第84話 ある審査員の話


「次は例の子ですよ…。」




「おぉ、例の…。」




周りでは他の審査員がざわめいている。


彼の留学審査はほぼほぼ通過していると言っても過言ではない。

現に、水面下では教員同士で密約すら交わされていると言う話も聞く。



彼の才能、いや、この場合は努力と言ったほうが正しいか。

彼の努力とその結果はそれだけの輝きを持っている。



きっとこのまま彼を伸ばすことができればコンクールだって好きな賞を好きなだけ獲得することができるだろう。


実際、彼の演奏を聴いて目の色を変えた教授陣も山ほどいた。

教授自身のお手軽な成績ブースターになりうる金の卵なのだから。



まぁ、今更になって有象無象が騒いだところで意味はない。

最初アマネに彼の存在の話を聞いたときにわかには信じ難かった。


しかし彼の音色は本物だった。


そしてそれは才能によって生まれた時から与えられているものではなく、彼自身の手によって生み出されたものということも納得できた。



全くどんな爆弾をジュリアードに投げ込むのかと思ったら、私の予想を超える特大の爆弾だったよ。



今まさに音を奏でようとしているその彼がウチにきたいと言っていると彼女から相談を受けたときに、まず彼女の弟子だったマリアに話を通して、マリアと私の2人でアメリカでの彼の盾になることを約束した。


権謀術数うずまくジュリアードの有象無象どもから彼のかがやく未来を守り抜く。


それが私のように音楽に魂を売った者の使命だ。

音楽屋の見てくれだけをした政治屋に彼をつぶさせるようなことはさせない。

彼は別に私のことなんて知らなくていい。

私が死ぬときに、彼の音楽を守れたというささやかな喜びを感じるために、

私が動くだけだ。



さて、聴かしておくれ。


君はどこまで成長したんだい?






彼の演奏を聴き終えて、私が抱いた感想は、まさに脱帽の一言だ。


Op10-1を演奏し始めたときには正気を疑ったが、どうやら彼は音楽を映画にする力を持っているらしい。


強制共感覚というのだろうか。


彼の演奏には明確に色がついている。


そして情景が浮かび上がる。


ショパンが見てきた景色、ショパンが感じた空気、ショパンがこの曲で何をしたかったのか、どんなことを思っていたのか。

そのすべてを我々に見せてくれる。


彼の基本に忠実な演奏が、まさに作曲者の演奏そのものなのだろう。

作曲者が作ったように弾く。

究極の楽譜通りの演奏だ。



そして、二曲目はペトルーシュカ。


このとんでもない難曲を易々と引きこなすとは恐れいったよ。

しかも、演奏をただひたすらに練習してきただけではない凄みすら感じる。


ロシアにでも行ってきたか?


まさかな。


このオーディションのためだけにそんなことをするわけがない。


ペトルーシュカもOp10-1と同じように、バレエの一場面が浮かび上がる、まさに真に迫る演奏だった。


彼ほどのペトルーシュカが弾ける生徒がジュリアードにどれほどいるだろうか。

講師を含めたとしてもきっと片手で収まるだろう。


今年はとんでもない生徒が入ってくるぞ。


今年のジュリアードには嵐が吹くと感じ身震いをした。



彼の審査結果はもちろん満場一致の合格。


水面下での取り合いに敗れた教授陣が何人か反対するかとも思ったが、いくら権力争いに溺れてるとはいえ、音楽に人生を捧げた者としての矜持か、誰一人として反対できなかった。

