⑫連作『彼女』No.0001
隆臣は、暗幕で閉めきられた自室でスクリーンに映るサイを瞬きも、身動ぎすらもせずに見つめ続けた。
目からは止めどなく涙が溢れていたが、それは不思議なことに隆臣の視線を遮ることはなかった。
再びサイの姿を目にできたその嬉しさに、触れあえない切なさに、そしてすぐに訪れるだろう別れに、涙は床を濡らし続けた。
やがてサイはある曲を静かに弾き始めた。
音楽に疎い隆臣でも知っているその曲の愛称は『別れの曲』だ。
名残惜しむかのように、ゆったりとしたテンポで奏でられた旋律はやがて最後の一音にさしかかり、ラウドペダルで限界まで引き伸ばされた和音もやがては聞こえなくなった。
サイは鍵盤から手を離すと、スクリーン越しの隆臣に微笑みかけた。
隆臣が何か言おうと思った時にはその姿は闇に溶けて見えなくなっていた。
まるで最初からいなかったかのように、スクリーン越しの逢瀬は静かに終わりを迎えた。
「あぁ、サイ。行かないで……行かないでくれよ」
別れを嘆く隆臣を不意に猛烈な不安が襲った。
これほどに恋い焦がれた相手を自分は忘れてしまっていたのだ。
また彼女のことを忘れてしまうのではないか、そんな不安がジワジワと隆臣を侵蝕した。
胸を動悸が襲い、ハッ、ハッと短い息が出る。
「忘れたくない。忘れたくない。忘れたくないんだ」
ぶつぶつと繰り返しながら部屋を歩き回る隆臣の視線の先に、隆臣の身体に遮られ何も映らなくなったスクリーンが目に入った。
しばらくの間、じっとスクリーンに目を向けた隆臣は何か思い付いたように表情を変えると片付けられた荷物をガサガサと漁り始めた。
▽ ▽ ▽
「う……うーん」
もぞもぞと身体を揺すると良武は呻きながら起き上がった。
「あれ……俺、寝てた? ってここどこだ?」
目を擦りながら周囲の暗い空間を見渡す良武に聞きなれた声がかけられた。
「よぉ、ヨシ……起きたのか」
「あれ、隆臣? 隆臣の部屋かここ?」
ズキズキと痛む頭を押さえながら良武は記憶をたどり始めた。
「えーと、隆臣の部屋でDIVALOID のライブを観て、それから……」
記憶をなぞるようにスクリーンのある方に目を向けた良武は薄闇の中、壁にかけられたスクリーンを目一杯に使って描かれた楽しげにピアノを奏でている1人の女性を見た。
油性ペンや水性ペン、濃さの違う鉛筆。
アクリル絵の具は足りなくなった黒を補う為、出鱈目に混ぜ合わされている。
使い尽くされたそれらの残骸が部屋中に転がっていた。
広すぎるキャンパスを埋めるのに、部屋にあった画材をありったけ使って描かれた歪なモノクロの女性像。衝動を叩きつけるように描き殴られたそれは確かな狂気をはらんでいた。
そして、その狂気がゆえに、ただひたすらに美しかった。
圧倒され、ポカンと口を開けた良武に隆臣の声がかかる。
「気に入ったならやるよ……それ。俺にはもう必要ないから」
「あ……え……えぇ?」
「部屋、片付けといてくれ……俺は学校行くからさ。それ描くのに部屋にあったのは全部使っちまったんだ。今はただ、もっともっと描きたいんだ、彼女を」
そう一方的に告げると、隆臣は部屋を出ていってしまった。
隆臣が開け放った扉の向こうはまだ暗い夜の闇が広がっていた。
良武は、様子のおかしな友人を見送り唖然としていたが、やがて我を取り戻したのか頭を悩ませ始めた。
「スクリーン……巻いたらダメだよな……。どうすんだコレ」
∴ ∴ ∴
鬼才、暮井隆臣……そして彼が生涯描き続けることになる連作『彼女』。
その最初の一枚はこうして隆臣の友人であった木島良武の手に渡った。
紆余曲折あり良武は絵を手離すことになるのだが、以降、彼が金に困ることが無くなったというのは、また別の話だ。
挿し絵
作品No.0001
https://kakuyomu.jp/users/Yutuki4324/news/16818093078316390506
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