サンプル『呼ぶのは、遥か』2/25:COMITIA147

丹路槇

呼ぶのは、遥か

「呼ぶのは、遥か」


 注文を取る端末の時計が、バイトのシフトが終わる十分前を示している。

焼き場で翌日の仕込みを始めていた社員の柴さんから「ハルちゃん、もう上がっちゃおうか」と言われた。客足が落ち着いたのを見計らい、カウンターの隅でジョッキに注いだ水をごくごくと喉を鳴らして飲んでいるところだった。夏本番でフロアまで遠慮なく冷房を稼働させていても、店には汗ばむほどの熱気が充満している。

 明らかに億劫がった顔をしながらのろのろと立ち上がると、柴さんは意図を承知したように「打刻の修正はしておくからさ」と苦笑して生肉を触った後のゴム手袋を手首から抜き取りごみ箱へ放った。座敷からオアイソの声がかかり、ぱっとレジ前へ出て伝票を受け取る。

 入学前の春休みから働き始めたアルバイトの店は、柴さんの上には店長兼オーナーの福泉さんしかいない、ほぼ個人経営みたいな焼鶏居酒屋だ。学生のバイトは数名、フリーターも二、三人いてほぼ固定シフト、客も少人数の馴染みばかりが来る。安くはないが食べ物の味がいい、日本酒と焼酎の品揃えと入れ替えがちゃんとしているのも売りらしく、舌の肥えた男性客に定評らしい。近くを通れば酒を飲まない子どもでもいい匂いに誘われるその店に、シフト後のまかない飯が目当てで、まともに書けたかも分からない履歴書を持って押しかけの雇われを始めた。

 マニュアルに煩いコンビニやチェーンの飲食店では咎められそうな服装や接遇などを、ここでは大目に見てくれるかもしれないという期待は概ね叶えられている。ただ柴さんが親切でやってくれる早上がりのサービスは、正直なところあまり好きではない。

 ジョッキを返して飲みかけの水をシンクに捨て、スポンジで念入りに洗った。取っ手を掴んで水切りをしてから食洗機の次の洗いかごに立てて置き、ペーパータオル一枚で適当に手を拭く。

「お先に失礼します」

「ハルちゃん、今日も親子丼かな?」

「はい」

 まかないのメニューを尋ねてくれるのはベテランの葉月さんだ。それまでフロアで給仕と接客をしていたが、深夜帯のシフトは人数が少なくなるのでキッチンの持ち場へ引っ込んでくる。彼女が支度するお通しの浅漬けや煮付はいつ食べても美味しかった。シフトあがりにまかない以上の摘み食いをさせてもらうのは別の手仕事も兼ねている。翌週の季節の品書きを筆ペンで書き、コピーしてラミネートをかけた用紙を入れ替える。それはなぜか適当に書き殴った履歴書を「字が上手い」と褒められてから課されたルーティンだった。

 一度、バックヤードのロッカーへ戻り、紺色のTシャツとオーバーサイズのデニムを脱いでここへ来た時と同じ制服姿に戻る。プリーツスカートはオールドスタイルで太腿が見えるくらい短くするのが好きだった。白シャツは適当に袖を捲り、デッキシューズから革靴に履き替える。スニーカーソックスは脱ぐのが面倒なのでそのままにした。スクールバッグの肩紐をだらりと片手に提げ、一緒に手に持ったスマートフォンのショルダーストラップを尻尾みたいに振りながら、カウンターの隅の席に腰を下ろした。

 筒に刺さった割り箸の群生から偶然に選ばれたその一膳をぱちん、とふたつに割る。分かれた線の出来を見る時、まるでその日の運勢を占うみたいに期待と落胆が入り混じる。今日のはひとつの頭が完全に隣の片割れへ残ったままで、斜めに途切れた短い方が物悲しく思える歪な分断になった。修復しがたい不恰好な割れ目を見ながら、そういえば今日は変な日だったとひとり反芻を始める。

 

 朝のアスファルトは未明に降った雨に濡れて鱗模様を描いていた。シミはあっても水溜まりがないことをぼんやり思いながら、いつもと同じ時刻に駅のホームに敷かれた点字ブロックの内側へ並ぶ。すると突然短い地震があり、周囲のスマホから一斉にアラートが漏れ出た。数日前から立て続けにあった小さな揺れの余震だろうと呑気にそのまま列に並び、そのあとはじめに駅へ着いた列車に乗ったが、結局は人身事故もあって学校に四十分ほど遅刻した。

