第10話 カレーはおいしいです。
「それだけ弾けたら気持ちいいでしょ?」
そう言ったのは弓削幸祐里だ。
つい先日にピアノを聞かせてから頻繁に練習室にやってくるようになった。
自主休講した科目のレジュメを持ってきてくれるし、ちゃんと大人しく聞いているのでそう無下に扱うこともできず、来ても放置していることが多い。
「よくそういう人いるよね〜。」
なんとなく気分が乗ったので返事をした。
「その言い振りだと違うの?」
「全く違うよ、少なくとも自分は」
「ほう?」
「周りから見るとどんなに素晴らしい演奏でも、自分の中では満足できてないよ。」
「なんで?」
「なんか言葉にしにくいけど、自分に嘘はつけないんだよね、結局。」
「と、いうと?」
「自分の演奏を一番よくわかってるのは自分なんだよね。結局。
その一曲のために、その一音のためにどれだけ魂込めて練習したか分かってるのは自分だけなんだよ。」
「そうだね。」
「だから、私は、この世界で私だけはなんでそんな音を出したのか、なんでそんな音が出たのか、なんでそんなミスをしたのか全部わかってる。
だって自分がその程度の練習しかしてないんだから。
うまいねって言われたって、世界的なプロには勝てないのはそういうこと。
小さい頃から全ての時間を投げ打ってそこだけにリソースを集中させてる人に勝てるわけない。」
ふと姉のことを思い出す。
小さい頃は嫉妬もしたし、嫌いになったこともあった。
でも今は尊敬しているし、大好きな姉だ。
ここで姉の自慢をしたくなったがぐっとこらえる。シスコンではないからな、決して。
「そうか。」
「だから周りからどれだけ褒められようとも、納得できない点っていうのは絶対にあるんだよ。
次までに改善すべき点っていうのは山ほどある。
まぁ私の練習っていうのはそれを減らしていく作業だな。」
「職人の世界だね。」
「音楽家に限らず、プロっていうのは職人だよ、ほんとに。」
「それな。」
その会話を最後にまた、楽譜の海へと沈んでいく。
深く、深く。
「はっ!」
気づくとテッペンを過ぎてそろそろ2時がやってくる。
「てか幸祐里寝てるし。」
熟睡している幸祐里を起こすのは偲びないが、そのまま放置して帰るのはさらに偲びないので起こすことにする。
「ほら、幸祐里。起きて。」
「んぁ…。」
「もう2時になるよ。」
「はぁっ!?!?!?」
「ごめんね、放置して。」
「いや、こんな時間まで練習してるのに驚いたわ。」
「私は隣でピアノガンガンなのに熟睡できることに驚いたよ。」
「えへへ。」
「ほら帰るよ。どうやって帰るの?」
「あ、終電無いや。」
「はぁ…。家どこ?」
「阿佐ヶ谷。」
「いいとこ住んでんねぇ。」
「あんたは?」
「市ヶ谷。」
「お願い!泊めて!」
「お断りします。ほら、送るから。」
「えぇ、どうやって?」
「車よ。」
「???」
大学のすぐ近くで流しのタクシーを拾い、おじさんの店まで行く。
裏口から店に入り、カウンターのおじさんに声をかける。
「お疲れ様。車使ってもいい?」
「おぉ、ヨシ、お疲れ様。ほらよっ。」
おじさんはカウンターの引き出しから鍵を出して放り投げる。
「サンキュ!あとまた顔出すから。」
「はいはーい。」
鍵を受け取ったので外で待つ幸祐里の元へ。
「ほら、行くよ。」
「う、うん。」
徒歩で近くの駐車場まで歩く。
「車持ってたんだね。」
「まぁね。うちの大学車持ってるやつ多いじゃん?」
うちの大学は私立大学ということもあり、お金持ちの子女が多い。
ということはもちろん車を持っている学生も多い。
「確かに。」
「あと色々あって移動多いから実家にあった一台持ってきた。」
「なるほど。」
着いた駐車場は月極なので、駐車料金の精算などは必要ない。
「ほら、乗って乗って。」
「えっ、ベンツじゃん。」
「ん?そうだよ?」
理解が追いついていない様子で車に乗り込む幸祐里。
