麻中之蓬
三鹿ショート
麻中之蓬
私の周囲には、褒められるような人間が皆無だった。
両親は平然と別の異性と逢瀬を重ね、兄は恋人に暴力を振るい、姉は数多くの男性に貢がせていた。
治安の悪い土地ゆえに、近所の人間も碌でもない存在ばかりで、道を行けば必ずと言って良いほどに喧嘩をしている人間を見、何処からか響いてくる叫び声を聞くことができる。
そのような環境で育ったためか、私もまた、彼らのことを馬鹿にすることができないような生活を送っていたが、彼女と出会うことがなければ、そのことが異常だと気が付くことはなかっただろう。
***
彼女を初めて見たのは、彼女が駅前で募金活動をしているときだった。
だが、当然ながらこの土地において協力するような人間は存在せず、むしろ、見目が良い彼女に関心を持つ人間ばかりだった。
何処かの社交界に参加するのではないかと思ってしまうような服装に、雪のように白い肌、そして、見た人間を優しく包み込むような笑顔は、確かに目を引く存在ではあった。
ゆえに、私もまた彼女に目を向けていたところ、とある男性たちが彼女の肩に手を回し、共に食事をしようと誘い始めた。
彼女は笑みを崩していなかったが、困惑していることは明らかだった。
其処で、私は知り合いを装い、彼女をその場から離れさせることにした。
無論、恩を売って彼女に近付くためである。
私が彼女に声をかけたところ、男性たちは敵意に満ちた視線を私に向けてきたために、私はその目玉に向かって指を突っ込んだ。
一人が叫び声をあげながら膝をついた姿に誰もが驚いているうちに、残るもう一人の股間を蹴り上げると、私は彼女の手を引いて、その場から逃亡した。
荒い呼吸を繰り返しながらも、無事かどうかを訊ねると、彼女は首肯を返したが、駅前の方角に目を向けながら、
「先ほどの方々は、無事でしょうか。確かに私は困っていましたが、あのような暴力を振るわれるほどではありませんでしたから」
彼女が何を言っているのか、私は理解することができなかった。
自分に迷惑を及ぼした相手の心配をするなど、私のこれまでの人生において考えられなかったことだからだ。
しかし、その言葉によって、私は彼女が良い人間であるということは分かった。
そして、そのような人間は、この土地では真っ先に被害者と化す。
だからこそ、私は彼女に対して、二度とこの土地には近付かない方が良いと伝えた。
心を奪われた相手だということもあるが、彼女が汚される姿を見たくはなかったのである。
私がこの土地の事情を説明したところ、彼女は驚いたような表情を浮かべていたが、やがて口元を緩めると、
「そのようなことを伝えてくれるとは、あなたは優しい人間なのですね」
その言葉は、私に衝撃を与えた。
おそらく、この土地に住んでいる人間にかけられる言葉ではなかったからなのだろう。
放心状態のような私に向かって彼女は頭を下げると、そのまま私の前から姿を消した。
正気を取り戻した私が最初に考えたことは、彼女の隣を歩くには、今のままでは駄目だということだった。
優しい人間の振りをすることはできるが、やがて襤褸を出してしまうことは目に見えている。
ゆえに、私は生き方を変えようと決めた。
そのためには、この土地に住んだままではならないと考え、私は引き越すことにした。
住んでいた土地に比べると、新たな土地における人間たちは弱々しく見えたのだが、醜い争いなどを目にすることがないことを思えば、この土地で住んでいるうちに、私の言動も変化するに違いない。
これまでの生活のように、暴力で物事を解決することはできなくなってしまったが、それを苦に感ずることがなくなったとき、私という人間が変化したと言うことができるだろう。
***
今の私の姿を見れば、家族などは驚きを隠すことはできないだろう。
それほどまでに、私は自分を変えることができたのである。
理不尽な言動に襲われたとしても拳を振るうことなく、すんなりと笑みを浮かべることができるようになった。
それもこれも、新たな土地での生活の賜物に違いない。
今の私ならば、彼女の隣を歩いたとしても、問題が無いだろう。
そのように考えながら、以前彼女が募金活動に協力していた団体に彼女の居場所を訊ねたところ、人々は一様に表情を暗いものにした。