 二限の情報の授業でも奇妙な事があった。教室に常置してる無線ネットワークに、学校配布のタブレットが一台も接続できなくなった。ルーターの再起動やタブレットのソフトウエアの更新も試みたが状況は改善しなかった。

 夕方、バイト先へ向かう電車の中で着信に気づき、条件反射で端末の画面を見る。知らない番号が通知に出ることはよくあったが、その時は登録された連絡帳の名前が表示されていて、確かに母親からだった。降車してからメッセージを送ると、電話なんてかけていない、とすぐに返事がある。鞄の中の誤操作だとか着歴を見れば分かるとかいろいろ言ってみたが、彼女は本当に記憶も記録もないのだと通した。

 通話アプリに戻ってそれが正しかったことを知る。着信履歴に残っていた番号は確かに母親の名前で登録されていたが、長年意固地に使っていたガラケー時代のもので、解約して既に数年が経っている。番号は一定期間経てば他のユーザーによってまた使われるらしいことは聞いていたが、それにしたって、新しいユーザーが前の利用者の身内へ発信するという偶然は、確率的に起こりうる事なのだろうか。

 葉月さんがほっとするような柔らかい声で「はい、お待たせ」と小ぶりの丼をカウンターへ置いてくれた。親子丼と一緒に差し出してくれた小鉢を、箸を掴んだままの手で受け取る。

 オクラとささみの塩昆布和えは夏の緑を感じるいい色合いだった。季節メニューの配置やデザインペンで表す書体などを考えながら、筆は一向に進まずつまみ食いばかり捗る。口の中で広がる程よい塩気が空腹をくすぐってあっという間に器をあけた。

「すみません、おかわり」

 カウンターに小鉢を返してもごもごと続きをねだるのを葉月さんがふふっと笑う。細められた目はこちらにではなく、すぐに来店したお客の方へ向き直った。目配せでおしぼりを出すようにと示され、丼の縁に箸を置き立ち上がる。その時にはもう自分のすぐ傍に立った男性客から、深い雨の匂いが漂っていた。

「こんばんは。いいねえ、オクラ。僕も同じのください」

 また降ってますか、と葉月さんが応じる声に丁寧に頷くと、その客はゆっくりとカウンターの、なぜかまかない席のすぐ隣へ腰を下ろした。袋を割って差し出したおしぼりを指先でつまんで引き、大きくて無骨な手を熱い布地で丹念に拭う。

 常連客の川上さんは、この店では〈陽ちゃん〉と呼ばれていた。実際はちゃんづけするような可愛らしい風貌ではなく、長身で髪は縮れ毛、スーツでも私服でも猫背がくたびれて見え、年相応に肌に染みや皺がある感じの、恐らく母と同年代のサラリーマンだ。お喋りではないが周りの店員や他の客にも愛想よくするから、シフト中に注文で彼に呼ばれるのをまず嫌だとは思わない。

 ただ、今は退勤後にひとりのびのび夜食を食べる憩いの時間のはずだった。いくらおしぼりを届けてやったとはいえ、制服姿のバイトの隣に来るとはどういう了見だろう。

 ぐっしょりと濡らした背広を脱いで畳みながら、壮年の客はこちらにお構いなしで、ハイボールのメガジョッキも一緒に注文する。

 

 親子丼を食べている間に雨はどっと音を立てて降った。しかし数分でたらいが空になったのか雨足はほぼ途絶え、綺麗に洗い流された後の駅前の風景が店の硝子越しに見えている。

 柴さんが「また降り出したら危ないから」と、順々に客を送り出したり、ロータリーまで歩いてタクシーの確保を手伝ったりしていた。飲み足りない面々は座敷の奥へたむろして、瓶ビールの追加注文に葉月さんを呼ぶ。

「遥さんも、何か飲む?」

 静かに晩酌をしていた川上さんが不意に話しかけてきたので、咄嗟に大きく首を横に振った。横髪が遅れて動作をなぞり、頬をちりちりと擦る。振り子みたいに頭をゆさぶったのが面白かったのか、メガジョッキの向こうに落ち着いた微笑が浮かんだ。もう中身は氷だらけで粗方飲み干されている。

「お酒作る。おかわりでいいの」

 席から降りてメガジョッキをかすめ取りカウンターへ戻ると、縮れ毛の下にある双眸は眩しそうにこちらを見ていた。やや間延びした口調で、カルピスくらいご馳走するよ、と提案する川上さんを無視して、カウンター越しに中身を作り直したハイボールを出した。端末でオーダーを入力するのが億劫で、焼き場の上に提げられた伝票にMH1、と書き込みをしておく。

