第83話 最終オーディション
ビザの取得で日数を食ったこともあって、出国して、ロシア観光をして、帰国して、我が家へと帰宅できたのはオーディション本番の2日前の夜だった。
いや、もう日を跨いで前日だね。
ひなちゃんを家に送り届けたあと、ついでなので叔父さんのとことオーナーのとこにお土産も届けてきた。
お土産といえば定番のクッキーにしたけど、喜んでくれた、はず。
「ふぃー、疲れた疲れた。」
疲れたけど、へとへとなんだけど、
ロシア最終日のストピの具合が良すぎて、ピアノが弾きたくてたまらない。
きっと、あの時と同じように弾いても同じ演奏はできないけど、あの瞬間たしかになにかをつかんだ気がする。
技術的な何かではなく、精神的な何か。
言葉にするのは難しいけど、またなにか一つ上に上がれたというか。
そんな気がするロシア旅行でした。
日を跨いだにもかかわらず、そこからまた何時間か練習して、気づいたらピアノの鍵盤の蓋を閉めて突っ伏して寝ていた。
次の日、起きたら案の定体バキバキで。
リビングに行くとスーツケースがそのまま立っていて、荷ほどきすらしてなかったことを思い出す。
「あぁ、めんどくさ…。」
ロシアで使った服や下着、肌着をとりあえず洗濯機にぶち込んで、自分自身をも、お風呂で丸洗いする。
せっかくの朝風呂なのでお気に入りの入浴剤もぶち込んで優雅なバスタイムを満喫することとした。
風呂を用意している間に、Uber eatsで近くの店から朝食を出前してもらって、そのことをコンシェルジュさんに伝えた頃に風呂が湧き上がった。
来客をコンシェルジュさんに伝えとくと、下でセキュリティツールを渡してくれて、上まで案内してきてくれる。
今回は、ネット決済でもうお金を払ってあるためコンシェルジュさんにお願いして、下で受け取ってもらって上のエントランスに置いといてくださいとお伝えした。
ちなみにメニューは近所のホテルのレストランの朝食セット。
結構高いんだけど、美味しくてやめらんないんだよなぁ。
風呂から出て、バスローブ姿でエントランスに行くとちゃんと置いてあった。
女優さんの某北川さん似のコンシェルジュさんの直筆メッセージも添えてあって朝から気分がいい。
朝食を食べながらセレブごっこをしてる自分に笑いがこみ上げてくるけど、あくまでも周りのおかげでそれができているということを忘れてはいけない。
いくら動画配信の収益とアルバイトのお給料の合わせ技がすごくて、先生からの臨時収入でウハウハだからといってそれは私がすごいのではなく、それを収益化してくれた人の厚意があるからだということを再認識して気を引き締める。
今の自分にできる恩返しはピアノを弾いてもっともっと上手くなること、それにつきる。
束の間のセレブごっこを楽しむと、服を着替えて、またピアノを弾く。
色々と忙しくて都合がつかなかったので、調律はオーディションが終わる次の日に予約を入れた。
実質は一月半での調律だが、普通の人よりだいぶ弾き込んだのでそんなもんだろう。
あぁ、タキシードもまだだ。
これも明明後日かな。オーディション終わってからにしよう。
やることがどんどん溜まっていく…。
結局、今日は一度も、一歩も外に出ることなく一日が終わった。
外に出るのも億劫で、なんでも出前とか宅配で済ませてしまう癖をやめたい。
さぁ、日付が変わっていよいよオーディション当日。
大体いつもと変わらない時間に起き、身支度を整え、ピアノと向かい合う。
程よく朝練をして、指を温めてから、会場に向かう。
余り厚着をしたくないので、中は極力薄い格好で、ロシアでも大活躍したナンガを羽織る。
もうそれだけでポカポカだ。
会場に着くと既に先輩は待っていた。
「おはよ。」
「はよざいまーす。」
「調子は?」
「上々っす。」
「頼もしいわね。」
頼もしいという割に先輩は苦笑い気味だった。
先輩は客席で聴いてるねと言って客席に向かい、私は出場者控え室に向かう。
控え室を開けると既にみんな来ており、楽しそうに談笑していたのに私が入るや否やピタッと止まる。
そんな恐れるなよ。
控え室で楽譜を広げて、イヤホンを耳にブッ刺して外界と自分を隔離する。
いい感じに気持ちをもっていっていると、肩をトントンと。
トントン、トントン。
「なんだようるせぇな。」
集中を乱されるのが一番腹が立つ。
「あっ、ご、ごめんなさい。」
「で?なに?」
待機時間にはまだ余裕があるはずだ。
イライラするわ、ほんとに。
「お昼、いきません?」
なんなんだ?こいつは。
てか、メンタルえぐいな。
このけんか腰の感じでお昼誘えるんだ。
百歩譲って、この前のちびっこに言われるならわかる。
なんで話したこともないこいつと昼なんか行かなきゃいけないんだ?