何かあったのかと問うたところ、彼女は数年前に、この世を去っていたということだった。
現場の状況から、複数の男性たちに襲われたらしい。
そして、その現場とは、私がかつて住んでいた土地だった。
つまり、私の前から姿を消した直後に、彼女は襲われたということである。
その事実を知ると、私はその場に崩れ落ちた。
これまでの努力が水泡に帰したということもあるが、彼女がこの世に存在していないということが、私の心に衝撃を与えたのである。
過去の私ならば、彼女を襲った人間たちを見つけ出し、然るべき制裁を加えていただろうが、今の私は異なっている。
ゆえに、涙を流すことしか、私には出来なかった。
そのような行為にしか及ぶことができない自分を、私は弱々しく思った。
麻中之蓬 三鹿ショート @mijikashort
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- nao読み専です。土日祝日にまとめて読んでいます。 他サイトのアカウントを削除しました。 2025年1月25日 楠 なお(佐藤 楓&黒猫)
- 稲邊 富実代私は、内科の医師です。 40名の入院患者様を受け持ち、全身全霊で診させていただいて居ります。 毎晩、夜中に病棟から電話がかかってきます。 夜中に病棟から呼ばれて行くこともしばしばです。 患者様のために、悲しみや苦しみの、或いは喜びの、涙を流す毎日です。 患者様のために一喜一憂し、私の心は山の頂から奈落の底まで行ったり来たりする毎日です。 この愛を、目の前の患者様だけではない、広く国民に捧げたい・・・そう願って国政を志しましたが、道は開けません。 私は、イザベラ・デステ侯妃を知って、政治に、そして国を守るということに初めて開眼したのです。 この作品「プリマドンナ・デルモンド」を私は、1986年8月、医学部5年生の夏休み1か月で、不眠不休で、死に物狂いで書き上げました。 翌月1986年9月11日の夏目雅子さんの一周忌に間に合わせたい一心で。 夏目雅子さんは稀な手相の持主で、同じ手相を自分が持っていることを知った高校1年生の私は、東京の大学に入って医学を学びながら夏目雅子さんの専属作家になろうと決意しました。 しかし、その夢を果たせぬまま、私が医学部4年生の時、夏目雅子さんは白血病のため27歳の若さで帰らぬ人となられました。 夏目雅子さんに主演していただきたくて構想を練っていたのに、永遠に間に合わなくなってしまった作品「プリマドンナ・デルモンド」・・・でも、せめて一周忌に間に合わせたくて、不眠不休で書き上げた1986年夏の光景が鮮明に胸に甦ります。 あの時、献身的に協力してくれた母も、もういません。 翌年医学部を卒業し、研修医になってからは過酷な医師の仕事に追われ、出版社に持ち込むことも無いまま、数十年が経ってしましました。 「選挙なんて無理。」 と諦めていた私は、国政への思いを封印し続けて生きて参りました。 でも、コロナ禍に 「医師としての知識や経験、見解を広く国民に役立てたい。」 という思いが高じ、国政を目ざす様になりました。 しかし、候補者公募を受けても受けてもことごとく書類選考で門残払いにされ、知名度を挙げなければ無理だと言われ、その時、思い出したのがこの作品だったのです。 でも・・・数十年ぶりに読み返してみて、あの時の熱い思いが一気に胸に押し寄せ、涙にむせんでいるうちに、選挙に出るため知名度を挙げたくて藁をもすがる思いでこの作品にすがろうとし気持ちは消え失せました。 夏目雅子さんのために書き始めたのに、知れば知るほどイザベラ侯妃の素晴らしさに魅せられ、 「この人を埋もれさせたくない。 一人でも多くの方に、イザベラ侯妃を知ってほしい。」 という思いに突き動かされた1986年医学部5年生の夏の純粋な思いで胸がいっぱいになりました。 当時は無かったインターネット、そして小説投稿サイト・・・その御蔭で、忘れていたこの作品にもう一度出会うことが出来ました。 忘れていた自分に。 忘れていた使命に。 そして、忘れていた幸せに。
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