「すげないなあ、でも安心する。みんなにそうなんだろう?」

 氷は足されずにやや濃く割られたウイスキーに口を付けて、川上さんは機嫌良く氷を鳴らした。

 みんなにそうかどうかは知らない。自分でも不愛想な方だと分かっていたから、客が用件以外のことを話すかどうか、もともとほとんど気にしていないし。

 返事の代わりにカウンターから腕を伸ばし、丼の隣にカルピスのグラスを置いた。飲めって言われたんだし、断らなかったのは好きなものを頼めるからというだけ。彼が来てから言動ひとつひとつに言い訳の注釈がつく。

 カウンターに灯る飾りランプの暖色で見る川上さんの顔は、お酒でほどけた表情になるからか、少し若く見えるなと思った。錯覚する見た目くらいに実際に若かった頃、もう今と同じ仕事をしていたのだろうか。大学は出たのか、親はまだ健在か、心に決めていた恋人は。

 今が独り身と決めつけてしまったことに悪気も申し訳なさもなかった。かといって可愛い奥さんに子どもが三人います、なんて言われても別に驚くことはない。

「学校は楽しい?」

 返事を得なくても構わないとでもいうように、ハイボールの向こうから浮かぶ問いは優しく投げて寄越された。食べ終わった丼をカウンターへ運んで洗い、割り箸をほかのごみと一緒に捨てる。仕込んだまま誰も頼まなかった梅きゅうりを冷蔵庫から出して川上さんの取り皿の脇へ置いた。そうやって自宅のキッチンを出入りするみたいにカウンターへ行って返ってを何度かして、また客席へ腰掛けると、ただ酒を飲んでいる壮年ににこりとされる。

 今春入学した高校は、一学期だけで特段の理由もなく行かなかった日がもう何日もあった。朝起きて布団から這い出す時に、ああ今日は登校しないな、と自分のことが分かる。二度寝で寝坊したり、電車に乗り遅れるなんてことはないのに、正門に向き合ったところで満足した日もあって、そうやってスキップした日は少しずつ間隔を空けず増えていった。

 きっとそのうち学校を辞めるのだと思う。ここでのバイトは一生懸命できるのに、高校生を真剣にやることができなさそうだ。たった数か月でそれに気づいてしまった。

 返事をしない無作法な店員に、川上さんも何も言わない。貰った梅きゅうりに手をつけて、あともう少し何か腹に入れたいと節ばった指でメニューをめくる。

「きみが一緒に食べてくれるといいけど」

「要らない。ご飯終わった」

「焼きおにぎりは?」

「……それは、食べる」

「あはは」

 すみません、と声をあげて伸ばした手は空振りに終わった。客側からすれば無視されている心地がするのは分かるが、店員の耳に届いていない場面、どんなことが起こっている時なのか、バイトを始めて分かるようになった。他のお客のところへ給仕をしに出ていた葉月さんが、空耳を聞いたようなぼんやりとした表情で後ろを振り向く。

「こっちこっち、焼きおにぎりみっつ、レバー塩で一本、間に合うかな?」

 上げたまま引っ込みがつかなくなっている左手をひらひら仰がせて、川上さんが少しよれた声を無理に張った。

「ヤキオニみっつ塩レバひとつ入りますー、いつもありがとうございます」

 ふわっと広がる葉月さんの仕事の笑顔は、細くなった目にかかる濃い睫毛が綺麗で素敵だった。多くの常連客が彼女の笑顔見たさに、なんて下心を孕んで焼鶏を食べに来ていることは、柴さんもきっとオーナーの福泉さんも承知していることだろう。川上さんのようにここが長い客なら、葉月さんより以前にいた女性店員から始まって、その時々の気に入りを癒しにひとりで飲むのは自然だと思った。

「帰り、送るよ」

 額に乗った縮れ毛を手で梳き上げながら、どんぐりみたいな茶色い目をぱちくりさせて、川上さんが無邪気に笑った。おかわりのメガジョッキが効いたのか、疲れでくすんだ肌にやや朱が差している。

 近所や学校にいないから大人の男性が物珍しいとか、自分も試しに誰か常連客の気に入りの位置についてみたいとか、そんな浅ましい感情は持たないつもりだった。年齢なんて関係ないと格好つけて言い捨ててみたかったし、くたびれた会社員の横顔に愛敬を覚えても、別に誰かに叱られるわけでもないと思った。

