第3話 狂気の世界

「悠馬……」

 

 亜里沙に袖を引かれ、はっとする。

 心音に心を奪われていた悠馬は、やっと、視界に広がる悪夢のような光景に気付いた。

 

 ただただ、赤黒かった。

 空には黒い膜が張られ、太陽の光はない。

 だが、辺りは薄ら明るく、歩くのには困らない程度に光がある。

 

 地面は赤くぬかるみ、妙に弾力がある。

 視線を遠くに向けると、二メートルほどの白く四角い箱に、脈打つ蔦が絡まり、その隙間から赤い目玉が覗いている。

 

 悠馬の袖を強く握る亜里沙の手は震えている。

 それもそうだろう。

 こんな異様な体験をしているのだから。

 

 だが、悠馬にはやはり実感がない。

 だから、事を冷静に見ることができる。


「帰ろうか」


 亜里沙の手を包んだ。

 深呼吸をする。

 振り返り、駆け出し、踏切を渡ればいいだけだ。

 悠馬は自分にそう言い聞かせ、足を踏み出そうとした。


「っ!」


 悠馬は反射的に亜里沙の手を放し、突き飛ばす。

 横から飛び出してきたその人物は悠馬を組み敷いた。

 悠馬の額に冷たいものが触れる。

 

 目を見張った。

 銃口だ。


「動くな……!」


 こちらに覆いかぶさる男はひどく怯えている。

 手足は震えており、額に触れる銃口も小刻みに揺れ動いていて、照準が合っていない。

 次の瞬間には引き金を引かれるかもしれない。

 だが、悠馬は落ち着いていた。

 

 どうすれば、ここから逃れることができるだろう。

 いや、無理かもしれない。

 だったら、亜里沙だけでも逃げてもらおう。

 

 悠馬は男から目線を外し、亜里沙の方を見る。

 目を見開いた。

 亜里沙がこちらに突進してきたではないか。

 

 悠馬に集中していた男は亜里沙の脇腹へのアタックに簡単に屈した。

 男は地面に転がる。

 亜里沙は素早く悠馬に手を伸ばし、引き上げる。


「逃げるぞ!」


 後ろで大きな音がした。

 見れば、男の手に持つ銃から煙が出ていた。

 発砲したのだ。

 

 もしかしたら当たっていたかもしれない。

 そんなことを冷静に思いながら踏切を見ると、遮断機が下りていた。


「こっちだ!」


 亜里沙が悠馬の手を引く。

 向かった先はショッキングピンクの葉を持つ木々が乱立した林だった。

 自分たちが元来た踏切からは遠くなる。

 だが、まずはあの男から逃げなくてはならない。

 悠馬は亜里沙に任せて走り出す。


「みぃツけた」


 調子っぱずれの声が聞こえた。

 思わず振り返る。

 そして、赤黒い血が飛んだ。

 亜里沙の目元を覆う。

 

 先ほどまで悠馬に銃を突き付けていた、男の首がぬかるんだ地面に転がっていた。

 悠馬は亜里沙を抱え、近くの茂みに逃げ込む。


「なんだ――むぐっ!」


 亜里沙の口をふさぐ。

 男の首を飛ばしたそれに目を凝らすと見たことのある顔だった。

 先程まで共にケーブルカーに乗っていた岩口だ。

 

 彼はスーツ姿でいつも通りの風貌だ。

 だが、違うのは極端な猫背に、ふらつく足元。

 そして、何より、白黒反転したその瞳。

 それはゲームに出てくるアンデッドのようだった。


「みツケた、見つけタ、ミィつけた!」


 彼は狂たように叫び散らすと、男の首を掴み上げた。


「先生に、セン生に、センセイに見セよう!」


 動物がするように、男の髪を口にくわえ、四足歩行で走り去る岩口の後ろ姿を見送る。

 それはとても気持ちが悪い光景だった。

 だが、それはやはり実感ではなく、映像の中で気持ちの悪い生き物を見たような嫌悪感でしかなかった。

 

 だが、亜里沙にとってはそうもいかないようだ。

 顔を真っ青にして震えている。

 きっと、これが当然の反応なのだろう。

 

 踏切まではたった十数メートル。

 遮断機は下りているが、何かが通る気配はない。

 そのまま踏切内に入り込み、越えていけばいい。

 悠馬は辺りを用心深く見渡す。


「亜里沙、抱えるよ」


 返事を待たず、悠馬は亜里沙を持ち上げる。

 小柄な亜里沙を抱え込むのは簡単だった。

 

 踏切まで難なく到着した。

 だが、悠馬の足は止まる。

 遮断機の向こうに何かがある。

 それが何かは分からない。


 悠馬は亜里沙を下ろし、遮断機を潜り、踏切に足を踏み入れる。

 突風が吹きすさぶ。

 風圧に身体が飛び、遮断機に打ち付けられた。

 

 遮断機は折れることがなかった。

 それが痛みを増す。

 だが、このまま踏切内にいるのはどう考えても危険だ。

 悠馬は痛みに顔をしかめながら踏切から飛び出した。


「早く立て……」


 亜里沙の切迫した声に顔を上げると、そこには、集落の住民がいた。

 皆見知った顔だ。

 だが、見知らぬ姿でもあった。

 

 先ほどの岩口と同じく、アンデッドというのがふさわしい。

 更には目がえぐれていたり、脳が飛び出していたり、腸が垂れ落ちていたり、といった有様だ。

 アンデッドたちは一歩一歩、こちらに近づいてくる。

 

 悠馬はちらりと後ろの踏切を見やった。

 警報音はやはり鳴り響く。


「遮断機、上がるの待つ?」

「そんな悠長なこと言ってられるか?」


 亜里沙の声に少しの苛立ちが混ざる。

 悠馬は小さく笑った。


「それもそうだね」

「どうして笑うんだ!?」


 悠馬は右を指さす。

 そこには何もいない。

 亜里沙と頷き合い、二人は走り出した。

 踏切から遠ざかっていく。

 だが、今は逃げるよりほかはなかった。

 

 二人は狂気の世界に駆けだした。

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