⑪喧しい

 サイは悠然と椅子に腰かけながら、ピアノのペダルを軽く踏んで調子を確かめているようだった。


 そうして、おもむろに鍵盤の蓋を上げた。

しかし鍵盤には触れず、そっと佇むと少しだけ身体を揺らしながらサイは嗤う。


 集積していた泡も泥も闇に置換され、サイを中心に纏わりつくように渦を巻き、少しずつ広がっていくようだ。


 歌姫と、信徒となった観客らは、なおいっそうに声を張り上げ呪歌を斉唱した。


 しかし、まるで無響室の中にいるかのように、その歌は闇に吸われ響き渡ることはない。


 その歌を聴いているものがいるならば、それは歌っている彼ら自身と……サイだけだろう。


 2.5次元の整った美貌は跡形もなく、アゴが外れんばかりの絶叫は叫びと題された有名な絵のようですらあったが、歌姫はそれでも歌い続けた。

 そうしなければたちまち闇に呑まれてしまうから。


 照明の類いは沈黙し、彼らを照らすのはか細いサイリウムの灯りだけで、徐々に弱くなるそれはさながら消えゆく蝋燭の火のようであった。



 堪えるには長く、愉しむには短い。

 4分33秒というのはそういう時間だった。


 歌はかろうじて闇を押し留めていたようにも見えたが、終わりとは呆気なく訪れるものだ。


 鍵盤の蓋を下ろしながらサイはかぶりを振りポツリと溢した。


やかましい」


 わだかまっていた闇が爆ぜた。

 濁流か、はたまた津波かの如く闇は全てを押し流していく。

 叫ぶ歌姫も、観客らも、ステージに横たわる英理も、マスタールームのスタッフ達も、楽屋で悶えていた楽団も、小遣い稼ぎのアルバイトも、会場の外にいたコスプレイヤー達も。

 運は悪く会場周辺にいた者は例外なく、果てのない闇の中に連れ去られてしまったのだった。


「やれやれ……。この休符だけの名曲は確かに、聴衆の咳払いや腹を立てる声なんかも演奏の一部とみなすよ? だが物事には限度というものがある。私は別にラップバトルをしにきたんじゃあないんだ。聴衆は静かにしておくものだろう? あぁ、もう誰もいないかな?」


 惨劇を気にも留めず、誰に聴かせるでもなくサイは詠うように嗤う。


「さて……覗きがいるのは気にくわないが、久方ぶりの逢瀬だね。こういうのをなんて言うんだったかな? ビデオ通話? ちょっと違うかな? でもまぁタカオミに良いところを見て貰わないとね」


 サイは再び鍵盤の蓋を上げると、軽やかに鍵盤を弾き始めた。


 吹き抜ける夜風を想わせる、静かな美しい旋律。

 鐘の名を冠する超絶技巧。

 タランテラのメロディ。


 サイは思うがままに奏でる曲を変えては、ただただ楽しそうに鍵盤の上で指を走らせた。






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