「柴さんに何ていうの」

「何も言わないよ。遥さんに断られたら諦めるだけ」

 そう言って腕時計を捻るようにいじっている分厚い手をぼんやりと見遣りながら、少し迷って声にしかけた何かを呑み込む。試しにカルピスに口をつけても、どこからともなく湧く渇きは不思議と濃くなるばかりだった。

「遥さん」

 川上さんが腕時計から手をほどいてゆっくりとこちらをのぞき込むように体を屈めた。アニメみたいにまんまるに描かれた目が瞬くと、本当にぱちぱちと聞こえてきそうだと思う。見られていると思ったのか、照れくさそうに寄せられた鼻の頭にできた皺のかたちが目に留まると、なぜだかくすぐったい。

 カウンターの隅で横並びに座った彼と目が合うと、耳奥でかちりと錠が回ったような音が鳴った気がした。

「今日、おかしな日だったね。そう思わない?」

 

 午後十時四十五分、会計を済ませた川上さんと一緒に店を出た。焼きおにぎりふたつご馳走になって、カルピスを何杯もおかわりして、足元に置いていた荷物の存在をようやく思い出した時には、猛烈な眠気と気怠さに襲われてもう立ち上がれないかと思った。柴さんは「気をつけてね」としか言わなかった。葉月さんはカウンターの影で拳を握り、きゅっと唇を結んで小さく頷いてみせている。仕事着でも彼女はいつも汗も脂も感じない理想のお姉さんだった。ただ制服を着ているだけの、殻も器も半端な自分が途端に惨めに思える。

 自分の臆病な性質に合わない広い肩や、無為に引き締まった手足の筋肉、いつまでも定まらない掠れた声が毎日ただ疎ましかった。そういうことに目敏いのはここには福泉さんくらいしかいない。

 さっき川上さんに誘われて店を出たことに、素直に小さな昂揚を覚えている。街灯だけが頼りの静かな住宅地は雨が過ぎ去った後ということもあり静まり返っていた。カツカツと靴音がすると振り返って確かめたくなるくらい、人の気配もほとんどない。

 なんとなく家の方へ歩いているような経路をのろのろと進む。しばらく存在を忘れていたスマートフォンの画面を光らせると、通知画面にたまったバナーの中に母の《先に寝る》という報告が入っていた。

「親、もう寝てる」

 わざわざ人に言う必要のないことを、妙に反響する夜の道で口にしてみる。吐露すれば楽になるものばかりではないのか、と後悔して、立ち止まり画面を切った端末を鞄にしまった。

 唐突に足を止めても、逸ったり重くなったりする歩調にも、川上さんは巧くそれに合わせて進み、少しだけ距離をとった隣にずっといた。

 雨上がりの蒸れた空気は夜の涼やかな情景を無視して、肌の隅々までべっとりとまとわりついて粘っこくくっついてくる。着ている服すら擦れるのが嫌で、足の動きに合わせて僅かに浮くスカートのプリーツ丈を、わっと叫んで跳ね上げてばたばたと扇ぎたくなる衝動に幾度となく襲われた。

 特に何かを話すでもない彼を理不尽にも狡いと思い、苛立った語気で「歩くの怠い」と呟いた。

「うん、疲れたね」

「アイス買いたい」

「はは、ほらそこ、ローソンが見えるよ。すぐだから」

 頑張ろう、と励ます耳触りが、子どもの頃に上級生に手を引かれて歩いた全校遠足みたいだと思う。丸まった背が振り向くと、分かった風に、はい、と手を差し出してきて、それを無視しても手の甲をぱくりと掴まれた。

 川上さんは悪い大人だ。調子が良くて、嫌なやつで、たぶん葉月さんが好き。

 はじめから全部知っていることを思考の内で再生する。些細な、ただそれだけのことで、悔しくて握った拳を脇に隠した。痛くて、突き飛ばしたくて、ばかみたいに泣きそうになる。

 彼がコンビニで買ってくるのを店の外で待っていた。ガツンとみかんは売っていなかったと言って、高そうな小ぶりのカップアイスをポリ袋に入れて出てくる。

 近くに公園は見当たらず、数年前に建てられたばかりの大型マンションの棟の間にできた遊歩道のベンチくらいしかない。藤棚に守られてほとんど雨に晒されていなかったそこは、寝転ぶことができないようにバーが二箇所に設置されている。傍では尖った白色の街灯が光っていた。

 灯りから一番遠いところへ腰かけて、袋の中から迷わずグリーンティーのカップを抜き取ると、川上さんは眉尻を下げてははっと笑った。

「僕、苺かぁ」

「いちごの顔してた」

「遥さんが好きかと思ったんだ。ごめんね」

 さして申し訳なさそうにしていない顔を尻目に、木べらで柔らかく膨らんだ冷たいアイスを掬って口に含む。ブランドアイス独特の口溶けとまったりした甘みが舌に広がる。さっきの親子丼も小鉢も攫っていくくらい味覚が凌駕される予感に一瞬躊躇って、すぐに欲望が勝り、紙容器の壁にざっと木べらをなぞった。

 川上さんはアイスを食べながら、のんびりと今日の話をし始めた。

 

 同じように通勤時間帯の地震と電車遅延に遭った川上さんは、普段より少し遅れて都心のオフィスに出社した。社員証のICが何をしても読み取り機では反応しなくなり、入社以来初めてのことにやや驚いたという。事務所で手続きまでしに行ったが原因は不明で、磁気もセキュリティ設定も正常のままだったらしい。

 昼休憩でオフィスの外へ出たらその日に限って楽しみにしていたキッチンカーが来なかった。記憶にあった店名をキーワード検索すると、SNSでその小規模事業者の廃業を知った。

 食後には暇つぶしに画面を操作していたスマートフォンが突然ぷつりと切れて、後には白いリンゴマークしか点灯しなくなり、それが光っては消えとループを繰り返すだけになった。

「もともとそんなに友人もいないし、連絡先を交換していない知り合いの方が多いくらいだから、いざこの電話が使えなくなりましたって言われてもさ、やっぱり困らないものだなって。昔だったら、絶対の危機には小銭を握りしめて電話ボックスに駆け込む、なんてことがあったよ。小学生の頃かな……遥さんは、公衆電話に触ったこともないでしょう。それで、つまり、今日のおかしな状況を、僕は結局誰にも何も言わないし、どこの番号にもかけなかった。そもそも暗記している番号なんて、実家くらいしかないしね」

 自分の中で整頓するように語られた言葉はとりとめもなく、少し退屈で、外気の怠さとアイスの甘さにぴったりだった。話し終えた川上さんの傍でもくもくと木べらを口に運んでいると、彼は広い手のひらでくしゃくしゃと縮れ毛の頭を掻いた。

 マンションの前にある通りを自転車が走り抜ける音がする。びしっと水たまりを跳ねた飛沫の残響が通り過ぎるタイヤの駆動音に並走した。雨上がりの仄かな生臭さはもうほとんど分からなくなっている。食べ終えたアイスカップの壁面を折り畳んで潰し、ラグビーボールのような形にした。木べらを隙間に押し込んでポリ袋の中へ戻す。

 昼前にかかってきた母の古い携帯電話の番号を思い出していた。もしも川上さんが公衆電話に駆け込んで、どこかへかけようとした番号が、ボタンの掛け違いみたいな偶然で、自分のもとへ届いていたら。もしかしたら地震も電波障害も関係ない別の奇跡で、当時の番号が今の川上さんの電話に使われていたとすれば。

 ありもしないことを考える時間は楽しくてあっという間だった。体に溶けたアイスの心地よい冷気は失せている。話すこともなくなれば、彼が去った後はただまっすぐに母の眠る自宅へ帰る。

 柴さんは次のシフトで今日の帰り道のことを必ず聞き出そうとするだろうし、葉月さんはきっと別れ際に見せたおかしな意気込みの顔を忘れてしまっているだろう。学校は好きにも嫌いにもならないまま、もう二度と通わないかもしれない。母は仕事に忙殺されて夏休みが終わるまでは子の学業について放念してくれる。

 いつも通りの日常が確かに継ぎ合わさって連なっていくはずであることを確認して、本当に変な一日だった、と最後に自分に言い聞かせた。

「かければ、よかったのに」

 うっかりこぼれ出てしまった言葉は、自分の体のどこから湧いて出てしまったのか。慌てて口を噤み、言い重ねるごまかしを探したが何も見繕えない。大人みたいに場を濁して酒をぐいと煽り、笑ったりため息をついたりして知らぬふりができるのが、こういう時だけ少し羨ましく思えた。

 ベンチの下に投げ出した革靴の丸く縫い目のついた爪先をぼんやりと眺める。今すぐにでも帰ると告げて立ち去ってしまうのがいちばんの得策だと分かりきっていた。それでも体は息をするごとに重くなっていく。

 

 川上さんはしばらく身じろぎもせず隣にいて、それからカップアイスのごみを入れたポリ袋の口を縛ると、ついでみたいにごそごそと鞄をまさぐった。取り出したスマートフォンはやはり今でも再起動を拒んでいるらしく、サイドボタンを押しても何の反応も見られない。

 それにはさほど期待していないようで、彼は無反応の画面に手帳型カバーを被せて閉じ、さらに鞄からペンを取り出した。芯を出したペン先を、突然カバーの上にうねうねと走らせる。

「なに」

「遥さんが、よければ」

 すぐ横にいる壮年の常連客を灯りの下で見据えた。縮れ毛に似合わない丸っこい双眸、目元や首に重なった皺の溝、情けなく落ちた肩、ペンを持つごつごつした手。

 どうして川上さんなのだろう。それをいつも、誰かのせいにしたくて唱え続けている。

 目が合うと、彼はくしゃっと顔の皺を濃くしてはっきりと笑った。嬉しい時にはここまでしわくちゃになるのかと思いながら覗き込んでいると、取っ手が体温ですっかりぬるくなったペンを持たされる。

「電話が直ったらかける。番号、書いてくれる?」

「……葉月さんの、代わり?」

「違うよ」

 受け取ったペンをぬるっと合皮のカバーに滑らせる。してはいけない場所に落書きをしている罪悪感よりも、別のところで情緒が混ぜ返されて、臍のあたりがちくちくと痛んだ。

 090、とカバーの留め具の横に書き出して、次からの四桁を並べる前に、諦めて腕を下ろした。これ以上手が震えたら、もう何も書けないと思った。

「川上さん……」

 絞り出した声も掠れてどこかへいってしまう。このまま俯いていたら、雨上がりの乾きかけのアスファルトのタイルがまた黒ずんでしまう、とどうでもいいことだけを案じた。

 吐き出して楽になりたい喉元のわだかまりをぐっと呑み、気を取り直して合皮に油性のインクを走らせる。残りの八桁を書き並べておずおずと差し出すと、大きな手が大事そうにそれを包んで受け止めた。

「知ってるから、平気だよ。これでもかなり、遥さんばかり見ていた自覚はある」

 それから節ばった指先で筆圧に窪んだ数字の羅列を撫でて、この場で瞬時に暗記してしまいそうな熱量で凝視してから、ペンとまとめて丁寧に鞄にしまった。

 先に立ち上がった川上さんが軽く尻を払う。布地が湿っていたのか、「スカート、大丈夫?」と尋ねられた。

 遅れて立ち上がり確かめたが、濃紺のプリーツに歪な折り目ができてしまった以外は平気そうだった。小さく頷くと、川上さんもこくりと首を縦に振る。

 短くした丈の下に伸びる脚は骨張って柔らかみがなく、どんな努力をしたところで可愛くはならなかった。陽光みたいにあたたかい葉月さんの笑顔は真似できないし、柴さんの見返りを要さない親切も邪険にしか応えられないし、周囲に倣って川上さんのことを〈陽ちゃん〉と呼ぶ勇気は当面やってこない。

 彼と再び並んで道を歩く。濡れた地面の気化の匂いが熱を持って呼吸に絡んだ。緩くカーブのかかったバス通りの、街灯の色のない点々を追って、ゆっくりと夜半に向かう。

 桜並木の用水路を渡った先に、母が眠る古いアパートが見えた。歩くのをやめて川上さんの足が止まるのを待つ。頭ひとつ分飛び出た背がゆっくり屈んで、まだ酒に助けられたみたいな少し幼い相好で短く別れを告げた。

「遥さん、また」

 鼻先に近づいた髪から炭焼きの残り香が立つ。今度の焼きおにぎりは葉月さんにお願いするのではなく自分で網を見ようと決めた。川上さんの背中を見送りながら、目尻に集まる皺の束の形をぼんやり思い出している。

 

 階段をのぼり、鍵が開いたままの鉄の扉を引き開けて家の中へ駆け込んだ。音が立たないように後ろ手で押さえ、ラッチが噛んでゆっくりと戸が閉まるのを待つ。

 背中に触れていた鞄から唸るようなバイブレーションの振動が始まる。奇妙な日はまだ終わらないらしかった。長音が断続する通知の周期に、それが着信の報せだと数秒で気づく。

