第1話 悪魔
――また一人、この学園の生徒がいなくなったそうよ。
リリアンは顔を上げる。丸く大きな青い瞳を瞬かせて、教室の真ん中へ向けた。
お昼休みに入った教室では、生徒たちが会話を楽しんでいる。貴族の子息や令嬢ばかりだからか、穏やかな時間が流れていた。
その真ん中で女生徒が笑みを浮かべて友人たちに話しかけていた。
「きっと、神のもとへ行けたのね。羨ましいわ」
恍惚とした表情で両手を組むと、弾んだ声で話を続ける。
「夜、銀色の狼が舞い降りてきて、神のもとへ導いてくれる……なんて神秘的なんでしょう。私も見てみたいわ」
彼女の話に目の前の二人も共感するようにうなずく。
「死ぬよりも早く神のもとへ行けるなんて、神に気に入られた証拠だもの。羨ましいわ」
「最近は学園の方ばかり『神隠し』にあっているのでしょう? 貴族は神に選ばれた方々ですから、きっと私たちも神のもとへ行くことができるでしょう」
三か月前から貴族の子が通うこの学園では何人もの人が失踪している。それを人々は『神隠し』だと言い、喜んでいた。
本来ならば、亡くなった人はみな、神のもとへ向かい裁判を受ける。その裁判によって楽園へ行けた人は、神のそばで働くことが許されるのだ。人々はそのために現世で教養を身に着けている。
だが、『神隠し』は特別だった。神が現世の人間を早くに連れて行く。死ぬよりも早く、神に認められ、そばへ行くことを許されたのだ。
それはとても、尊く、羨ましいこと……。
「…………」
リリアンは自分の手のひらを眺めると、自嘲の笑みを浮かべた。
……けれど、私には関係ないこと。
そう思いながら、ぎゅっと手のひらを握り締める。
会話に花を咲かせている女生徒たちの横を通り過ぎるようにして教室を出る。リリアンの亜麻色の髪がふわりと揺れた。
学園の裏庭には、忘れられたベンチが置かれている。
中庭とは違い、あまり人が訪れることはない。管理もされておらず、塗装も禿げてしまったベンチ。リリアンは何となく親近感を抱いていた。
「今日も場所をお借りします」
そう頭を下げ、彼女は落ち葉を払ってゆっくりと腰を掛けた。鞄の中から一冊の本を取り出す。すると、一枚の封筒がひらりと出てきた。
「……持ってきてしまったのですね」
招待状だった。朝、大切な養母から受け取ったものだ。
家族で行う小さなお祝いの食事会。それだけのために綺麗な紙を使い、丁寧な字で招待文が書かれている。養母が自分のために書いたのだろうと想像して、リリアンは目を細める。
「…………」
だが、すぐに表情を戻した。小さく息を吐き、鞄の中に招待状をしまう。
その代わりに昼食のサンドイッチを広げた。一つを手に取って頬張りながら、本を開く。貴族のお嬢様らしくない行動だが、ここならば誰にも見られることはない。
亜麻色の髪を耳にかける。緩くウェーブのかかった長い髪が肩から落ちた。
本をめくれば、意識が物語の中に沈んでいく。本を読んでいる間は時間を忘れることができた。物語を通して、知らないことを知ることができ、行けない場所へ行くことができた。何より自由だった。
文字を目で追いながら、思いを馳せる。
もし、自分でない誰かになることができたら――
どこからか鳴き声が聞こえた。顔を上げてあたりを見渡すと、小さな猫が木の陰に隠れている。
「可愛らしい猫さん!」
子猫は警戒したように体を強張らせる。リリアンは頬を緩めながら、少し距離を取って腰を下ろした。
「お腹が空いているんでしょうか。果物でも食べますか?」
そっと果物を猫の前に置く。だが、猫は警戒して食べようとしない。体はやせ細っており、食べ物を食べていないのは明らかだ。
「どうしたらいいんでしょう……」
腕を組んで「うーん……」と首をかしげると、後ろから声が聞こえた。
「リリアン?」
ハッと顔を上げて、猫を隠すように立ち上がる。
そこにいたのは見慣れた顔だった。
「ウィリアム、どうしたんですか?」
ウィリアムは目が合うと、金色の瞳を細めた。十五歳になったばかりの彼の表情にはまだ幼さが残っている。金色の短い髪は日差しにきらめいていた。
