第7話 こちらの"自宅"

 家の玄関先の石畳に赤い苔が生えていた。

 ポストは口を開け、白い牙を見せている。

 壁には黒い蔦と目玉が群生し、どうしようもなく気味が悪い。


「いらっしゃい」


 彼が扉を引き、二人を中に招き入れる。


「沙幸さんは外で待っていて。後でどうするか決めるから」

 沙幸は涙を流し、その場に座り込んだ。

 それを見て、彼はさも愉快げに笑う。


「皆、沙幸さんが逃げないように見張っておくんだよ」


 アンデッドたちが沙幸を囲み、唸り声をあげている。

 手を伸ばそうとした亜里沙を悠馬は止め、首を横に振った。

 今の自分たちが助けられるものではない。

 唇を強く結んだ亜里沙の手を引き、扉をくぐる。


「靴はそのままでもいいよ。靴下、汚れそうだもんね」


 彼は玄関の段差を靴のまま乗り上げた。

 悠馬と亜里沙もそれに続く。


 外見の狂気に比べれば、建物の中はさほどではなかった。

 ただ、赤い液体が廊下に飛び散っているだけだ。

 だが、それは明らかにあの日の惨状を再現していた。

 不愉快な演出に悠馬は顔をしかめる。


「大丈夫。ボクがついているぞ」


 亜里沙が悠馬を見上げ、握る手に力を込める。

 恐れているように見えたのだろうか。

 そうだったら申し訳ない。

 今感じているのは、ただの不快感なのだから。

 

 いつも頭の中で浮かべている光景だ。

 それが目の前に現れただけ。

 それは映画のセットのように現実感がなかった。

 

 血まみれの廊下から、リビングに案内される。

 キッチンと一体になったその部屋は拍子抜けするほど普通だった。

 家具は綺麗に整頓されており、机に置かれた観葉植物は息吹を感じさせる緑色だ。


「まあまあ、座ってよ」


 彼は椅子を引き、席を勧める。

 アンデッドたちが窓の外で蠢いている。

 ここは下手に逆らわない方がいいだろう。

 悠馬が椅子に腰を掛けると、亜里沙も大人しく座った。

 

 電気ポットに水を入れボタンを押すと、彼は悠馬の前の席に腰を下ろした。


「改めて、その、誰?」


 困ったように眉を下げて尋ねてくる彼に真実を答える義理はない。

 そうしたいのはやまやまだが、下手に嘘もつけない。

 今、この世界のことを何も分かっていない自分たちは圧倒的に弱者だ。


「俺は篠倉悠馬」

「うん、予想通り」


 彼はにこりと笑う。そして、その目を亜里沙に移す。


「じゃあ、こっちは高梨亜里沙かな?」

「その通りだ」


 亜里沙が手を組み、小さく鼻を鳴らした。

 威張るようなその態度も小柄な亜里沙がすると、小動物の威嚇にしか見えない。

 こんな状況だが、少しおかしくなってしまう。

 

 思わずほころびかけた表情が固まった。

 目の前にいる彼がその表情をしていたからだ。

 そんなことも知らず、亜里沙は敵意をむき出しにして彼を睨みつける。


「ボクたちに名乗らせておいて、君の情報開示はなしか?」

「ああ、ごめんごめん」


 照れ臭そうに笑うその表情は悠馬に浮かんだことがないものだった。

 自分と同じながら、どこかずれているその存在は当たり前のようにその名を口にする。


「俺は篠倉悠馬」

「俺も篠倉悠馬だよ」

「でも、俺も篠倉悠馬なんだよなぁ」

「ややこしいな」


 亜里沙の声に悠馬と悠馬を名乗る彼は同じように笑った。

 そんな二人の顔を亜里沙が見比べる。

 もう一人の悠馬がそんな亜里沙を、目を細めながら見ている。

 彼は喉で噛み殺したような短い笑いを漏らした。


「俺のことは先生って呼んでくれたらいいよ」

「先生?」


 悠馬が問うと、彼、先生は頷く。


「皆にそう呼ばれているんだ」


 電気ポットが音を立て、湯が沸けたことを告げる。

 彼はカウンター裏側のキッチンに回り込み、食器棚を開ける。


「紅茶でいい? コーヒーもあるけど?」

「コーヒー」

「了解。亜里沙は?」

「得体のしれない奴の淹れた飲み物なんて飲まない」

「それもそっか」


 彼はあっさりとそう言い、二人分のカップを出した。

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