第二章

第12話 戻ってきた日常

 高校生の昼休みは忙しい。


 次の時間は古典の授業で、開始早々単語テストがある。

 悠馬は友人と、勉強という名のおしゃべりをする。

 内容はたわいないもので、正直、何も学べていない。

 

 だが、悠馬にとって何よりも心地よいのはこの時間だった。

 今だけは、黒峯ヶ丘で蔑まれる自分でも、亜里沙の隣にいる自分でもない。

 何物にも囚われない、ただの高校生でいられる瞬間だった。

 

 教室の扉が乱暴に開かれる。現れたのは亜里沙だ。

 見るからにむくれていて、何か気に入らないことがあったのは明らかだ。

 

 そういえばこの間、二者面談で担任と喧嘩をしたと言っていた。

 また職員室に呼び出されるとげんなりしていたのを思い出す。


「可愛いのにな……」


 悠馬の隣で友人が呟いた。

 

 そうだ、亜里沙は可愛い。誰もが認める美少女だろう。ただ、変わり者だ。

 よく教師に突っかかる。それがまた、正論だから教師は亜里沙のことを煙たがっている。

 そんなものだから、友人もなく学校では一人で過ごしている。


 それを亜里沙がどう考えているかは分からないが、時折、ちらりと悠馬を見るあたり、本当は寂しいのではないかと思っている。


「ちょっとお菓子をあげてくる」


 小声で友人に告げる。

 新しく買ったリュックを漁り、中から大玉のソーダ飴を取り出す。


「本当に付き合ってないのか?」

「付き合ってないよ」


 呆れ顔の友人に悠馬は首を横に振る。

 

 確かに距離は近いだろう。だが、きっと自分は亜里沙と付き合うことはない。

 いや、あったとしてもそれは利用し、貶めるためだろう。

 

 もうそれはやめだと誓った。

 あの日、あの場所でアレにとどめを刺して決めたじゃないか。

 

 そう自分に言い聞かせても、まだその可能性を頭に浮かべている自分がいた。

 やはり、憎しみを捨てられないのだ。


***


 学校帰りにはすっかり亜里沙は機嫌を取り戻していた。

 お昼にあげた飴は亜里沙の好きなものだ。どうやらあれが効いたらしい。


「あの担任は本当に使えないな」


 どうやら今日の呼び出しは教科書をなくした件についてだったようだ。

 川に落としたと二人は同じ証言をしたが、悠馬は難なく認められ、亜里沙は信用してもらえなかったそうだ。

 日ごろの行いの差か。

 

 亜里沙は今日もコンビニで買ったお菓子を手に笑顔を浮かべている。

 だが、その表情は亜里沙なりの精一杯の強がりだろう。

 

 あのグロテスクな別世界は二人に大きな打撃を与えた。

 亜里沙の目の下にはくまができている。きっと夜な夜な悪夢にうなされているに違いない。

 悠馬とて一人になるとあの恐ろしい情景と、先生の笑みが頭に浮かんで仕方なかった。

 

 心音に引き寄せられ、踏切を渡ってしまった。

 そのせいで亜里沙を巻き込み、おぞましい体験をさせてしまった。

 悠馬は自分自身を責めていた。


「ごめん」

「まだ言うか」


 個包装のチョコレートを一つ摘まみ、亜里沙はそれを悠馬に手渡す。


「二人で帰ってこれた。それだけで十分だろう」


 はにかみ笑ったその顔がとても愛しいと思った。

 だが、そう思うことすら苦しみに繋がっていた。

 

 いっそ亜里沙さえいなければ楽だったのに。


 そうとすら思う。

 ケーブルカーに乗り込み、いつもの最後尾の席に座る。窓の外を眺めている亜里沙を悠馬は見つめる。


 二度と先生には会いたくない。

 もし、自分の感情が晒されてしまえば、もう亜里沙と共にはいられないからだ。

 それが怖くて仕方なかった。

 

 だが、先生が存在しなくとも、いつか、亜里沙と顔を合わせることもできなくなる。

 その日が来るのだと悠馬は知っていた。

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