第2話 自分の価値
見たことのない少女だった。陶器のように白い肌に、まるで紅を乗せたように色づいた唇。瞳は猫のように大きく少し吊り上がっており、気が強そうな印象を与えていた。何より、真っ黒な生地を使ったドレスはこの場に適していない。
「どうしてでしょう?」
リリアンが首をかしげて尋ねると、少女は息を吐いて肩をすくめる。
「神にできることなんて、何もないからよ」
少女はそう言って、リリアンに歩み寄る。歩くたびに二つに束ねた長い髪が揺れた。
「そんな神にすら頼らなければならないほど、あなたたちは弱いのね。……可哀想に」
彼女は右手を広げた。広げた手のひらに黒い砂のようなものが集まっていき、やがてそれは巨大で鋭利な鎌へと変わる。それを握り、リリアンの首元に向ける。
「…………っ」
リリアンは息を飲んで自分の首元を見た。白い首に冷たい刃が当たる。少女はその様子を観察するように見つめていた。
「あなたは今から死ぬの。……ねえ、どんな気持ち?」
上手く息が吸えなかった。浅い息を繰り返しながら、唾を飲み込む。体が動かすことができない。まるで大きな獣に捕らわれてしまったかのように。
彼女は鎌の柄を強く握ると大きく振りかぶった。そして、リリアンの首をめがけて振ろうとした。
「…………」
リリアンはゆっくりと息を吐き、柔らかく笑みを浮かべる。そして、両手を組んで祈りを捧げるように目を閉じる。
――これで、元通りになるんだ。そう思いながら。
「……あなた、どういうつもり?」
不可解そうな声にリリアンは目を開けた。少女は眉間に皺を寄せて、こちらを見ている。
「死ぬのよ。わかっているの?」
少女の問いに、リリアンはうなずく。
「はい、理解しています」
彼女はますます信じられないという表情をする。
「誰かに殺されれば、神のもとへ行けなくなる。教会の教えではそうなっているはずだわ。あなた、神のもとへ行けなくなるのよ?」
「私は、最初から神のもとへ行けませんから」
リリアンはにこりと微笑んで少女を見た。
「私もお聞きしたいです。あなたに殺されたら、私はこの世から存在がなくなりますか?」
「どういう意味?」
「私がここでいなくなったら、周りの人の記憶から私の存在はいなくなってほしいんです」
自分は間違っている。そうわかっていたのに、ずっと行動に移すことができずにいた。
「私は本当なら、いてはいけない立場にいます。それが周りに迷惑をかけています」
自分の存在が人を不幸にする。傷つけている。本来の形を歪めている。……それなのに、離れられなかった。
「だから、私の存在がいなくなれば、すべて元通りになるのです」
リリアンは顔を上げると、すべてを諦めたように眉を下げて笑みを浮かべる。
「そうすれば、みんなが幸せになるんです」
その瞳は何も疑いを持っていなかった。
「……気持ち悪い」
少女は顔をうつむかせて鎌を下ろした。そして蔑むような目でリリアンを見る。
「気持ち悪いわ、あなた。本当に気持ち悪い」
彼女はリリアンの方に手を伸ばす。黒い手袋を着けた手がリリアンの柔らかい首を包み込み、紅色の瞳が彼女を捉えた。
「あなた、何でここにいるの?」
「神に祈るために……」
「何のために?」
リリアンはよくわからないというように首をかしげた。
「……大切な家族を、幸せにしてほしくて」
「あなたの幸せは?」
リリアンは迷いのない笑みを浮かべる。
「私のことはいいのです。家族が幸せになれば……」
その言葉に少女は不快そうに顔を歪める。
「本当に気持ち悪い」
少女はリリアンの首から手を放す。腕を組んで顎を上げた。
「……ねえ、あなた。祈っているくせに、どうせ神のことを何も知らないんでしょう?」
「そんなこと……」
「神に祈るなんて、何も知らないからできるのよ」