記憶が確かなら、前回の時晩飯に誘われた時にいたメンバーの1人の女だ。
「どうぞ、行ってきてください。」
「えぇー、行きましょうよぉ。」
「私はあなたが嫌いなので行きません。
行ってもメリットはありませんし、あなた方とご飯に行くくらいでしたら少しでも練習します。
そもそも、あなたもたいして上手くないのに余裕ですね。
あなたがここまで勝ち残れてるのは運だけですよ?それちゃんと自覚してます?」
いかんいかん、またやってしまった。
まぁ本心だからいいか。
やろうと思えばいくらでも努力できるのに、努力できるのに、大変だからと簡単な方法に逃げて、他の人の足を引っ張って、自分だけがのし上がろうとする人種は唾棄すべき人種だと思っているので一生相入れることはない。
自分の技術を磨くより相手のメンタルとか集中とか乱すほうが楽だもんね。
楽したら、他の誰にもバレなくても自分だけは楽したっていうこと知ってるんだよ。
私はそんなの嫌だね。
「そんな言い方ないんじゃないですか!?」
出たよ、変な正義感男。
前回誘ってきた首謀者の男。
「うわー、出たよ。
こういう時チャチャ入れてくるやつって大体上手くないくせに自分うまいって勘違いしてる中途半端なやつなんだよね。
私は二次の合格発表から、なんでこいつ残ってるんだろ?って不思議だったんですよ。あなたは特に。
うまいからなに言ってもいいと思ってるんだったら、前提から間違ってますよ?
あなた上手くありませんから。
うまさだけなら、最初に私に絡んできたチンピラもどき達の方がだいぶ上手かったですよ?
その辺わかってます?」
悔しそうに唇を噛んでる。
一丁前に悔しがっちゃって。
悔しがっていいのは努力した奴だけなんだよ。
そうやって他の人の練習時間削ったり、足引っ張ったりしてる奴が、悔しがるな。
そんな暇があったら一音でも磨け。
血反吐吐くまでピアノ弾け。
金も時間も労力も、割けるものは全部ピアノに割け。
私は他の人に少しでも追いつくために、自分の好きなピアノが少しでも上手くなるためにそうしているつもりだ。
言いたいことは全部ぶちまけたのでやはり控え室の空気は最悪。
追撃しようと思えばまだいくらでもできるけど私は私の時間が惜しいのですぐまた自分の世界に沈み込む。
しばらくすると、私の番になった。
係の人が呼びにきて、ステージ袖に待機する。
前の人が終わって、私がステージに立つ。
お辞儀をして、椅子に座る。
一曲目は「練習曲作品10-1ハ長調」
曲目としては何のことは無い。
有名だし、「あ!ショパンだね!」ってなる曲調。
もとは分散和音とかアルペジオとか言われてるテクニックの練習のための曲。
調べたんだけど、この曲が完璧に弾けるようになるころには
バイオリンみたいな豊かな音色を重ねることができるようになるでしょうと作曲者本人が言ってたらしい。
ほんとかどうだか。
確かに曲の印象としては、アルペジオで音がどんどん重なっていく様子は
バイオリンが弓で一息に音階を駆けあがって行ったり駆け下りていく様子に通ずるものがあるような。
幸にして私は手も大きく、指も長いので軽々と弾くことができる。
正に練習曲といっていい。
本当にいい訓練になっている。
いつものように入り込みすぎることもなく、
感情的すぎることもなく、
理性的に、気を付けるべきところはきっちりと気を付けて、
まさしく楽譜に書いてあるようにきっちりと弾ききった。
「よしよし。これからなんだよ。」
声に出ていたかどうかはわからない。
ただ自分の中にあるスイッチが切り替わるような感覚はあった。
二曲目はペトルーシュカ。
これを聴いてもらわなきゃ。
これを完成させるためにわざわざロシアまで行ったんだから。
自分で弾いてて思うけど、メリハリが効いてる曲が好きなのかな、多分。
あと伏線回収というか、最初の主題が最後らへんでまた使われてる曲とか。
こちらも満足のいく演奏ができたと思う。
と、思うと少し頼りない語尾になってしまったのはですね…。
実はまた記憶飛ばしちゃいまして。
こっちは逆に入り込みすぎちゃった。
意識が戻ってきたのは拍手の音と審査員の先生が叫んだ、
bravo!の声に引っ張られたからだ。
でもオーディションってそんな掛け声あったっけ…?
これはロシアに行った甲斐があったと思う。
これで落ちたなら、仕方ないと思えるだけの演奏ができた。はず。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます