② 鐘の音に喚ばれし者

 闇の中で青年の足は石の段を踏みしめ、一段一段、正確に登っていく。

 迷いの無い足取り……それはさながら何かに誘われているようであった。

 この辺りにそう高い山は無かったはずだ。

 しかし石段はどこまでもどこまでも続いていた。

 どれほどの時間登っただろうか? 

 す時間の感覚が曖昧であった。それでも漸く石段を登り切った青年は確かに目の前に開けた空間とそこに佇む寺の本堂ような建物の輪郭を捉えた。


「……暗黒寺」


 闇の中でなお、暗い輪郭を見せるその建物は、なるほど“暗黒寺”と呼ぶに相応しい様相だろう。


「“暗黒寺”の裏手にある鐘を鳴らせ、だったな」


 青年のSNSアカウントに届いたDMダイレクトメッセージ

 “悪心影”を名乗るアカウントから届いたそれには、緯度経度…それと『ここに行け、暗黒寺の裏手の鐘を鳴らせ。それだけがお前の望みにかなう』という短いメッセージだけが記されていた。


 アカウント名から謎のメッセージから何から何まで怪しいそのDMに従って、こんなわけのわからない処まで来たことを自嘲気味に笑い飛ばすと、青年は建物の裏手を目指し、慎重に歩みを進めた。


 裏手に回り込めばすぐにそれは見つかった。

 釣り鐘堂だ。

 本堂と同じく暗い輪郭を浮かばせたそれにはしかし、肝心なモノが無かった。

 梵鐘が無いのだ……あるはずの大きな鐘が無い。

 鐘をつく撞木だけが無意味にぶらりと吊り下げられ、わずかに揺れて縄の軋むギっという音をさせていた。鐘があるべき空間には吸い込まれるような闇があるだけだった。


「……無ぇじゃん」


 唖然としていた青年は、しかしその感情を怒りへと変える。

 肝心の鐘が無いのでは何の為にここまで来たのかわからないではないか。

 その感情をぶつけるように青年は輪郭を頼りに撞木の縄を乱暴に引いた。


「何が鐘を鳴らせだ、ちくしょぉおお!」


 力任せに振るわれた撞木は空を切る筈だった。


 ごおおおぉぉおおぉぉぉん


 しかし、鐘は鳴った。鳴らぬはずの鐘が。無いはずの鐘が。

 手に伝わった何かを突いた感触に、青年が思わず離してしまった撞木は、まるで振り子のように同じ幅で揺れ続け、闇を叩いては何度も何度もごぉん、ごぉんと音を重ねていく。


 残響は些かも衰えず鐘の音は闇に反響してはどんどんとその音を増していく。

 余りの音圧に青年は頭を抱え、その場にうずくまってしまう。

 一切合切が鐘の音に支配された、青年がそんな感覚に陥ったその時だった。


「私を喚んだのは君かい?」


 不意に鐘の音がピタリと止み、その静寂に一つ落とされたのは少し低いが美しい女の声だった。

 ゾワリと背筋が粟立つような気配を感じ、青年は声のした方に目を向けた。


 断言できるが、その場には光源の類いは一切無い。

 にも関わらず、青年の目はその女の姿をハッキリと捉えてしまった。


 闇を編んだかのような、射干玉の髪。

 法衣のような漆黒の黒装束は着崩されて、覗いた白磁のような肌がその妖艶な魅力を引き立てている。

 怪しい、貼り付けたような笑みの形に口の端をつり上げた、その女は漆黒の瞳で、じっと青年を見下ろしていた。


“これは絶対に人間ではない”、青年は直感的にそう思った。しかし、その暗く怪しい魅力に目は釘付けになり瞬きすら忘れてしまっていた。


「お前……何だ?」


 青年がカラカラに渇いた喉から絞り出した短い問いに、女はあっけらかんと、答えた。


「私かい? そうだなぁ……“闇にして光”、“表裏の混沌”、“暗き静寂のもの”、“最後の破滅”、“劫初の夜の不滅の空虚にして沈黙”……私を知る者はそんな風に私のことを呼ぶ。だが名を問うているのなら……私は久遠寺。久遠寺崔くおんじ さいと、そう呼んでくれたまえ」

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