⑩ 魅いられ

「んむっ!?!」


 サイはタカオミの頬を両の手のひらで挟むと、唇を押し付けた。

 長い舌が無遠慮に隆臣の口腔内を蹂躙する。

 その熱烈な様とは裏腹に隆臣が感じていたのは極低温の闇に自身を侵蝕される悍ましい感触であった。

 隆臣の意思とは無関係に指が痙攣するように閉じ開きし、肌は血の気を失ったように青白くなっていく。

 身体は石のように強張り小刻みに震えた。


「んちゅっ」


 隆臣が白目を剥きはじめたのに気づいたサイが唇を離すと、隆臣はそのまま力なくベッドに倒れ込み積もった埃を舞わせた。


「あぁ、タカオミ、ごめんよ……ごめんよ」


 意識を朦朧とさせた隆臣を愛おしそうに撫でながらサイは謝罪を口にする。


「これでもまだ壊れないんだね、君は。私とこんなにも長く共に居られたのは君が初めてだ。

 ……大抵はすぐに壊れてしまうのにね……さっきの化け物を見ただろう? 私に侵されるとああして、まずは己の目をえぐりたくなるんだ……そして最後にはその存在すらも壊れてしまう」


 朦朧としながらも隆臣は耳にこびりついた化け物の叫びと、眼窩にぽっかりと穴の空いた無数の頭を思い出していた。


「私は君を壊したくはない……だが、君を前にすると柄にもなくはしゃいでしまう……我慢できそうにないんだ」

「サ……イ……?」

「お別れだ、タカオミ」


 隆臣は遠のく意識の中、悲しそうな泣きそうなサイの顔を見た気がした。

 それは孤独に耐える子供のような顔だった。

 隆臣は何か声をかけようとしたが、それは叶わなかった。


「タカオミ、君に会えてよかったよ……もし叶うなら、また会えるといいな」


 サイの別れの言葉を最後に、隆臣の意識は暗転した。



「隆臣、隆臣!」

「んがっ」


 聞き慣れた母親の声と共に身体を揺さぶられ隆臣が目覚めたのは実家のソファの上だった。


「お、お袋?」

「学校が休みだからってダラダラしすぎよ! ほら、晩御飯の仕度を手伝いなさい!」


 母親は隆臣を起こすとキッチンに引っ込んだ。

すぐにトントンとまな板を叩く規則正しい音が聞こえてくる。


 隆臣は寝ぼけているのかハッキリとしない意識の中、目をしばたたかせる。

 眩しくて目を開けていられない……隆臣は目に感じる光の刺激に苦痛を感じた。


「(なんだ……色が……無い?)」


 細めた目に映るのは色の無いモノクロの景色であった。

 陰影の濃さで物の形などは把握できたが、まるで白黒映画のような視界に隆臣は大いに困惑した。

 しかし、不意に意識に浮上した昨晩からの記憶……サイと出会ってからの出来事を一気に思い出した隆臣は思わず悲鳴を上げてしまった。


「うああああ!?」

「隆臣?! 何かあったの!?」

「あ……いや、なんでもない!」

「寝ぼけてるの? まずは顔を洗ってきなさいな」


 咄嗟に言葉を飲み込めたのは僥倖だっただろう。

 大きな声に反応し、キッチンから顔を覗かせた母親に対し隆臣は「なんで生きているのだ?」と口に出しかけた。

 そして何より……モノクロに見える母親の身体のところどころでポコポコと極彩色の泡のようなものが浮き上がっては弾けているのが見えてしまった。


「顔、洗ってくる……」


 隆臣は洗面所に移動する。

癖で付けた洗面台のライトの眩しさに慌ててそれを消した。

 視界は変わらずモノクロだが、灯りの無い暗がりでも困らないほどにハッキリとモノは見える。むしろ僅かな灯りが目を焼くほどに辛く明るい場所にまともに目を向けられそうにない。

 バシャバシャと顔を何度も何度も洗うが視界は変わらぬままであった。


「たっだいまー」


 玄関から姉……千草の声がする。

 ガレージのシャッターの駆動音もしており、おそらくは父親と出掛けていたのだろう。ほどなくして予想通りに父親も玄関から上がってきた。


「……お帰り」


 そして、やはり予想通りに、千草も父親もモノクロの身体から極彩色の泡をポコポコと弾けさせていた。


「(どうやら……うちの家族は何か得たいの知れないものに入れ替わったらしいな)」


 隆臣はしかし、恐れよりも呆れを感じていた。


「(……さすがにこれは……理解不能だ)」


 おそらくはこれがサイの言った「何とかしてみよう」の結果なのだろう。

 自分の目は明らかにおかしくなっている。だから“妙なモノ”まで見えるのかもしれないと、隆臣はそう思うことにした。


 とかくこう眩しくてはまともに目を開けていられない。隆臣はスクーターの座席下の収納に放り込んであるサングラスを取りに向かった。




[本日、午後1時過ぎ。○○市において原因不明の目の痛みと共に視界が薄暗くなる、などといった苦情が寄せられており、市は何らかの化学物質の漏洩の可能性を視野に……]


 隆臣は家族……いや、家族の形をした“ナニか”と食卓を囲んでいた。

 テレビからはアナウンサーがニュースを読み上げる淡々とした声が流れている。


「隆臣、お前明日すぐに眼科に行ったほうがいいぞ」

「そうするよ……」

「化学物質だなんて、大丈夫かしら?」



 隆臣はサングラスをつけたまま食卓についていた。当然、何事かと聞かれたので、正直に光が妙に眩しいのだと答えた。

 いや、そもそもこの家族らしきナニかは何なのだろうか?と隆臣は考えてしまう。

 夕食は普通に食えるモノだったし、会話の受け答えも至極自然であった。姉の千草も肝試しからのことがぽっかり抜けて、別の記憶にすりかわっていることを除けば何事も無いように振る舞っている。試しに聞いてみれば千草の友人達も無事だという。

「あんた、大丈夫?」と逆に心配される始末であった。


「ごちそうさま」


 結局考えていても仕様がないと、隆臣は夕食を掻き込んで自室に戻るとベッドに倒れこんだ。

 明かりを付けていない真っ暗な部屋でごろりと仰向けになると、ズボンのポケットをごそごそとやり、小さな丸いものを取り出した。

 それは暗い色をした小さな鈴であった。

 鈴には珠が入っておらず、隆臣が弄んでいても僅かにすら鳴ることはなかった。


「サイ……サイ……サイ……」


 隆臣は目を閉じると、瞼の裏の暗く深い闇色の中に、より深い闇の中で出逢った美しいヒトの姿を幻視し、その名を小さく呟いた。

 それはさながら想い人の名を呼ぶような情恋に満ちた声音であった。

 呼び掛ける声は壊れたレコードのように何度も何度も何度も繰り返されたが、それに応えるものはなにも無かった。



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