少女はステンドグラスを睨みつけるように見上げる。紅い瞳がリリアンの方を向いた。
「知りなさい。自分がどれだけ愚か者かよくわかるわ。そして、絶望しなさい」
リリアンの胸元を指さすと、まっすぐ見つめる。
「あなたはもっと自分のことを見つめるべきだわ」
少女はふわりと浮かび上がる。体の重さを感じさせない。まるで魔法のようだった。
「本当のことを知って、そこからあなたがどうするのか……それまであなたのこと、見ておくわ。私を楽しませてちょうだい」
少女は背を向ける。その背中にリリアンは声をかけた。
「あなたの名前は?」
その問いに少女は嫌そうな顔をした。
「……自分を殺そうとした相手の名前を聞くなんて」
「私はリリアンと申します」
少女は少し目を大きく開くと視線を下げた。
「リリアン……リリー……。花の名前ね。ふふっ、可哀想な名前」
少女は胸を張ると、自分の胸元に手のひらを当てた。
「私の名前はレジーナ。覚えておきなさい」
そう言って、レジーナは姿を消した。
あの人は何者だったのだろうか。そう考えながら、リリアンは馬車に揺られていた。
レジーナが姿を消したあと、何事もなかったように教会へ人が入ってきた。その場で立ち尽くしているわけにもいかず、教会を出てきた。
「……悪魔、だったのでしょうか」
マルヴィナの言葉を思い出す。
悪魔は人と似たような姿をしているが人間と全く違う存在であり、人の魂を食べると言われている。
子どもの頃、よく悪いことをすると「悪魔が来るよ」と脅かされたものだった。
大人が子どもを怖がらせて、言うことを聞かせるために作られたおとぎ話。そんな風に思っていた。だが、神がいて、御使いがいれば、悪魔がいるのもおかしくないのかもしれない。
「神について調べたら、何かが変わるのでしょうか……」
鞄から招待状を取り出して見つめる。招待状からはふわりと甘い香りがした。
街の中心部の端にリリアンが住む子爵家の館があった。馬車の扉を開けてもらって顔を出すと、そこには銀髪を持った背の高い青年が立っていた。貴族の装いをした彼は、いろんな家の令嬢が美形とはやし立てるほどに、綺麗な顔立ちをしている。切れ長の目はリリアンを見ると、優しく笑みを浮かべた。
「おかえり、リリー」
青年はこちらに向けて手を差し伸べる。リリアンは笑みを作ってその手を取った。
「ただいま戻りました……義兄様」
義兄のアレクシスは灰色の瞳を細めて、馬車から下ろしてくれる。そして、手を引いたまま、一緒に家へと入った。
玄関では養母のナタリアが待っていた。まとめられた髪から少しこぼれた銀色の髪を揺らして、こちらへ歩いてくる。
リリアンを迎えると、ナタリアは「こほん」と咳払いをした。
「招待状を拝見しますわ」
彼女は楽しそうに口角を上げると、白い頬を赤く染めてこちらに手を差し出す。リリアンはくすくすと笑って、鞄の中から招待状を取り出し手渡す。ナタリアは中身を確認すると、リリアンの顔を見てにこりと笑い、食堂へ手を向けた。
「どうぞ、こちらへ」
公式の場でのやりとりの真似事をして、二人は顔を見合わせ、「ふふふっ」と笑う。
幼い子どものようにあどけなく笑う養母はリリアンから見ても可愛らしい人だった。
「リリー」
アレクシスがリリアンに声をかける。彼の方に向けば、その手には白百合の花束があった。二人はリリアンの前に立って微笑む。その表情は幸せそのものだった。
「愛するリリーへ。私たちからの贈り物よ」
リリアンは二人に向かってスカートを広げ、礼をする。
花束を受け取り、頬を緩ませる。自分は世界一幸せな娘なんだというように。ナタリアは目元に涙を浮かべると彼女を抱きしめた。
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