第15話 包丁を持つということ
「悠馬、しっかりしろ」
亜里沙に背を叩かれて我に返る。
写真の光景に呑まれかけていた自分に気付いた。
それは先生の言葉に呑まれることでもある。
悠馬は深く息を吸い、亜里沙と共に先生を睨む。
「こっちの世界もそうしてあげるよ」
「させるか!」
亜里沙の言葉を先生が鼻で笑う。
「ただの人間に何ができるの?」
「できることはある」
悠馬は立ち上がった。
不安げにこちらを見上げた亜里沙に微笑み、キッチンに向かう。そして、台所の収納スペースから包丁を取り出した。
それを右手に持ち、机に戻る。
素早く先生の横に立ち、包丁を突き出した。
心臓を狙ったが、それは身を避けた先生の肩に刺さる。
「あはは! いいねいいね!」
ひるみもせず、痛がりもせず、先生はただただ笑った。
悠馬はそれを無視し、包丁を引き抜く。黒い血がフローリングに飛び散る。
亜里沙の叫び声が遠くに聞こえるが、聞こえないふりをした。
先生の傷はあっという間にふさがっていく。悠馬はもう一度包丁を振りかざす。
だが、先生はそれを素手で掴んだ。
手のひらから真っ黒な血が流れだす。
「残念ながら、これじゃあ俺は殺せないよ」
包丁は強く握られ、動かない。
悠馬は奥歯を噛みしめながら荒い息をこぼす。
「思ったより面白いな。こっちの篠倉悠馬も」
先生が手を捻る。
「この包丁は折れる」
軽い音を立てて、まるで木の棒のように包丁は折れてしまった。
刃先を持った先生はそれを悠馬に向ける。
「今こっちに来ているお客さんを取り込んだら、次はこちらの世界に来るよ」
「来るな」
「いいや、来る。悠馬を解放してあげよう」
手に持った刃を先生は口元に持って行った。そして、それを噛み砕き、呑み込んだ。
舌なめずりをして、不気味に笑う。
「それまでせいぜい、亜里沙の前で篠倉悠馬を演じるといいよ」
先生は背を向け、リビングの扉に手をかける。
悠馬はもう一度キッチンに走り、もう一本の包丁を手にした。
先生が廊下に出る。
踏切を渡る前に殺してしまえばいい。
だが、悠馬の前に亜里沙が立ちはだかった。
「邪魔なんだけど」
苛立った声に小さく身を震わせながらも亜里沙は悠馬を見据える。
「悠馬を人殺しになんかさせない」
「あれは化け物だ」
「駄目だ!」
亜里沙が叫んだ。まっすぐな目が縋るように悠馬に向けられる。
「悠馬、お願いだからそんな怖い顔をしないでくれ……」
廊下とリビングを隔てる扉のガラスに悠馬の顔が映った。
それはあの日の母の顔と同じだった。
扉が閉じる音がする。先生は帰っていった。
リビングに沈黙が訪れる。
ナイフを持ち、亜里沙と向かい合っている自分が恐ろしく、悠馬はおぼつかない足取りでキッチンに包丁を片付ける。
「殺してはいけない」
亜里沙が声を絞り出す。そして、俯いた顔を勢いよく上げた。
「だけどボクたちが何とかしなくちゃいけない」
力強く放たれた言葉。
悠馬はキッチンのカウンター越しにそんな亜里沙を見やる。
どこまでも真剣なその表情に首を横に振った。
「駄目だよ」
「どうしてだ? あの男はボクたちに興味を持ったわけだ。なら――」
「死なない方が大切だ」
亜里沙が息を呑んだ。
分かっている。
これはとても卑怯な言葉だ。
悠馬は母と妹を失っている。
身近な人を亡くしたことのない亜里沙に返す言葉はないだろう。
「……。悠馬の馬鹿」
亜里沙が背を向け出ていった。
一人になったリビングで悠馬は天を仰いだ。
先生に対する苛立ちが湧く。亜里沙に対する苦しさが湧く。感情が押し寄せてくる。
叫びだしたい気持ちを抑え、悠馬は洗面所に向かう。雑巾を手にした。
こぼしたお茶も先生の黒い血も拭かなければならない。
いや、まず割ったカップを処理しなければいけないか。
頭がうまく回らない。雑巾を手にリビングに戻り、意味もなく椅子に座った。
机の上の写真立てが目に入る。
ガラスが天井のライトを反射し、中身はよく見えない。
写真の中ではまだ殺し合いが続いているのだろうか。
陰惨な光景をわざと目に焼き付けるため、悠馬はそれを引き寄せた。
殺し合いは終わっていた。代わりにただただ赤い肉塊だけが映り込んでいた。
悠馬は写真立てごとそれをゴミ箱に投げ入れた。
掃除を始める。
地面に散った先生の黒い血に触れてみたが何も起きなかった。
それは鉄くさく、色こそ違えど何の変哲もない血のように思えた。
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