 スマートフォンを探り当てジッパーの外へ引き出す。ロック画面いっぱいに表示された番号と宛名を目にして、次にはもう、親指で通話ボタンに触れていた。





「もう、化けない」


 さらさらさら。襟足を撫でる。ついこの間まで尻尾みたいに伸びていた髪は扇状にぴたりと切り揃えられて、色白の耳が見えるくらいまでに短くなった。

 短くなって、ふっくらした分厚い耳たぶとか、くの字に折れた顎の線とか、うなじあたりにあるみっつ並んだほくろが皆に知られてしまうのが、ちょっとだけ悔しい。

 布団に寝そべったまま腕を伸ばして毛先を指で梳いてばかりいると、遥さんはあまり困っていないように軽く眉を動かし、僕の手遊びをそのままにさせておいて、気怠そうに布団をめくった。

「あー、靴下片っぽ、どこ行ったんだろ」

 微かに掠れた声が体の線の細さとか若さというよりも生熟れな感じが綺麗で、動く唇の上から手を添えて指の腹が擦れる感触を楽しむ。すぐに僕の悪戯に気づかれてがぶっと歯でやられた。

「痛い、でも気持ちいい」

「変態」

「そう、変態なんだ僕。こんなおじさんにつかまったらいけないよ。逃げて遥さん」

 見下ろされる双眸が、そのひとの母親くらいの年代の中年男をぴたりと見据えた。なんだかちょっと恥ずかしい。

 学生の頃はムキムキの良い体だったのに、という本気の物憂いを遥さんはくすくすと笑う。笑うと持ち上がった口の端に尖った八重歯が見えて最高に可愛い。可愛いと言うと怒るのに、心なしか嬉しそうにするのも感動してわっと叫びたくなるくらい可愛い。

 いつまでも布団から起き上がらない中年の横倒れに転がった背にとんと手をつくと、笑っていた窈窕は不意に窓へ顔を傾けた。

「雨」

「本当に。降る予報だっけね」

 言われたら不思議と空気の中の湿り気が鼻につくようになった。朝まで止まないかな、と呟くと、薄い背がぺたんと敷布団に伏せられて短く唸る。

「ふふ、猫みたい」

「うるさい。靴下もう履かないでいい。川上さんちで寝る」

「それは」

 何とも都合の良い提案だねえ、と呑気に答えると、遥さんはますます不機嫌そうにシーツをぐしゃぐしゃに握った。

 顔にかかった髪を手ですくって後ろへ送る。切り揃えた髪は布団の上でも扇子みたいになだからに弧形に広がった。根元まで綺麗に染まった髪の束が常夜灯の暖色の下で蜜みたいに艶々と光っている。

 

 待ち合わせは駅の西口ロータリーで、と手短に連絡して乗り換え駅のホームへ続く階段を駆け上がった。今朝は家の窓から取り込んだ空気で凍りそうに寒いと思ってダウンを着て出ていたが、今は完全にそれが裏目、スーツの内側でだらだらと汗玉が零れ落ちる不快が伝う。

 スマートフォンを手に握ったまま混雑している電車に押し入るみたいに飛び乗った。それでも朝よりは少し空いている、なんて感覚が既にもうおかしい。首都圏にこんなに多くの人が住んでいるという当然のことに驚いて、まだこの時間に帰路につくことができて僕もきみもよかったね、などと同じ車両の人間に訳のわからない共感を抱く。

 年度末の夥しい業務の締切日を次々につきつけられて、もう春が来るのか、と今頃になって気づいたのが先週。確かにこの頃の通勤時間に学生服を多く見かけるなと思っていたら入試シーズンだったらしい。ちょっと心配になるくらいの短いプリーツスカートの影、つり革みたいにふわふわ揺れるひっつめを見かければ自然と遥さんのことを思い出した。

 その横顔を想起するたびに、年甲斐なく胸が熱くなるのを感じた。早く会いたいな。毎度の待ち合わせを別にあんまり楽しみにしていなかったみたいな顔をして、控えめにこちらへぱたぱた歩いてくる、身軽な足音が聞きたい。

 最寄駅に着く数分前、長閑に画面を光らせているだけだった端末がブッと振動した。上から降りた通知バーの暖簾を押すと、顔文字も絵文字もないすっきりした文体で遥さんからの連絡が届く。

《今ローソン、西口の方》

 車内アナウンスと共に減速した列車がゆっくりとホームへ入っていく。慣性の感覚が体から抜ける前にドアが開いた。まだホームドアが設置されていない平坦なアスファルトへふらふらと降り立つ。風のない夜の空気が頬に触れるだけで寒さにちりちりと傷んだ。

