チョコボール

ここからの学校生活は私にとって一気に「惜しいもの」になっていた。


この時がきっかけで彼氏は浮気をし、あっさり私はフラれた。だが、逆に好都合だった。

皆んなの心配には一応答えて悲しいふりをしながら、心置きなく虎視眈々とアツシに話しかけるきっかけを伺い続ける事ができる。

今ならそれこそ、クラスのグループラインがあったり、SNSでちょちょいと簡単に連絡も取れる。

でもこの頃は学年の1/3しか携帯電話を持っていなかったし、メールアドレスや電話番号を聞き出すのはまだまだハードルが高く、特に男女間では告白をするくらいの勇気が必要だった。


だが、私にはまだチャンスが残されていた、それは廊下に設置されたロッカーが隣同士だったこと。

せっかくロッカーが隣同士でも一瞬のすれ違いが殆どで、一日全く会わない日もあったが、稀にロッカーで鉢合わせる事がある、私はそれを狙い続けた。


奇跡は不意に舞い降りる。


それは高校最後の夏休みも明けた、温かい秋の日だった。

昼休憩にたまたま友達と教室の前で話していたら、珍しくのんびりとアツシがロッカーに現れたのだ。

私はロッカーと反対側の廊下の壁にもたれて、教科書を入れ替えるアツシの背中を見つめた。アツシは小柄だが、体格はしっかりしていて、お尻もムチっと少し大きい。

毎日の自転車通学のせいだと本人も言っていた。

教科書が見つからないのか、ずっとロッカーをゴソゴソとしていたが、隣で待つ友達に一言二言声をかける。そして友達はその場を離れた。


「話聞いてる?」

「聞いてない!ごめん!」

私が近くにいることを気づいて欲しくて、いつもよりついつい大声になる。

話しかける絶好のチャンスなのに、少しの勇気ときっかけが上手く掴めないもどかしさもある。

「なみ、ノートありがとう!助かったわ!」

そんな時、通りすがりの友人が、貸していたノートを私に手渡してくれた。


今しかない。


私はノートを受け取ると、ロッカーに歩み寄る。

今どれだけ思い出してもあれ程の緊張は無かった。初めての面接より、初めてのキスより、あのたった数歩に人生一震えた。

私は何でもない顔を装ってアツシの右隣にしゃがんだ。開け放っていたロッカーの扉が、完全に私のロッカーを塞いでいる。

慌てて扉を一度閉めようとしたので「すぐ済むから、このままで大丈夫」と声をかけた。

さり気無いつもりが、絞り出したような掠れた声になる。

近い視線をノートで制して「これ、入れるだけやし」と早口で伝えると、アツシのロッカーの扉を二人のちょうど真ん中で止め、自分のロッカーを開けた。


「そっか、でも大丈夫」

落ち着いたアツシの声が、今は自分だけに向けられている事が嬉しくて、耳にボワッと音がする程熱を感じた。

「教科書あった」

パタンと乾いた音がしてアツシのロッカーが閉じられ、とんっと肩がふれた。


シャツ越しにわかる体温に全神経が集中する。程よい弾力のアツシの筋肉は、もう一度軽く当たりスッと立ち上がった。パキッと耳元で膝の関節がなる音がして、ふわりとシトラスの整髪料のにおいだけが残って消えた。


行ってしまう。


私はノートを片付けながら話題を探す。こんな時こそライブの話をすれば良いのに、焦って何も浮かばない。


急がなきゃ。


しゃがんだ私のスカートのプリーツの横に、アツシの水色のナイキのスニーカーが見えている間に。

ロッカーを閉じて立ち上がり、隣に同じ視線の高さのアツシの顔を見る。

相変わらずくりりとした大きな目は妖精みたいに綺麗なのに、合同体育のあの日より精悍な顔をしていた。

あぁ、男の人なんだな、と意識すると、私の体の女の部分がぎゅっと恥ずかしい程に疼いた。

無意識にスカートを掴むと、手に何か触れた。ポケットにチョコボールを入れたままだと思い出した。


「甘いもの好き?」

「うん」


「アツシにもあげる」


チョコボールを出すと横にガラガラと振った。思わず「アツシ」と呼んでしまった事に心がドクンとした。

今まで挨拶くらいしかしてなかったくせに、急に呼び捨ては不躾すぎじゃないか?

言い訳しようかと視線を震わせたが、アツシの口元はゆるりと上がって、大きな目が細められる。

目尻のシワの深さが、彼の心の豊かさを語っていた。

私より少し大きくて、思った以上に分厚い手のひらが躊躇なく差し出され、そこに丸いチョコレートを一粒、二粒と、落とす。


「キャラメルとピーナッツどっちが好き?」

「キャラメルは冬に食べたら歯折れそうになるから、あんまり好きちゃう」

「一緒!あたしもそう思う!ピーナッツ好き」

「俺も好き」


二粒しか残ってなかったチョコボールを、アツシは一つ口に入れ、もう一つを親指と人差し指で摘んで私に返してくれた。

今度は私が手のひらを差し出し、そこに一粒置かれる。チョコボールが落ちないように装って少し手のひらを窄めると、触れたアツシの指が暖かく、綺麗に切り揃えられた爪が目の前にあった。

ギターを弾くせいで皮が硬くなっていて、逆剥けが出来ている。好きなことに打ち込む、綺麗な男の手だった。


「アッちゃん!時間ない!」


廊下の端から友達の声がして、アツシの手がすっと離れた。

綺麗に刈り込まれた後頭部しかもう見えない。

「今行く!」

チャイムが鳴る。

「行くで!」と友人が肩を叩いて、私の教科書も一抱えにしてアツシ達とは逆の方向に走り出す。慌てて私も後を追って背を向けた時、ピーターパンの声がした。


「なみ!」


時間を止めたい。

と、人はよく言うが、その瞬間の私は絶対に止めたくなかった。

だってアツシの声が私を呼んだ、この私だけの声がずっと続くなら、一緒に年をとっていきたいとまで思った。

振り向くと、同じようにこちらを見たアツシが目を細めて片手を上げる。


「ありがとう!また、教室で!」


水色のナイキがギュギュッと鳴って、走り出したアツシの耳が真っ赤だった。


「うん!また教室で!」


空箱をポケットに突っ込むと、手のひらのチョコボールを口に入れて踵を返す。

そして走りながら両手で口元を覆って、丸くて甘いそれを噛み砕く。


「好き」


なぜだか涙が出そうだった。

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