第11話 己を己たらしめるもの
鍵を開けてそっと開くと、綺麗に掃除された玄関と廊下が現れ、帰ってきたという確かな証拠をくれる。
リビングで二人、濡れたタオルで制服を拭く。色は薄くなったが完全には取れていない。
亜里沙が彼女自身の手を嗅ぐ。
「なんだか鉄臭くて嫌だな……」
「お風呂入る?」
「へ!?」
何気ない言葉に素っ頓狂な声を上げる亜里沙に首を傾げる。
ここのままじゃ気持ち悪いに決まっている。
自分も早く身体を洗ってさっぱりしてしまいたい。
亜里沙はまごつきながら、ぼそぼそと小さな声を上げる。
「その、ゆ、悠馬。風呂を使うというのはだな……」
「ちゃんと掃除してあるから大丈夫だよ」
この家は常に綺麗にしてある。
綺麗好きという訳ではない。生活感をなくしたいのだ。
自分は一人なのだと強く感じていたい。
亜里沙はしばらく俯くと、顔を真っ赤にさせて頷いた。
「使わせてもらおう……」
「バスタオルと俺の服を置いておくね。制服は一回洗って乾燥機にかけよう。生乾きでよければ、二時間もかからないんじゃないかな」
亜里沙が悠馬の家にしばらく留まるのはいつものことだ。
それくらいなら、亜里沙の家族にも何かを悟られることはないだろう。
亜里沙がすごすごと風呂場に向かったのを見送り、悠馬は棚からバスタオルと適当な服を取り出す。
制服のスラックスについた血が、廊下に線を作った。
あの日のことが嫌でも頭の中をよぎる。
悠馬はため息をつき、スエットのパジャマとバスタオルを手に洗面所に向かう。
「入るよ」
ノックをして返事を聞き終えた後、扉を開きラックに物を置いた。
向こうからシャワーの音が聞こえ、亜里沙の身体のラインが見えた。
さすがにいたたまれなくなり、悠馬は素早く洗面所を出る。
なるほど、亜里沙が気にしていたのはこういうことか。
だからといって、どうするということもないが。
悠馬はリビングの椅子に腰を掛けた。
いつもと変わりない部屋を見渡す。
先ほどまでおかしな体験をしていたとは思えないほど平和だった。
目を閉じるともう一人の自分の表情が瞼の裏に映った。
それは、普段見ることがない、だが、きっと一人の時間に自分が浮かべているだろう表情だった。
いや、表情だけじゃない。その行動も自分自身と同じではないか。
殺し合いをさせた。
そんなこと、頭の中では何回だって繰り返した。
この集落をめちゃくちゃにした。
それだって数えきれないほど頭の中で行った。
だが、あの世界ではそれが妄想ではなく、現実だった。
突然、全身が粟立った。
アンデッドたちの白黒反転した瞳、肉の道に、燃え盛る亜里沙の家、吹き出す血に、殺し合い。出されたコーヒーは赤かった。
もし、あのコーヒーを飲んでいたらどうなっていたのだろうか。
ふと、そんなことが頭に過った。
もしあの時、投げたリュックにアンデッドたちが食いつかなければ、もしあの時、亜里沙を連れて無理矢理踏切を渡ろうとしていたら。
そんな可能性が一気に頭に詰め掛けた。
いつも通りだ。
一人になってやっと実感が湧いてきたのだ。
もしもの可能性に身体を震わせ、心臓が強く脈を打ち始める。
息が浅くなっていく。
身体が震え、頭から血が下がっているのが分かる。
「風呂、ありがとう。さっぱりした」
後ろで亜里沙の声がする。だが、振り返る気になれなかった。
亜里沙は本当に無事なのだろうか。
もしかすると、今のは幻聴で自分はあの世界に亜里沙を置いてきたのではないだろうか。
もう一人の自分に殺されたのではないだろうか。
「悠馬?」
亜里沙が俯き震える悠馬に視線を合わす。そこには確かに亜里沙がいた。
彼女の手が悠馬に伸び、頭を撫でる。
「なんだ、今になって怖くなってきたのか?」
苦笑交じりのその言葉に悠馬はただ頷くしかなかった。
亜里沙が悠馬の隣に腰を下ろす。
「大丈夫。ボクも悠馬も無事に帰ってきたんだ」
苦しかった息が徐々に落ち着きを取り戻してくる。
何度も何度も深呼吸をすると、やっと心臓を締め付けるような早鐘も去っていった。
「仕方ない。今日はボクが紅茶を淹れてやる。ほら、早くさっぱりして来い」
亜里沙に背を押され、悠馬は風呂場に向かう。
洗面台の鏡に映った自分は先生と同じ顔をしていた。だが、表情は違う。
自分を失わないように、悠馬は鏡を見て深く呼吸をした。
先生と自分は確かに似ている。
あれが悠馬の真実の姿だと言われても、否定はできないだろう。
ただ、一つ違うことがある。
自分はあの時、あの道を選んだ。
亜里沙は殺さないために。
それだけが、今の悠馬を悠馬たらしめていた。
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