プロローグ

 それはなまぬるい風がはだまとわりつくような、夏の夜の出来事だった。


「……久々に油断したな」

 しつこくかみの青年が顔をゆがませ舌打ちをする。

 右足にさった矢には、おそらく毒がられていたのだろう。感覚はすでして、とても歩ける状態ではなかったが、それでもここで立ち止まるわけにはいかないと、レイヴィンは王宮を屋根伝いにげていた。

 地上からは、彼をさがこの兵たちの声が聞こえてくる。

 ここでつかまれば命はないな。

 そんなスリルのあるじようきようも、かいとう生業なりわいにしている彼にとっては日常はん。今までも、こんなきゆうを何度もだつしてきた。しかし……。

「グッ」

 力が入らない。足をみ外し落下したのは、とあるひめぎみの部屋にあるバルコニーだった。

「ひゃっ!?」

 それも運悪く姫君が出てきたしゆんかんの出来事となってしまい、大声をあげないよう彼女の口元をレイヴィンは手でおおふさいだ。

 当然だが、彼女は目を丸くしておどろいている。


(戦場の歌姫、セラフィーナ……)


 それが彼女の名だ。

 顔見知りだった二人は、しばらちんもくの中で見つめ合う。

 レイヴィンにとって彼女は危険な存在であり、彼女もまたこちらをけいかいしているのは明らかで。

「おい、あっちに行ったみたいだぞ!」

 ひびわたる近衛兵の声に、二人は時間を取りもどしたようにハッとした。

 もう感覚のないこの足では、逃げることも難しい。ついに彼は、激痛と眩暈めまいに顔を歪めたおれ込んでしまった。

 自分はこんな所で無様にらえられるのか──だが、その考えはゆうに終わる。

をしているんですか?」

 セラフィーナが、顔色をうかがうようにのぞき込んできた。

 その整った顔立ちはまさに黄金比。

 そして宝石のようにんだひとみは、どこかわく的で……。

「苦しそう……」

 桜色のくちびるからつむがれるこわは、ずっと聞いていたくなるほどにここがいい……。

「いったいどこでこんな怪我を」

 彼女は……すべてが美しかった。

 この女が欲しいと、本能的に感情をさぶられるぐらいに。


 ──だが、まどわされてはいけない。


 もうろうとした意識の中で、思わず持っていかれそうになった思考を引き戻す。

 そこで部屋をノックする音と共に男の声が聞こえた。

「セラフィーナ様、夜分おそくに申し訳ありません! 少しよろしいでしょうか」

 彼女はレイヴィンとドアをこうに見やり、なにか思案しているようだ。

 セラフィーナの口をふうじ、足を引きってでもとうそうすることは可能だろうか。

「こっちに来てください」

「っ!」

 だが、レイヴィンの思考が纏まる前にセラフィーナは、ふらつく彼を支えクローゼットの中へと押し込めた。

 そしてノックのする方へ、きのような声を演じてドアを開ける。

「どうしたのですか、こんな時間に」

「お休みの所、申し訳ありません。城にしんにゆうしてきたぞくが、こちらの方へ逃げ込むのが見えたもので」

「まあ、こわい。そういえば……今、黒いかげが一瞬、このバルコニーをよぎって向こうの方へ消えた気が」

「なんと!」

 セラフィーナからの情報をみにした近衛兵は、血相を変えけ出して、彼女が指さした方へ向かったようだった。



 近衛兵を部屋から遠のけた彼女は、クローゼットを開けるとレイヴィンを自分のベッドへ寝かせ、傷口の応急処置を始める。

 気安くさわるなと言いたかったが、意識が朦朧とするせいで、されるがままになってしまう。

 彼のあせぬぐいながら、セラフィーナはほうのように不思議な歌を静かに口ずさんでいた。

 まずい、この歌声をいてはいけない。一瞬、そんな警戒心が過ったのに、夢心地になる声音に包まれ、レイヴィンの思考からますますていこうする気ががれてゆく。


 ──なんだ、この感情は。


 彼女はがみのような顔をした悪い魔女にちがいないと、ずっと警戒してきたはずなのに。

「……なぜ、俺を助けようとする。得体の知れない男を」

「だって……貴方あなたはあの夜私に、私の罪を教えてくれたから。悪い人だとは思えなかったの」

「…………」

「これ以上の深入りは、危険です。やめたほうがいい」

「悪いがそれは聞けないな」

 彼女の歌声を聴いているうちに、不思議と毒による苦痛が治まったレイヴィンは、身体からだを起こしそう答える。

「なぜです、なぜそこまでして、貴方はこの国の秘密をあばこうと……」

「目の前になぞがあるなら、解き明かしたくなるものだろ?」

 言いながら彼はベッドから下りた。足は痛むが、もう歩けないほどではない。

「まだ動かないほうが」

「いいや、もう十分回復した……ありがとな」

 セラフィーナは複雑そうな表情をかべている。

「助けてくれた礼に、お前の願いをなんでも一つかなえてやるよ」

「え?」

「借りは作らない主義なんだ。なにがいい?」

 美しい宝石やきらびやかなドレスなら、簡単に手に入れることが出来るけれど、彼女はそんな物では喜ばない気がした。

「どんなことでも?」

 まどいを浮かべながらセラフィーナがつぶやく。

「ああ、どんなことでも」

 叶えてやれる自信があるから言っている。

「っ……急には、思い浮かばないわ。少し考えさせて?」

 そう告げる彼女の瞳は悲しげで、どこか救いを求めているようで……なぜ、そんな顔をするのか、興味をそそられた。

 もっと彼女を深く知りたい、と。


 彼女がめているそのなにかを暴いてみたい。この手で──。


 自分は今、やつかいなことに手を出そうとしている。

 そんな予感を覚えながらも躊躇ためらいなどない。むしろ久々の感情に心がおどった。

「また来る」


 彼女の耳元でささやく彼は、まるでものねらう時のように楽しげに、危険ないろふくみを浮かべていた。

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