「もうすぐ授業の時間だ。それと本。持ってきたよ」
彼はそう言って本を差し出した。お礼を言って、本を受け取る。
「いつもありがとうございます」
ふわりと微笑むと、ウィリアムは耳を赤くした。手入れされた髪をガシガシと掻いて、視線を横に向ける。
「教室、戻ろうか」
その言葉にリリアンはうなずいた。教室に向かって歩き出す彼の背中を追いながら、そっと後ろを見る。
小さな猫は果物に鼻を寄せた後、口をつけていた。
授業が始まる前の廊下は少し賑やかだった。だが、慌てた様子を見せないよう、生徒たちは早足で教室を移動している。
リリアンはそっと隣に目を向ける。ウィリアムは歩幅に合わせて歩いている。……誰かと一緒に歩くのは少し慣れない。
ウィリアムとは本の貸し借りをきっかけに話すようになった。あまり同級生たちと接することのない自分を気にかけてくれ、声をかけてくれる。深く踏み込むことをしない程よい距離感を、リリアンはありがたく思っていた。
「何かいい本でも見つけたのか?」
「え?」
「ぼんやりしてるから。本の話を考えているのかなって」
リリアンは視線を少し下げ、手元にある本を握った。
「えっと……実はそうなんです」
少し恥ずかしげに言うと、彼は興味深そうにこちらを見てきた。
「へえ。どんなお話?」
「殺し屋と二足歩行で歩く猫さんが出てきて」
「え?」
「一人と一匹が戦いながらも、愛し合う物語なんです……!」
「待って。何、その話」
「しかも、猫さんは殺し屋の実の父親で、彼を人の道に戻すために、自分の命を代償にして金の魚と契約をするのです! そのときの殺し屋のセリフと来たら……」
「待って待って。情報量が多すぎる。しかもちょっと気になるな!?」
ウィリアムの視線は手元の本に目が釘付けになっている。リリアンは「ふふふっ」と笑うと、本を掲げた。
「興味がおありでしたら、ウィリアムにも貸しますよ」
「……くそ、ちょっと気になるのが悔しい」
本を差し出すと、彼は素直に本を受け取った。
「……何なんだよ、ネコろし屋って。本の題名、可愛いな」
彼はブツブツと言いながら、本を眺めて歩みを進める。その背中を見ながら、少し距離を取った。
――近づきすぎたら、ダメ。
心の中で一本線を引く。この境界線を越えてはいけない。
そう自分に言い聞かせながら、顔を横に向ければ、学園の窓からは大きな教会が見えた。
「……また一人、生徒が神様のもとへ行ったようですね」
ウィリアムは教会に目を向けると、「ああ……」と思い出したように返事をした。
「けれど、疑問視している人もいるみたいだ」
彼はそう言いながら、教室に入る。教室は生徒たちが授業の準備をしていた。
「どういうことでしょうか?」
「これで立て続けに三人目。しかも、全て学園の関係者。人為的なものだと考えても不思議じゃない」
彼の言うとおり、本来神隠しは不定期にあらゆる場所で起きている。場所や時期が集中して起きることは珍しい。
「そんなことを考えては、神様に失礼ではないでしょうか」
「神様の名前を騙って、悪さをする方が失礼じゃないか?」
「そうですが……そうならば、どなたが、どうしてそんなことを――」
リリアンが言葉を続けようとすると、誰かがくすりと笑った。
「――神隠し以外にも、人がいなくなることはあるのですよ」
初老の女性が目を細めてこちらを見ていた。白髪交じりの髪を後ろで結い上げており、人の良さそうな笑みを浮かべている。
二人の担任のマルヴィナだった。彼女は問題を出すように問いかける。
「人の魂を欲する者を知っているかしら?」
二人は首を横に振る。彼女はニコリと微笑んで、人差し指を立てる。何かを教えてくれるときの彼女の癖だ。
「『彼ら』は人の魂を食べることで、その命を長らえることができるのです……もしかすると、この事件も彼らが関わっているかもしれないですね」
「その『彼ら』というのは何者なんですか?」
ウィリアムの質問にマルヴィナは静かな声で答えた。
「――悪魔ですよ」
