第1話
いつからここにいたのか思い出せない。
それだけじゃない。自分が何者なのかも。
けれど空っぽの心に一つだけ。確かな思いがあった。
『行かなくちゃ……約束の場所に』
なんのことだか思い出せないまま、約束した
行かなくちゃ。伝えなくちゃ。今度こそ……。
そこで思考が
自分は、今度こそ、なにをどうしたかったのだろう。
わからないまま、それでもなお思い出せない何かを求め、遠くに見えた一筋の光へ、
「っ!?」
その
「うぅ……私はいったい……」
目を開けると
ただ今はそんな景色を楽しんでいる
グルルルルルル!
「っ!」
低い
猛獣は
その三つの目でこちらを
「こな、いで……」
よく見ると猛獣は、黒い
「
ついにソレが地面を
しかし──
なにかで真っ二つに身体を
「無事か?」
その少し低く落ち着いた声に、なぜかドクンと身体が反応した。
「はい……ありがとう、ございます」
「その姿……お前は……」
目が合った
だが彼女は逆に、
この気持ちはなんだろう。
「貴方のお名前は?」
「……そういうお前の名は?」
「私は、その……名乗れる名がありません。なにも覚えていないんです」
名乗りたいのに名乗れない。自分のこと、過去のこと、振り返ってみようとしても、なに一つ思い出すことができない。
「そうか……俺の名は、レイヴィン」
こちらの様子を
「レイヴィン様」
今聞いたばかりの名を呟いてみると、たとえようのない気持ちが
記憶を失い心にぽっかりと穴が開いたような
(なんでだろう、初めて会った気がしない……?)
「で? お前はどうしてそんな姿なんだ?」
「え?」
最初なにを言われているのかわからなくて、けれどふと視線を向けた自分の
「どういう、こと? 私……身体が」
この時、初めて自分に肉体がないという事実に気付いた。手も足も身体も
「自分の状況に気付いてなかったのか」
そうか。だから彼は先ほど目が合った瞬間に、幽霊でも見たように驚いていたのか。
「身体のない今のお前は、いわば
「ぼ、亡霊……私は、死んでいるってことですか?」
「さあ、どうだろう」
そんなことを聞かれても、彼にわかるはずがない。
透けた自分の
「お前……行く場所がないなら、俺のモノにならないか?」
「え?」
不安そうにしているのを見かねたのか、レイヴィンが
だが「俺のモノにならないか?」とは、どういった意味なのか
「俺は
「そ、そんなこと突然言われても、怪盗なんて」
つまり
「タダでとは言わない。もし俺のモノになるなら、お前が無くした記憶を取り
(私が無くした記憶……)
その提案がとても
自分はなにか、大切なことを忘れてしまっている。
取り戻したい。その
「その提案、お受けいたします!」
「よし、こちらの条件は一つだけ。今から、俺の命令は絶対だ」
「え……」
「当然だろ。お前は俺のモノになるんだから」
つまり、この関係は対等じゃない。彼は、自分の配下になれと言っているのだ。
よく知らない怪盗の命令を、絶対に聞かなければならない約束なんて、
けれど、このままここに一人取り残されるのは心細い。また魔物に襲われる可能性もある。
「ちなみに、私はなにをさせられるんですか?」
「大丈夫、悪いようにはしない」
「そんなこと言われても」
その言葉だけで、初対面のこの男を信用しろというのか。
「どうする?」
「…………」
本当なら断るべきなのかもしれない。けれど「悪いようにはしない」、そんな彼の一言を信じてみようと思った。
どうせもう死んでいるのだ。ある意味
「わ……わかりました。
「いい子だな。おいで、アンジュ」
「アンジュって?」
「呼び名がないと不便だろ。だから今日から、お前の名前はアンジュだ」
「
(今日から、私の名前はアンジュ)
こうして記憶のない亡霊アンジュは、その名を受け入れると共に、怪盗に拾われたのだった。
***
アンジュを自分の
目的は、城に住まうとある
夜の
そしてそのまま
「きゃっ!?」
物音に気付いた部屋の
「セラフィーナ姫」
「レイヴィン先生? どうして……」
名前を呼ぶと彼女は、
レイヴィンは、それに構わずズカズカと部屋に入り、彼女の目の前で足を止めた。
「…………」
「な、なんなんですか、あのっ」
顔を
「セラフィーナ姫。声を取り戻したのか?」
「え……ええ、そうなの。自分でも驚いているのだけれど、先ほど突然」
「……ああ、
レイヴィンが
「そ、そんなことより! こんな時間に……ひ、人を呼びますよ?」
「今日の
また来る。そう約束したあの日から、
「今さら照れなくても。人目を
「っ……で、でも……」
「せっかく声を取り戻せたんだ。話をしよう、セラフィーナ姫」
最初たじろいでいたセラフィーナは、けれど部屋から出て行こうとしないレイヴィンに折れたのか、結局人を呼ぶこともなく、その
***
漁業が盛んで秋になれば、この国の海域でしか手に入らない魚が大量に
明日から始まる豊漁祭に参加しようと集まった観光客で、ウェアシス王国の宿はどこも満室状態。
港町から少し
ただ一室を除いて……。
「はぁ、レイヴィン様まだかなぁ」
アンジュは
その部屋は質素で、窓辺に元気のない花が
あの後、彼は急ぎで行くところがあると、自分が戻るまでこの部屋から出ないように言い残し、
今のアンジュは太陽の日を浴びると、
「これから、どうなっちゃうんだろう」
この部屋に来る
通り名は怪盗S。大陸中に
レイヴィンは素知らぬ顔をしていたけれど、
自分は、とんでもない人に拾われてしまったみたいだ。今さらだけれど。
「はぁ、どうしよう。でも他に行く当てもないし……なんで私、亡霊なんだろう」
手持ち
そこには──レイヴィンが
それだけだ。どこにもアンジュの姿はない。鏡に手を伸ばしてみても、
(自分の姿もわからないなんて……)
肉体のない、魂だけの状態。
なにか未練でもあっただろうかと、ぼんやり自分が死んだ後も、この世を
(とても大切なことを、忘れてしまっている気がするのに)
「~~~♪」
そのまま鼻歌を続けていると、いつの間に後ろに立っていたのか、レイヴィンと鏡
「あ、おかえりなさい!」
「……ただいま。続けろよ」
「え?」
「もっと
最初、なんのことかときょとんとしてしまったが、どうやらレイヴィンは、今の鼻歌のことを言っているらしい。
「で、でも……」
うろ覚えの鼻歌を他人に聞かせるのは、なんだか
「約束しただろ。俺からの命令は?」
「絶対、です」
なんだその命令はと思いつつ、アンジュは言われた通り、もう一度歌を口ずさんだ。
すると窓の外から
「っ!?」
それだけじゃない。偶然のタイミングなのか、窓辺にあった
そんな現象には気付かずに、小鳥たちと楽しげに歌うアンジュの姿を、窓辺に寄り
「歌が好きか?」
歌い終え、
アンジュは少し考えてみてから
「好きみたい。もしかしたら……生前の私も、歌うことが好きだったのかもしれません」
きっとそうに違いない。なにも思い出せない自分が、
「レイヴィン様、私この歌について知りたいです。この歌が、記憶の手掛かりになる気がするから」
「そうか……わかった、調べておいてやる」
「よかった。ありがとうございます」
少しずつでも記憶の手掛かりが見つかり、事態が進展すると良いのだけれど。
「そんなに失った記憶を取り
「もちろんです。自分が何者なのかわからないのは、とても心細いから」
そしてなにより、早く思い出さなくちゃ。大切な、なにかを……そんな気持ちに
「今の私は、自分の顔すら思い出せないんですよ」
先ほどのように姿の映らない鏡を見つめ、ぽつりと
「自分の顔も覚えてないのか」
レイヴィンは
(う、顔が近い、近すぎる気がする……)
神秘的なアメジスト色の
そんな彼にこんな間近で見つめられると、落ち着かない気持ちになってしまう。
「あのあの、そんなに顔を近づけなくてもっ」
「
「え、なんのお話ですか?」
「お前の顔」
「えぇっ、やだ!?」
アンジュは、両手で顔を覆ってレイヴィンから
だって自分は
口が裂けてて目が三つって……。
「うっ、想像すると
ショックを受けたが、そんなアンジュを見て、レイヴィンはククッと
「な、なんで笑ってるんですか。そんなに私の顔、
三つの三日月みたいな目をした自分の、
「
「へ?」
意地悪な
「全部
なんだ冗談かと
「綺麗だよ」
「っ!?」
さっきまでの意地悪な顔が嘘みたいに、レイヴィンは目を細めそう告げた。
そんな顔を見たら、
「ほ、本当に?」
ぬか喜びさせられ、またからかわれていたらと
「ああ、天使みたいだと思ったから、アンジュって名前を付けたんだ」
彼が言うに「アンジュ」とは、ここから遠く離れた異国の地で「天使」の意味を持つ言葉だと言う。
「お前は、すごく綺麗だ。
「~~~っ」
赤面するアンジュの表情を見て、レイヴィンが再びフッと笑った。
(また、からかわれているだけ?)
だとしたら、自分はレイヴィンの思うツボな反応をしてしまっている気がして、なんだか
なにも言い返せないでいるうちに、彼は
「お休みしないんですか?」
レイヴィンと出会ったのは真夜中で、その後、彼は
「今、そんな
「夜に? ……私は、またお留守番ですか?」
この
それは、少し
「……勝手な行動はとるな、大人しくしてること」
「え?」
「その約束を守れるなら、連れて行ってやる」
「守るわ、守ります!」
薄暗い部屋で一人ぼっちは、色々と考えてしまい気が
「夜にとある女性の誕生パーティーに出席する。俺の仕事が終わるまで、俺に
「憑依って? 亡霊初心者なので、やり方がわかりません」
困り顔のアンジュに「亡霊初心者ってなんだよ」と
「おいで」
「え、えっ」
「
耳元でそう
『よし……これが憑依している状態だ。簡単だろ?』
『は、はい。なんとなく、感覚は
彼の
お
『普通の人間には、
これから向かうのは、たくさんの人が集まる場所なので、もし霊感体質の人間がいた場合の混乱を
『わかりました……普通の人が
『どうだろう。昔からそういうのが見える奴なら、見ないフリするかもしれないけどな』
確かに、そうかもしれない。普通の人は亡霊になんて
そう思うと、
(……ん? でもでも、姿の見えない霊体は役に立つからと言っていたし、私はただ利用するために拾われただけか……)
それを受け入れたのは自分なのだけれど、なんとなく複雑な気持ちになって、アンジュはそっとレイヴィンの身体から
出る時も、自分の意志で簡単に憑依は解除できるようだ。
「ところで今夜する仕事って……さっそく
再び机に向かった彼の周りを、くるくる
アンジュのために薄暗くした部屋の中、レイヴィンはランプで手元を照らし
「いや、今日は敵情視察ってところだな」
アンジュには読めない難解な文字を書き続けながら、レイヴィンが答える。
(敵情視察?)
気になるが、今はそれ以上教えてくれそうもないので、仕方なく
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