第9話 お泊り。

最近熱心に練習をしまくっているせいか、日常生活のことを忘れることがある。






あれ、ご飯どっちの手で食べるんだっけ。


ひらがなのぬってどうやって書くんだっけ。


えっと、明日は何時に学校に行くんだっけ。




そんな簡単なことさえ、暫く考えないといけないようになる。






初めてその感覚を味わった時はかなり怖かった。


かなり怖かったので、そのことを忘れようと思って、その時々でハマっていることに一層打ち込んだ。






結果、今の自分があるわけだが。




つまり何が言いたいのかというと、大学の必修の授業一つ自主休講してしまった。


必修科目ということもあり、毎回の出欠ももちろんある。なんなら小テストもある。


そのことに気づいたのは、けたたましく存在感を主張する右ポケットのスマートフォン。


いやに何度も振動を繰り返すなと思い画面を見る。






そこには数少ない友人の1人からのlineが山と来ていた。




どうやら、業を煮やした友人が結局は全てをこなしてくれており、今から説教をかましに来るらしい。


ピアノ練習室にいる旨を連絡して数分後。






「テメェどんな了見で人に出欠やらしてくれたんじゃ。テストまでさせやがって!」


こんな乱暴な口調でピアノ練習室に押しかけてきたのは、数少ない友人、弓削幸祐里ゆげさゆりだ。


こんな乱暴な口調とは裏腹に、清楚な服装をしており、見目麗しい顔立ちをしている。




「その節はありがとうございます。


全くもって反省の限りを尽くす所存でございます。」






「じゃあそのピアノ弾いてみろ。


練習してんだろ。」






「いやいや、人様に聞かせるようなもんでは。」




「人様に聞かせられないようなもんのために私はどれだけ苦労させららたんだろうなぁ!えぇ、おい。」




まるでヤー公かマル暴かのような凄みをきかせてくる幸祐里。


美人の凄む顔というのは普通の人と比べてなかなかに凄みがある。






「それでは弾かせていただきます。」




「わかればええんや。」




私が弾き始めたのはカンパネラ。


両手を鍵盤に置く。


鐘の音が聞こえる……。










「ふぅ。どうだった?」




「…。」




「どう…っ…!


泣いてる…!」




「すごい!


すごいよ!!!


吉弘すごい!!!!


こんな感動したの始めて!!!!


ほんとに鐘の音がきこえた!!!


私今ヨーロッパにいた!!!」




「あ、ありがとう…。」




「なんでそんなうまいの?」




「練習したからかな…。」




「なんでちょっと引いてるの。」




「暫く人に聞かせてなかったから反応を目の当たりにして驚いてるっていうか…。」




「じゃあ自覚したほうがいい。


あなたのピアノはまちがいなく人を感動させる。


人生を変えるピアノだと思う。


私そんなに音楽詳しくないけど、少なくとも私はあなたのことを世界で一番偉大な音楽家だと思う。」




「そんな大げさな…。」




「大げさなんかじゃない!!」




「えっ。」




「大げさじゃない!


私は今感動した。


その気持ちを、誰であっても、たとえ演奏者本人であっても踏みにじってはならないのよ。


私は感動した、だから吉弘は素直にそれを賞賛として受け取りなさい。」




「わ、わかった。」




「わかればよろしい。


でも出欠と小テストの代金、もらいすぎちゃったよ。


どっかで披露しないの?」




「もうすぐある学祭でやるよ。」




「まじか!!!!!


ちょっと拡散する!!!!!」




「やめろよ恥ずかしい。」




「いや、これをみんなに知らせないのは罪だよ。」




「そんな大げさ…」


じっとこちらを睨みつける幸祐里。




「いや、それほどまでに評価されてありがたい限りだ。ぜひ期待に添えるように頑張ろう。」




「おぉ!それでこそ偉大な音楽家だ!」




「なんだこの茶番。」




「嫌いじゃないだろ?」




「あたりめぇだ!」




そのあとめちゃくちゃ練習した。












「ふぃー、久々に人と話したら気持ちがほぐれた。」




私は今日はゴルフバーでバイトなのでおじさんの店に向かう。






「藤原プロ、お疲れ様です!」




「だからその呼び方やめてくださいって…。」




「だって元プロに勝ったんですから!


うちの誇りですよ、誇り!」




前回のコンペから、本店のスタッフの方々がみんなこの呼び方をする。

自分としては姉の姿を見ているためにプロと呼ばれても申し訳ない気持ちしかない。




私は一つのことを極めることがとても苦手だ。


だが姉はただ一つのことをひたすらに人生をかけて極めようとしている。


その姿に尊敬の念を抱かずにはいられない。




もともと器用な方だった私は、なんでも最初からそこそこうまくできた。


だから努力というものを積んだ経験がない。


周りからは無意識の努力などと言われるが私としてはピンとこない。




そんなこともあって私は姉のことを非常に尊敬している。






「じゃあ藤原プロ、打刻してくださいね。」




「はーい…。」




「あと、注文の品届いてますよ!


ロッカーの前に置いてありますんで!」




「お!ありがとうございます!」




注文の品とは新しいゴルフウェアだ。


アンパシーというメーカーの新作のゴルフウェアで、店頭で見て一目惚れしたため、バーのツテで手に入れておいたのだ。






真新しいゴルフウェアに身を包み、気合いを入れる。






「さて、今日の生徒さんは…。」






〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜






「お疲れ様でした。」




「はい、お疲れ様でした。帰りはどうぞお気をつけてくださいね。」




「はーい!」




今日ラストの生徒さんの指導が終わり、体をほぐす。




「んあぁぁー。」




背中や腰回り、膝などがパキパキと音を立てる。


ラストの体ほぐしも兼ねてドライバーを8割ほどの力で大きく振る。


実は、いつも練習の最後にやっているのだが、大きく振って体をほぐす動作のイメージは自分の中のドライバーのスイングの要となっている。






「よし、帰ろう。」




「お、帰んのか?」




「あ、叔父さん。」




「まぁ、一杯付き合えや。」




「まぁいいでしょう。」




結局盛り上がってしまって、バーに泊まった。

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