いちご牛乳


少し様子が変わりだしたのは、私の彼氏のバンドと軽音部が、ライブハウスを貸し切ってイベントをする事になった時からだった。

彼からチケットを受け取った私は、大きな夕焼けを見ながら友人と大阪環状線の大正駅から徒歩10分ほどのライブハウスに向かった。


「なんか私服で会うの変な感じやな!」

「遠足と修学旅行以来?」

「そんなもんかな」


ライブハウス前は、殆どが学校の生徒だった。制服を脱いだ夜の特別な空気に絆されて、普段は話さない子とも会話が弾む。

軽音部の女子が、入り口の手前に設置された長机でチケットのもぎりをしていたので、私はセットリストを知るためにそこからフライヤーを貰った。


「今日ってバンド何組くらいでるん?」

「4バンドプラス、お楽しみあり!」


最初に彼氏のバンドが出て、後に学祭でお馴染みの軽音部が3組控えている。そしてさらにsecret!と真っ黒なアテンションが書かれていた。


「そのシークレット、アツシのバンド!」

「え?シークレットやのに言うてもうてるやん!」

「アツシ出るって言わんと後輩とか帰りよるねんて!」

「何それ!景気ええな?」

「ほんまよ!チケット代で2000円出してんやから見ていけや!」

「アツシんとこ何やるん?ハイスタ?」

「うん、ギターとコーラスで出るから。イベントもアツシの肝入りやし、こっちも楽しませたいのに、ただ会長が見たいだけの奴らほんま嫌やわ」

「学校おったらその辺歩いてるやん」

「それな!でももう3年やん?後輩は先輩の教室前歩けんし、月一の朝礼くらいしかお目にかかれんのよな」


そうか、と思った。


同学年の私ですらアツシと殆ど会うことはなかった。

今だって同じクラスなのに挨拶程度だ。

そう言われると掃いて捨てる様に消費した時間が、急に勿体無く感じ、反省しながら会場に入る。

薄暗くタバコ臭い地下の会場内は、ステージの照明と音響の最終チェックが始まっていた。

その溢れた光に照らされた皆んなは、まだ少し慣れない空気が漂っていて、何個か小さなグループを作って疎に会話をしている。

それを見て、私は合同体育の日を思い出していた。

あの時のアツシは、突然の強風に簡単に飛びそうなくらい頼りなかったのに、今は誰の頭の中にも居場所があって、どっしりと地に足をつけて堂々と風を切って立っている。

ここは、アツシが作った空間なのだ。


「ドリンク1杯、アルコール以外で頼んでね?」


顔中ピアスだらけのファンキーなスタッフに声をかけられた。

チケット代にドリンクの料金も入っているので、カウンターに近づくと、友人達は口々に「ウーロン茶」「私も」とオーダーした。


「あたしは、いちご牛乳」


すっとぼけた私の回答に、友人達が両脇からソフトドリンクメニューをトントンッと叩く。当たり前だが、何度読んでもそんな文字はない。


「どこに目ぇつけとんねん!」

「学食の自販機ちゃうねんから!ウーロンでいいやろ」

「えぇ〜」


そんな私にお兄さんは重力を感じさせないモヒカンのトサカを揺らして笑った。

朝から倒立して誰かにスプレーとドライヤーでセットしたのだろうか。


「え?!裏メニューなんで知ってるの?ここ何度か来た?」


あるのかよ?私達は全員でキョトンと目を丸める。もちろん、私もジョークで言ったつもりだ。


「いちご牛乳、あんの?」

「こんなとこでそんな甘いの飲む奴そうそういないんだけどさ、しつこくオーダーするチビが一人いてね!」


先にウーロンを出してもらった友人たちは、私の彼氏がボーカルを務めるバンドの最前列を陣取る為に、先にステージに行ってしまった。

全体照明が程なくして落ち、BGMがフェードしていく。

一筋だけ赤いレーザーみたいなスポットライトがステージ上に向かっていて、マイクを照らし、白い埃がチラチラと舞っていた。会場内はまぁまぁの人で、入口でも聞いたが、メインはアツシ達だと客入りが物語っていた。

満を侍して真っ黒なライダースを着た私の彼氏がサッと現れると、パラパラと拍手がでた。カウンターにもたれてそれを眺める。

初めて遠目に見た彼のステージは、いつもより退屈だった。

いつも通りの自分の好きなバンドの、好きな曲のコピー。カラオケボックスでも散々聴いていて、それは彼が一番気持ちよく、上手く歌える曲だ。


バタンッ!とカウンターの後ろの冷蔵庫が閉じる音がして、体を向き直すと「明治いちご牛乳」と書かれたピンクのパッケージが暗闇に浮かんだ。

それをシルバーリングだらけの厳つい手が持っていて、そこだけやけにメルヘンで、アンバランスさに頬が緩んだ。


「おねえさん、〇〇高校の生徒だよね?」

演奏に負けない様に互いに声を張る。

「うん!」

「じゃ、出してもいっか。裏メニューとか言ったけど、あいつの自腹なんだよね」

「それって、買ってきて冷やしてるってこと?」

「うん、冷蔵庫を貸してる状態?」


付き合った当初、スピーカーを通して聞こえる彼の声は、どんなに人がいても私にだけに話しかけてるみたいで、いつも特別に思っていた。

なのに今は、急に朝礼で校長先生が話す長話みたいに、耳から耳へ流れて出ていくだけだ。

激しいギターの伴奏に盛り上がるステージ。入り口付近で立ち話をしていた子達もステージの人混みに紛れ歓声を上げる。

私は聞き飽きているが、普段のライブに行かない子達には新鮮だろう。

バーカウンターには私とお兄さんだけになっていた。

染みついたタバコの匂いの中に甘いピンクの香りがふわっと漂い、私は少しだけ鼻を高くする、するとそこは学校の食堂の脇にある自販機の前になる。


「はい、これアツシの奢り!」


使い込んで白い傷だらけのグラスに、並々と注がれたいちご牛乳。着色料だらけでの香料の香りでも、私の目と鼻と口を喜ばせて心も満たすピンクの液体。


アツシも好きなんだ、これ。


いつもより舌に濃い甘さは喉を伝って胃には落ちず心に留まった。


私は友達とステージの最前列で合流し、最後まで騒いで楽しんだ。

もはやシークレットじゃないシークレットゲストのアツシのバンドが出てきた頃には、グラスのいちご牛乳も無くなり、会場内は満員御礼。私は根性で最前列より少し左寄りを陣取る。そしてギターの調整をするアツシの真剣な二重瞼を思う存分に見つめた。


「なみ、彼氏、あっちに出てきたで!」

「あ、」


反射的に動いた足が重い。

これが義務感だと気付くと、途端に従うのが嫌になった。

「あの人は会いたい時会えるからいいわ!」

行ってきて!と手を振って私はアツシに向き直る。

一段上のステージ上でアツシは顎を上げて会場を見渡していた。レスポールが光に反射し、一緒に爪もキラッと光った。

満足気な口元が微かに動き「楽しいな」と呟いた気がする。

この瞬間に私はアツシの心に触れた気がした。


自分の楽しいことで、人を楽しませたい。


膝が震えた。胸がぎゅっとした。今までの高校生活が惜しくなった。

なんで私、この人のことサボってたんだろう?


こんなに素敵な人なのに。

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