少し見直した。



どうやらこの老害どもの話し合いでは、彼の所属先は最大派閥のコッペンハウアーが獲得することで話がついたらしい。


彼が入るゼミは既にマリアのゼミと決まっているのに滑稽なことだ。

日本では捕らぬ狸の皮算用というのだったかな。

いざ彼が入学してきたとき、ゼミ選択で蹴られると知った時の顔が見ものだな。


それまでは彼を、蝶よ華よと可愛がってご機嫌とりでもしてやってくれ。

彼の努力の成果には多少の果実も必要だろう。

ちゃんと彼にはこんな話し合いがあったということを、アマネ経由でしっかりと、

裏も表も、包み隠さず話しておくよ。





〜〜〜〜〜〜〜〜side 柳井実季




うん、完璧。


彼の演奏には一分の隙もなかったわ。


他の候補者には申し訳ないけど、彼と同じときにオーディションを受けたことを呪うしかないわね。

たぶん、例年より今年はみんな上手いはず。


でも相手が悪かった。


私でさえも彼の演奏を初めて聴いた時に負けを悟ったわ。


あ、彼が出てきた。


「お疲れ様。」


「あ、先輩お疲れ様です。演奏どうでした?」


「うーん、私としてはまぁまぁといったところかしら。」


「やっぱり先輩の耳はごまかせないですね。」


彼はそのあと、どこが良かったとか、どこが悪かったとか1人でずっとぶつぶつ呟いてた。

こういうところを見ると、努力の天才なんだなって素直に納得できる。

自分は全然上手くないっていってたけど、そのハングリー精神が彼の成長の源なのね。

ほんとに恐れ入るわ。



吉弘くんと合流したあと、彼の車で広尾のフレンチに行った。


最終オーディションに限って、選考結果は郵送だけど、正直落ちるわけがないと思っている。

なのでその前祝いを兼ねて、お疲れ様会をすることにしたの。



私の奢りだから、どれだけ食べられるか怖くて仕方ないけど、祝い事だから、ね?

パパも許してくれるはずということで、滅多に使うことがないパパの家族用のクレジットカードを使わせてもらう。


友達からドン引きされるので見せるなと、きつく言われている黒いカード。


家賃も何もかもこのカードから引き落としになってるから限度額がまだあるかどうか怖いけど、大丈夫なはず…。


パパは何かあった時に使えっていってたからきっと…これで使えなかったら許さないからね…!!!




さすが、広尾のフレンチにというだけあったわ…

フルコースなんて久々だったけど、マナーもなんとか体が覚えてたわね…。

店の雰囲気に飲まれて挙動不審な吉弘くんをみれただけでもその価値はあったわ…。



宴もたけなわとと言ったところで、席を立つ。

こっそり先にお会計を済ませとかなきゃ。


「こちらお会計、二名様でサービス料含めましてこちらでございます。」


「…ッ!」


息を飲むような金額を提示されてしまった。

店員さんのこちらを心配している目が怖い。


「…カードで…。」

そう言っておずおずと黒いカードを出す。


「ッ!?!?」

何故か店員さんも息を飲んだ。


え?もしかしてすごいカード…?

それかおもちゃとか…?



「あの、このカードって使えないんですか…?」


「あ、いえ、そのようなことは…。

大変、ステータスが高いことは存じ上げておりますが…。」


「ステータスが高い?」


「?」


店員さんもポカンとしていた。

「すみません、私このカード父から持たされてるだけなので全然わからなくて…。

もし何かあるんでしたら教えてくださいませんか?」


「さようでございましたか…。

あまり私の口から申し上げるのもよろしくないのですが…。」


「すみません、他のところで恥をかく前に、お願いできませんか?」


「は、はい。

実はこちらのカードは家族カードではありますが、

いわゆるブラックカードと呼ばれる物でして…。」


「つまり?」


「おそらく限度額無制限と言われるようなカードかと…。」


「な、なるほど…。」


パパ…なんてものを娘に持たせるのよ…。

無事会計できたので、お手洗いに行ってお化粧を直して先に戻る。


「よし、じゃあ出ましょうか。」


「あれ?お会計は?」


「お祝いなんだからそんな野暮なことは言いなさんな。」


「あざっす!ごちそうさまです!」


こういう時は無駄なことを聞かず、素直に奢られるという、そんな奢られ上手なところはどこで勉強したのかしら。



私は嗜む程度に飲んだけど彼は未成年なのでまだ飲めない。

だから車で来ることができるのはほんとにメリットしかないと思う。

いや私が飲むなよって話なんだけどさ。

広尾のフレンチ来てワイン飲むなよっていうのも酷な話でしょ。




ここはバレエパーキングをやってるお店なので、店を出る時にはキチッと車がエントランスの車止めに待機している。



次回来る機会があればいいが、ぜひまた来たいと思った。

あ、次はパパに連れてきてもらおう。


何はともあれおめでとう。

吉弘くん。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る