹が死んだ。父は家へ寄りつかなくなった。悠馬は一人取り残されたリビングで吐いた。

 家にいるだけでたまらなく気分が悪くなり、それでも、この場所に留まることを決めた。

 この集落に復讐すると誓ったからだ。


 それでも逃げ出したくなる時はある。

 

 だが、この集落から逃れる手はケーブルカーしかない。夜になれば止まってしまう。

 誰にも会いたくない。誰にも見つかりたくない。ならば、山頂しかない。

 

 悠馬は暗い山道を登っていった。

 行きついた先には石でできた鳥居があった。

 足を止めた。

 

 その神社は荒廃していて、あまりにも不気味だった。

 朽ちた祠に、切れたしめ縄、山頂だというのに空気は淀んでいる。

 地面に生した苔は湿り気を帯びていた。

 

 祠の向こうで何かが蠢いたのが見えた。

 それが何かよくないものであると直感的に悟った。

 

 逃げ出そうとした悠馬の耳が、いや、身体がその音を拾った。

 どくん、といった心音を。

 

 その音は悠馬をひどく惹きつけた。自分の中の感情に共鳴したのだ。

 この心音は怒りだ。憎しみだ。

 気付けば足がそちらに向いていた。


 そして、ひざ丈ほどの化け物に出会ったのだ。

 

 あの日のことをありありと思い出し、悠馬は深く息を吸う。

 あの時、自分が感じたのは喜びだった。

 やっと理解者に出会えたと思った。

 それは実際、そうだったのかもしれない。


 それでも、怒りや憎しみに囚われてはいけなかったのだ。

 

 後ろで枝が割れる音がした。悠馬は身を強張らせる。

 誰かにつけられている。

 足を速めても、後ろのそれはついてくる。


「うわっ!」


 聞き覚えのある声に思わず振り返った。

 身体より幾分も大きなジャケットを無理に羽織ったそのシルエットに悠馬は足を止める。

 スマホで声のした方を照らした。

 まぶしそうに目を細めたのはやはり、亜里沙だった。


「何をしてるの?」

「悠馬こそ何をしているんだ」


 問いに答える気はなかった。


「帰って」

「嫌だ」

「ついてこないで」

「嫌だ」


 無駄な押し問答を続ける。だが、今回は引き下がるわけにはいかない。

 それでも亜里沙が頷くことはなかった。

 それどころか更に足を進め、悠馬の隣に並ぼうとする。

 

 この先に亜里沙と共に行くことはできない。

 今日のところは諦めるしかない。

 悠馬は一歩、山の下の方に足を出す。


「亜里沙、帰ろう」

「この先に何かあるのだろう?」


 その通りだ。

 だからこそ、亜里沙を連れていきたくない。


「帰るよ」 


 隣に並んだ亜里沙の手を掴み、悠馬は彼女を引きずるように山を下り始める。

 亜里沙が強く手を払った。


「どうして」


 前を向いたまま、その言葉を背に受ける。


「どうして悠馬はボクに何も言ってくれないんだ」


 亜里沙が大切だから。


 口に出そうになった言葉を喉で押しとどめた。

 先生の言葉がよみがえってくる。

 亜里沙の前で篠倉悠馬を演じればいい、と。

 

 そうだ。

 これは演技の自分だ。

 本当の自分ではない。


「悠馬を大切に思ったら駄目なのか?」

「駄目だよ」

 

 今度は振り向いて、はっきりと言葉にした。

 これは揺らがない思いだった。


 亜里沙がこんな自分を大切に思っていいはずがない。


 スマホの光がはっきりと亜里沙を映し出す。

 目に涙が光っている。


「どうして?」

「亜里沙は知らなくていいことだよ」

「教えてくれ」

「俺が知られたくないんだ」


 亜里沙はこぶしを握り、唇を固く結ぶ。

 その小さな身体を震わせ、顔を上げた。


「なら、踏み込んでやる!」

 

 言葉は強く放たれた。


「悠馬が嫌がったとしても、たとえ、悠馬に嫌われたとしても」


 亜里沙の語調は徐々に弱くなっていく。


「悠馬には悠馬でいてほしいんだ……」


 何も言えなかった。

 亜里沙との別れの時が近づいていることを強く感じた。


 篠倉悠馬は亜里沙が思うような人間ではない。

 それが近いうちに晒されてしまう。

 だが、仕方のないことだった。

 

 自分が今何を思っているのかよく分からなかった。

 きっと、これは一人になった時に痛みとして現れるのだろう。

 他人事のように思いながら悠馬は頬笑む。


「亜里沙、駄目だよ」

「何がだ」

「俺に踏み込んでも、亜里沙は幸せになれないんだよ」


 四年前の桜の頃を思い出す。


 篠倉一家は祖母との同居のため、父の故郷である黒峯ヶ丘に引っ越してきた。

 中学一年生だった悠馬はこの土地に馴染めずにいた。

 

 咲き誇る桜の下でぼんやりと花を眺めていた。

 そんな悠馬の顔を興味深げに覗くものがいた。それが亜里沙だった。

 

 母と妹が死んだ。父は戻らなくなった。一人になった悠馬の隣にはずっと亜里沙がいた。

 その存在にどれだけ救われたことだろう。

 

 だから、悠馬は口にする。


「俺は亜里沙に幸せになってほしいんだ」


 本心だった。

 こんな醜い自分から離れてほしかった。


 一方でそう思えない自分がいることも悠馬はよく知っている。

 まだ、亜里沙と共にいたい。

 

 だけど、それだけじゃない。

 母を追い詰めた高梨家の人間に幸せになってほしくない。


「ついてきちゃ駄目だよ」


 悠馬は再び山を登りだす。

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