第74話 夜はバイトの日。
私は小さい頃から疑問だった。
なぜ、思うように体が動かないのか。
早く走りたいのに走れない。
クラブを球に当てたいのに当たらない。
真っ直ぐな線を描きたいのに描けない。
声を出したいのに出ない。
うまくいかないから楽しくない。
その辺から、体の技術よりも理論がモノを言う競技にハマった。
麻雀だったり、将棋だったり、オセロだったりチェスだったり。
それらの競技は、勝ち方が理論化されている。
麻雀は確率論。将棋もオセロもチェスも定石。
囲碁はルールは覚えたけど、なんとなく向いてなかった。
体の技術を求める競技でうまくいかず、理論で勝てる競技では割とうまくく。
やりきれない悔しさを心の中で燻らせていた。
人間はみんな体を思うように動かすことができてないんだという理論を
そのとき、たまたま流れてたテレビで知った。
自分が思うように動かせている体は、だいたいでしか動いてないということをテレビの人が言っていて、その理論がものすごく腑に落ちた。
そのとき天啓が降りてきた。
俺は体の技術が足りないんじゃない、理論が足りないんだ。
頭の中で思い浮かべる理想の動きと実際の動きのズレ、齟齬をどれだけ減らせるかということを考えて、これまで苦手だった競技に挑戦してみた。
まず小さい動きを理想の動きに近づけるように、ひたすらに同じことを繰り返す。
体に覚え込ませる。
この動きができると気持ちが良くなるんだぞ!ということをしっかりと分からせる。
すると、当たらなかった球は当たるようになり、足は速く動くようになり、線は真っ直ぐ描けるようになった。
できると楽しい。
これまでできなかったことができるようになるともっと楽しい。
理論を覚えれば勝率が上がるものより、努力が結果を裏切らないものの楽しさを知った。
幼子特有の無敵感というのか、とにかくなにをしても誰にも負ける気がしなかった。
しかし、何事も一点を極めてる人には勝てないということにだんだんと気づき始める。
身近に努力の天才がいたことも大きいかもしれない。
姉弟でラウンドしていたとき、たまたま私はその日の調子が悪く、一ホールすぎるごとに少しずつなおちゃんに差をつけられる。
一つ一つの差は微々たるものだった。
たまたま第一打がうまくいかなかったけど、なおちゃんはうまくいった。
たまたまパットが入らなかったけど、なおちゃんは入れた。
そんなふうに少しずつ少しずつ、私よりも多くを積み上げた人が勝ちはじめた。
その辺りからスポーツが楽しくなくなった。
勝てないから楽しくない。
楽しくないから練習効率が落ちる。
練習効率が落ちるから勝てない。
勝てない、勝てない、勝てない。
「はっ!!!!」
「夢か…。」
じっとりと嫌な汗をかいて目が覚める。
今でも夢に見る。プロゴルファーになるのを諦めた姉弟対決。
悔しいとかそういうものじゃなかったんだよな。
少しずつ時間をかけて殺されたような気持ちだった。
今になってみれば、ただ単に練習量が足りてなかったと割り切ることができる。
私が10ずつ10の競技に努力を振り分けてたとすると、なおちゃんは100を1の競技に振り分ける練習をしていた。
割けるリソースは同じ。
辛くてもきつくても痛くても、ひたすらに打ち込み続けた。
当時はわかんなかったんだね。それがどんなに大変なのか、難しいのか。
「あぁーピアノ弾こ。」
ピアノに関しては、私は圧倒的に練習量が足りない。
わたしだけ1日が72時間くらいあったら良かったのにと何度思ったか分からない。
でも、1日の時間は伸びないから、人の3倍集中して人の3倍効率よく練習したら、普通の人の9倍練習できるはずだ。
自分は1日で9日分。1年で9年分。10年で90年分だ。
理論的に無理があるのはわかっているのだけれど、それをわたしは本気で信じ込んでいる。
でもわたしは本格的にピアノを始めてまだ1年足らずだが間違いなくただ10年練習してきたやつよりもうまい自信がある。
これを2年続けると年齢=ピアノ歴となる。
ピアノに出会えたのが大学時代でよかった。
この4年間で36年分の練習をしてやる。
大丈夫、ピアノ弾いて気が狂った人はいない(はず)。
でもケガだけには。ケガだけには気をつけなければならない。
怪我で弾けないなんて、そんなバカなことはあってはならない。
怪我で弾けないなんてことがあればこれまでの努力が全てパァだ。
一点で支える筋肉ではなく、面で支える。
指で弾くからといって指を鍛えるのではなく、全身をくまなく。
指先から伝わるダメージを全身に散らす。
そのために毎日関節をほぐして、筋肉を緩め、鍛える。
目指すはなおちゃんみたいなカーボンファイバーの筋繊維。
しなやかで軽くて強い筋繊維。
柔らかい音、鋭い音、力強い音、しなやかな音。
いつでも出したい音が出せるように。
「ふう、満足。」
満足した頃にはとっくの昔に朝食も昼食も食べ忘れていて夕方だった。
「やべ、筋肉が落ちる。」
食べないと筋肉が分解される。
健康にも悪い。
病気なんてしたらこれまでの努力がパァだ。
怪我の比じゃないぞ。
キッチンに併設されているパントリーに駆け込み、プロテインを取り出し、シェイカーで手早くプロテインドリンクを作り、作った端から飲む。
「ふぅ、一息ついた。」
あとはストレッチをしながら練習を振り返る。
手先から、手のひら。
手のひらから腕。
腕から肩。
全身をゆっくりとほぐす。
演奏後のストレッチとプロテインの順番が前後してしまったが、普段はストレッチをしてから飲んでいる。
「よし。準備しよ。」
今日は土曜なのでピアノバーの日だ。
練習でかいた汗をお風呂に行ってシャワーで流す。
浴槽がアホみたいに大きいので、毎回風呂に入るたび浴槽にお湯を貯めると光熱水費が心配になるから、最近はもっぱらシャワー派である。
服はどうせ向こうで着替えるので、パンツは最近気に入ってよく履いている、ニコルソンのパンツを選ぶ。
上はループウィラーのパーカーだ。
このループウィラーのパーカーは本当に優れもので買ってよかったと思う。
肉厚であったかいし、柔らかくて着心地も抜群だし、パーカーだから合わせる服を選ばないし。
あ、タキシードまだ注文してないや。
来週くらいに作りに行こう。
最近はオーダースーツも安いんだってね。
準備ができたところで、財布と車の鍵、楽譜の3つだけを持ってエレベーターで地下駐車場に降りる。
車のドアを開けてエンジンをかける。
ボタンプッシュでエンジンがかかり、運転席のすぐ下から出ているマフラーを震わせる。
少し低めのE♭の音が心地いい。
車の内装で一番気に入ってるのはセンターにIWCのアナログウォッチが埋め込まれていることだ。
「惚れ惚れするなぁ…IWC…。」
IWCの時計に見惚れながらバイト先へ向かう。
さてさて、今日はどんなお客さんが来てくれてるかな。
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