第25話 本番まであと幾ばくもない日。
そんなこんなで演奏会まであと幾ばくもない日。
「吉弘くん、順調?」
私の練習部屋に実季先輩がやってきた。
「何油売りに来てるんですか。先輩の方こそ大丈夫なんですかー?」
「私は大丈夫なんです〜!」
実季先輩は意地の悪そうな顔でそう言う。
この美人で可憐な実季先輩がそんな顔をするとは、全国一億三千万の実季先輩ファンが泣いて悲しむに違いない。
ちなみに、全国一億三千万の実季先輩ファンの中に私は入っていない。
「なら良かったですけど、実季先輩うかうかしてると、喰っちゃいますよ。」
「ピアノ初心者の吉弘くんが言うようになったわね。」
そんなと言われて感心されているが、この言葉の9割がハッタリだ。
正直実季先輩には勝てる気がしない。
なんだかんだ言っても積み重ねてきたものが違う。
音楽の世界で、私的に一番心に堪えるのは、周りからは褒められるけど自分は圧倒的敗北を自覚しているという状況だ。
そうなってしまうと、周りのどんな励ましも陳腐な慰めに聞こえてしまう。
だが、今回はあえてその戦いの場に登りたい。
自分をこんなとこに引きずり出してきた実季先輩に自分の音楽をぶつけてやりたい。
泥だらけでもいい、とにかく実季先輩の心に残るような演奏がしたい。
実季先輩が本気を出さざるを得ないような演奏がしたい。
うまく弾けりゃいいやといった程度の気持ちで始めたピアノが、いつのまにか自分の心のど真ん中に鎮座してる。
「実季先輩にはいいとこ見せたいですからね。」
「いっ…言うじゃない…。」
実季先輩の顔が赤くなってるような気がする。
上手いこと火をつけられたのかもしれない。
side 実季先輩
今日は吉弘くんに会いにいったら危うく落とされるところだった。
何がいいとこ見せたいよ。
そんな顔でそんなかっこいいこと年下くんから言われちゃったらコロッといくわよ。
幸い私は落ちる寸前で踏みとどまったけどね。
あの今のじゃなくて、昔の蜘蛛男の映画で電車が落ちるのをぎりぎり食い止める感じね。
まぁそんなことはさておき。
吉弘くんにハッパを掛けられたのは事実。
喰っちゃいますよですって。
確かに吉弘くんの演奏は音ダイナミックなのに繊細なタッチでこなしてるし、手先の器用さと相まって技巧派だなんて通のピアノファンは言ってる。
と言うか公式大会にも何にも出てないのにピアノファンに目をつけられてることが異常なのよね。
まぁ最近はウィーンに行って何してきたのかは知らないけど、確実に何か掴んできたということはわかる。
そして、1番の特筆すべき点はライブをやっているということ。
なんかの繋がりで知り合ったのだろう、銀座の有名なピアノバーでときどきライブをしている。
つまりそのおかげで舞台度胸もかなり付いてきているのだ。
あれ、私勝てなくない?
いや、勝ってるとこ年数しかなくない?
これでも20年と少し生きてきてその大半はピアノに費やしてきたんだけどな?
こりゃ当日は相当気合入れて弾かなきゃな。
と決意新たにしたところで電話が鳴る。
スマホの画面に表示されているのは身に覚えのない番号だ。
不審に思いながら電話に出てみる。
「もしもし、柳井です。」
「もしもし、実季ちゃん?弓です〜。」
この電話で語尾を揺らしながら伸ばすのは忘れもしない私の恩師、ピアニストの弓雨音ゆみあまね先生だ。
「あ〜お久しぶりです先生〜!
日本に帰っていらしてるんですか?」
弓先生は私が大学へ進学するタイミングで海外に行ってしまった。
確か行き先はドイツだったかな。
「そうなのよ〜。野暮用で日本に〜。
せっかくだから私の最後の愛弟子に会いに行こうかと思いまして〜。」
「とか言いながら暇そうなの私だけだったんでしょう、先生。」
「そうともいうわね〜。」
ここで一つ閃いた。
「せっかくだからレッスンつけてください弓先生!」
「あら、練習嫌いなあなたが珍しいことを言うのね〜。」
「実は…。」
弓先生にことのあらましをつまびらかにしてみたところ。
「それすごい面白いわ〜。
むしろ私も彼のこと気になる〜。」
先生は面白い企画を投げると全力で乗っかってくれる癖ある。
それが昔から治らない。
もちろん今も直ってないみたいだ。
「ありがとうございます!」
「じゃあ明日東京に行くから、明日からレッスンスタートね〜」
「明日、から?」
「そう、本番まで毎日レッスンよ〜」
しまった。藪蛇だったか。
先生のレッスン厳しいのに…。
「まずは私が日本にいない間どれほど練習してたのかチェックするところから始めるからね〜。」
「はぁーい。」
「昔ほど優しくないからしっかり練習することをお勧めするわ〜。」
「げっ!!!!」
いいアイデアのつもりがとんでもない藪蛇を連れてきてしまったが仕方ない。
吉弘くんには負けないからね!
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