「色々付き合いとかでうち車ベンツなのよ。」
「なるほど…。」
乗った車はメルセデスベンツGLC350e。
お姉が立て続けにツアー優勝した時、車2台がダブってしまったので、まとめて売ってこれを買った。
ちなみに後部座席は倒してあり、予備のクラブセットが入ったゴルフバッグや靴、着替え、書籍その他諸々の荷物が乗っている。
「まあ、狭いけどどうぞどうぞ。」
「お邪魔します…。」
「さ、帰ろうか。」
「ありがと。」
2人を乗せた夜のドライブが始まった。
銀座から阿佐ヶ谷は高速をとおらず下道だけでも行ける。
半蔵門の方に抜けて、中野坂上に出て青梅街道を進んでいけば阿佐ヶ谷に行き当たる。
「あ、この辺でいいよ。」
「いや、家の前まで送るよ。こんな時間だし。」
「そう?じゃ、お言葉に甘えて。」
阿佐ヶ谷駅前あたりで小百合は遠慮していたが時間も時間なのでちゃんと家の前まで送ってあげるのが筋だろ。
親御さんも心配するぞ。
家についてみると
幸祐里の家は何の変哲も無い普通の一軒家だった。
よく手入れの行き届いた庭とBMW3シリーズが止まっているガレージ。
なかなか裕福であることがうかがえる。
変哲もないが都内でこれだけの家と外車を持っているということは
裕福であるに違いない。
「じゃ、今日はありがとうね。」
「こちらこそ、こんな遅くまでありがとう。
またレジュメ持ってきてね。」
「任せとけ!」
そう言葉を交わして、幸祐里は車を降り玄関に入っていく。
ドアを閉める前に一度振り返り手を振る。
私も手を振り返して、そのまま銀座に帰る。
「お疲れ様!女か?」
「まぁ、同級生のね。彼女とかじゃ無いけど。」
「あいかわらずカタイねぇ〜。」
店に来るなり人の彼女の話を聞きたがるあたり、あいかわらずなのはおじさんの方だろと心の中で呟きながらバーのカウンターに座る。
「そもそも特定の人は作らないようにしてますから!」
「なんで?」
「気を使うのが嫌だし、一人の時間ないと死ぬから。」
「さすが個人競技やらせたら日本一。」
「皮肉かよ。ごはん。」
「あるもので適当に作るぞ。」
「お願いします。」
おじさんがキッチンに消えるとカウンターの近くに座っていた社会人風の素敵なお姉さまが声をかけてきた。
「よく来られるんですか?」
「えぇ、まぁ。」
むしろここで仕事してますとはなんとなく言いにくかったので濁しておく。
「私今日初めてで。」
お姉さまの話を聞いて、初めてでゴルフバーに一人で来るのはなかなかの勇者だと思いながら話を適当につなげてあげる。
「はい、おまちどう。カレー。」
「お!いただきます!」
適当に頼むと、9割方カレーが出てくるこの店だが、そのカレーの味は天下一品である。
具や味はその時々で全く違うのだが、これまで食べてきたおじさんのカレーの全てに共通することが一つある。
それは、すべて絶品ということだ。
おじさんのカレーを食べ始めると音が消える。
体の全感覚がおじさんのカレーを堪能しようと、味覚に集中するからだと思う。
私はこれをゾーンに入ると言っている。
「あ、こいつもう話できないよ。」
と、すぐ近くに座っていたおねえさんに言うおじさんの声が遠のいていく。
「ごちそうさまでした!!!」
「はいどーも。」
気づくと店は自分とおじさんの二人だった。
「あ、おじさんこれ学園祭のチケット。
私ピアノ弾くから来てね。」
「お!楽しみにしとくぜ。」
おじさんと近況報告をし合って、銀座を流すタクシーを捕まえて楽しい気分で家に帰る。
家に帰った後は風呂に入って寝る。
疲れを取るにはこれに限る。
風呂で指と腕のマッサージをして風呂を上がり、冷たい水を飲み干す。
「ぷはぁー!!!」
この後めちゃくちゃ寝た。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます