第4話 愛の結末はハッピーエンド
私の三十六年もの愛は、実るときが訪れるのだろうか?
それとも、ただアイドルのように真子ちゃんを思う思慕だけで幕が閉じるのだろうか。
それでもいい。
私は真子ちゃんという天使に出会っただけで、真子ちゃんの手を振る、人懐こい可愛い仕草を思い出すだけで、ハッピーなのだから。
このことは、神が私の心にくれた大きなプレゼントに違いない。
真子ちゃんは、私の通っている地元のキリスト教会に来てくれるかな?
築130年の歴史の重みがあり、重要文化財としてローカル雑誌にも掲載されたほどの有名な教会である。
しかしなぜか、老朽化してボロいといったネガティブな感じはなく、威厳さえ感じられる。
一度も教会に足を踏み入れたことのない人でも、この教会の存在を知っている人は多い。
しかし、なぜか敷居が高く感じられるのか、礼拝とまではいかないのが現実である。
実は私も、昔は礼拝前はなぜか、教会の門をくぐるのが躊躇され、近所のカフェに寄り道したものである。
今から思えば、サタンが神に出会うのを邪魔しているとしか思えない。
そのカフェも今では、今ではなくなってしまったが。
今では、教会は私の一週間のかなめである。
教会にたどり着いたとき、今までの一週間は終わりを告げ、礼拝が終わったあと、新しい一週間が始まる。
私は教会をさぼって仕事をしても、なぜかうまくいかず、遊びに行ったりすると、迷子になりかけたりしたり、予期せぬ災難に見舞われる。
やはり、私は神に肩を抱き寄せられているのだろうか。
私が初めてこの教会を訪れたのは、小学校五年の頃だった。
クラスメートに誘われるまま、朝九時頃、五人で待ち合わせして教会の日曜学校に通ったものだった。
といっても、私の家は浄土真宗であり、キリストとは何の関係もなかった。
しかし不思議なことに、母が小学校二年のとき、初めて買ってくれた絵本が「イエス様」だった。
この頃から、私はイエス様に捕えられていたのであろうかとも思う。
日曜学校に通い始めて二年目、小学校六年のクリスマスのとき、私たちは五人でイエス誕生の寸劇をすることになった。
天使の衣装の代わりに白いネグリジェを、着用したのを覚えている。
日曜学校でいちばん印象に残った話は、今でもはっきりと覚えている。
ある有名な画家がいた。
無名時代、天使を描きたいと思い、天使のモデルを探していた。
まさにこれこそ天使という子供に出会ったので、さっそくモデルとして描き始めた。
この天使の絵画が爆売れし、その画家は有名になった。
それから数十年後、その画家は、今度は悪魔を描きたいと思い、モデルを探し始めた。
まさにこれこそ悪魔という人物に出会った。
ギョッとするほど人相が悪く、見ただけで後ずさりするほどの鬼気迫るものが漂っていた。
画家は、さっそくその人物に依頼し、絵を描き始めた。
これでまた、画家は世間の注目を浴びた。
のちにわかったことであるが、悪魔のモデルは数十年昔の天使のモデルと同一人物であった。
ルシファーというのは、堕天使という意味である。
神に仕えていた天使は、神にさからった途端、堕落して悪魔になってしまったのである。
画家が探していたモデルは、まさにそれを地でいく人物だったのだろうか。
まあ、天使のような人を疑うことを知らない若年者ほど、いとも簡単に悪党に見込まれ、悪の手先となってしまい、悪の組織から抜けられなくなってしまうというのは、世の中ではよくある話であるが。
悪質ホストクラブにはまった挙句、風落ち(風俗行き)泡沈み(ソープ行き)となってしまった若い女性と同じである。
少なくとも、真子ちゃんには絶対にそうはなってほしくない。
私は真子ちゃんが、神に守られていることを願うばかりである。
その次の週、信じられない奇蹟が起こった。
私はいつものように、十時過ぎに教会に来ると、なんと真子ちゃんらしき女性が座っているのである。
真子ちゃんはもう、中年の域に達しているが、あのクリクリとした瞳と、人懐こそうな表情は五歳のときと変わっていない。
偶然なのだろうか。私と同じクロスのペンダントをしている。
「真子ちゃん、真子ちゃんだよね」
私は思わず、真子ちゃんに問いかけた。
「あっ、お姉ちゃん。よく私を覚えててくれたね」
私の三十六年もの愛は、これで半分実りかけたような気がする。
「バッグを届けてくれてありがとう」
すると、真子ちゃんは信じられないことを言った。
「あのピンクの花柄のバッグ、すぐお姉ちゃんのものだとわかったよ。
だって、私が五歳の頃、ピンクの花柄のハンカチをくれたものね。
お姉ちゃんって、ピンク色と花柄が好みだったんだよね。
私もバッグを届けたら、お姉ちゃんに会えるかもしれないという期待があったのよ。それが今、こうやってかなうなんてラッキーだよね」
私もよと言いかけたとき、礼拝の時間がきたので、私はピアノの席についた。
教会に通い始めて十年以上になるが、今や私は長老であり、ピアノ奏楽を任されているのである。
真子ちゃんは、私のピアノに合わせて讃美歌を歌い出した。
「主我を愛す 主は強ければ 我弱くとも恐れはあらじ
我が主イエス 我が主イエス 我が主イエス 我を愛す」
という私が、小学校の頃から大好きなオーソドックスな讃美歌であったが、真子ちゃんも歌ってくれていたのが嬉しく、誇りさえも感じた。
牧師の説教は、いつもと同じ内容で締めくくられた。
神はそのひとり子イエスキリストを、人間のエゴイズムという罪の身代わりとして、十字架にかけて下さった。
このことは、人間にはとうてい理解できないほどの、人間に対する神の愛であり、神の正しさである。
だから、イエスキリストを信じるだけで救われる。
特別な肉体修行やお布施も必要はない。
ただ、信じるだけで救われるとは、なんとうまい話であろうか。
礼拝の終わりの讃美歌を弾き終えると、真子ちゃんは言った。
「できたら、来週もこの教会に来たいな。
讃美歌を歌うと、なんだか気分が晴れるような気がするわ。
お姉ちゃんのピアノには、なんだか神の存在を感じられるわ」
私はなんともいえない喜びと平安を感じた。
「来週もぜひ、来て下さい。こうやって真子ちゃんと礼拝する日が訪れるとは夢にも思わなかったな」
これで私の三十六年間の愛は、実るときが訪れた。
これも神様が仲立ちになって下さったに違いない。
そして、一生この愛の絆が続くことを信じたい。
真子ちゃんの家族にも神様の恵みがありますように。
ハレルヤ イエス様感謝します。
完
36年間の愛の行方は何処に すどう零 @kisamatuma
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