リリアンたちが息を飲むと、マルヴィナは「ふふふっ」と笑った。本気なのか冗談なのかわからない様子にリリアンは戸惑いながら尋ねた。
「悪魔はおとぎ話ではないのですか?」
マルヴィナは頬に手を当てて不思議そうに小首をかしげる。
「あら、どうしてそう思うのかしら?」
マルヴィナは細めていた目を開いた。薄い青紫の瞳が怪しく光る。
「……神様がいるならば、悪魔がいてもおかしくないでしょう?」
ガタガタと揺れる馬車の中から、大きな教会が見えた。国の中心部にある教会は五百年以上の歴史があり、ただ一人の神を信仰している。神の名前はサフィルア。この世界の創造主だ。ほかの国の宗教と区別するために、人々は自分たちを信仰しているものをサフィルア教と呼んでいる。だが、この国の人は彼のことを、あまり名前で呼ばない。彼が唯一無二の神だからだ。
神は祈りを捧げれば道を示してくれ、死後は魂を楽園へと導いてくれる。人々は神の言葉を信じて、楽園へ向かうまでの日々を過ごしている。教会には神の代弁者である象徴と聖職者である御使いがおり、貴族から平民まであらゆる人々が訪れる。
「リリアン様、着きました」
教会は貴族から平民まであらゆる人々が訪れる。リリアンもまた、信徒の一人だった。
馬車を待たせ、一人で教会へ入っていく。午後からは貴族のために教会が開かれる。だが、今日は人が誰もいなかった。いくつも並んでいる長椅子の横を通り抜けていく。
薄暗い礼拝堂はどことなく外の世界とは切り離されたように、独特な雰囲気を見せている。壁には色とりどりのガラスが備え付けられている。そこから床に零れる鮮やかな光を踏みしめて、真正面にある大きなステンドグラスの前へ歩いていく。
最前列の長椅子に、幼い少女が腰かけていた。十歳ほどの見た目をしていながら、聖職者の装いをしている。ステンドグラスを見上げ、藍色の瞳は不安そうに揺れていた。
「メアリー様」
声をかけると、少女はこちらを向いた。大人びた表情で笑みを浮かべ、ゆっくりと立ち上がる。
彼女は教会の象徴……つまり、神に愛された子だった。
「リリアン様。今日は少しお早いのですね」
メアリーは三つ編みにした藍色の髪を揺らしてこちらに歩み寄る。先ほどまでとは違い、年相応の幼い表情で笑顔を浮かべていた。
「はい。この時間は人がいないのですね」
「そうなんです。……もしよろしければ、お一人で神様とお話されてはどうでしょうか」
まっすぐとこちらを見る藍色の瞳に、リリアンはつい視線を下げてしまう。
「はい……お気遣いありがとうございます」
メアリーは一礼をして、そのまま出ていった。一人になり大きく息を吐くと、大きなステンドグラスと向き合う。
「……神様」
現世で生まれた人々はどのように生きればよいのかを神に尋ねることができる。それが祈りである。
どうすれば自分が思ったようになれるのか。悩む人々に神は導きの言葉を授ける。だが、リリアンはまだ、その導きを受けたことがない。
大きなステンドグラスから差し込む光は、神からの教えを表しているという。その光を受けることで、御使いは神の言葉を受けることができる。その言葉を象徴が神を代弁して人々に尊い言葉を伝えるのだ。人々は神の言葉に導かれながら、死後、神のそばに行ける日まで過ごしていく。
御使いではないリリアンには、その光から何かを汲み取ることはできない。だから、祈るしかなかった。
リリアンには『願い』があった。初めてこの教会に足を踏み入れたときから、ずっと『願い』が叶うように祈ってきた。……自分自身が、この願いの邪魔をしているにも関わらず。
そっと目を閉じ、胸元に両手を組む。
「どうか、私の大切な人たちを――」
「――あなた、神になんて祈らない方がいいわ」
凛とした声が響く。目を開けて前を見れば、ステンドグラスの光を遮るような黒い影。
それは黒いドレスに身を包んだ少女だった。黒く長い髪を左右に結い、口元には笑みを浮かべている。
少女の紅い瞳がリリアンを視界に捉える。
そして、猫のように瞳を細めた。
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