 やっぱり冷えるな、でもまたすぐに暑くなるかもしれない。エレベーターの行列を横切って階段を小走りに降り、混雑する前のIC専用改札を通り抜けた。タッチアンドゴーなんてきょうび言ったりしないよね。ああまたオジサンって思われちゃうかな。

 コワーキングボックスの影に立っていた遥さんが、壁に寄りかかっていた背を浮かせてからぶらぶらと白いポリ袋を振ってこちらへやって来る。黒いパーカーに黒いスウェット。フードを目深に被って、肩には紐をめいっぱいまで伸ばしたボディバッグを気怠そうにかけている。鼻面まで影になっていても、透けそうな白い肌がよく映えた。

 ダウンを掴んだままの手を上げて歩み寄ると、微かに臆病を見せた足がじりっと小股になった。

「ごめん、たくさん待たせた」

 細い指に絡まったポリ袋の取手を解いて受け取ると、遥さんは不思議そうに「そんな内容だった? さっき」と首を傾げる。

「さっきって、 何の話?」

 答えの代わりに瞬きふたつすると、自由になった手はパーカーのポケットに突っ込まれた。すぐに取り出されたスマートフォンをすいすいと親指で自在に操作する。時間を気にしているのかと思って自分の端末もポケットから取り出したら、その端末が手の中でぱっと点灯して着信を報せた。

「……あれ、 電話くれてる?」

「電話はあげない。出て」

「あはは、はい。もしもし」

 顔の輪郭を無視したストレート形の本体を耳に当てる所作も、十数年前は違和感でいっぱいだったけれど、今は何とも思わないのが不思議だ。遥さんたちはきっと、イヤホンマイクで画面をトランシーバーより少し遠めに翳しながら通話をする。もしもしなんて言わないよ、と行きつけの店で働くベテランの葉月ちゃんに笑われたこともあったっけ。

 僕と向かい合って立つ背は、再び首を傾げるのに合わせて小さく揺れる。

「山郷です。なんだ、ふつうに聞こえた」

「うん、なんだか楽しいね。今度電話もかけるようにするよ」

 別に、と言って行先に向き直った遥さんの後ろ姿に、思わずあっと声をあげてしまった。

 落ちたフードから出てきたのは、いつものひっつめに留めた黒髪ではなく、レモン色に染まったワンレンボブだった。

 振り向いた双眸がじとっとこちらを睨んでくる。挑発的だな。そういうのを煽っているというのだけど、おそらくこの若くて儚い背はその見返りを負ったことは未だない。

「可愛いね、髪。染めてもらったの?」

 すると途端に相好は幼さを取り戻して、ややばつが悪そうに「液、買ってやった。……葉月さんが」とバイト先の先輩の名前を口にした。

 葉月ちゃんや遥さんが働く焼鶏居酒屋さんには、近所にあるコンビニやスーパーのような服装や身だしなみに厳しいルールはない。社員の柴くんも赤毛にピアスで素晴らしい接客をする。ご飯は美味しいし、みんなお客さんとほどよく親しくしてくれるし、店員さん同士が仲が良いのもすごく好きなところだ。レモン色のボブが明日からお店のフロアに往来することを考えると、そこにまた彩りが加わるのは純粋に楽しみではある。親御さんは少しだけ驚くんじゃないだろうか。今は春休みの時期だし、多少は大目に見てもらえるのかな。

「へえ。葉月ちゃん、相変わらず器用だなぁ」

「……そだね」

「ちがう、えっと、変な意味じゃないよ。遥さんはさ、ほら、お店に置いてあるポップの字が綺麗で、色使いとかすごく好き」

「いい、そういうの。川上さんの趣味とか興味ない」

「ごめん、拗ねないでよ。ねえ待って」

 そのままぱたぱたと先を歩いていく心許ない背を追いかける。何だろう、このふわふわした不確かな、おとなのかたちになる未満の存在は。つつけば弾けてなくなってしまいそうな、夢の中の泡みたいな感触は。

「楽しい気持ちだったんだね。ごめん、ちゃんと分かってなかった。そういえば、学校はもう春休み? だから……」

 コンコースを出た駅前のロータリーは、タクシープールに数台のヘッドライトが浮かぶ他は、深更に向かってぼんやりと景色に沈んでいく店がそっと並んでいるばかりだった。各々家路に向かう人々も疎らに散って、僕等の他に誰もいないのではと思わずあたりを見回したくなるくらい、静けさが表層から沁みこんでくる。

 突き進んでいた足はぴたりと止まった。遥さんは空を見ていた。僕には何も話してくれるつもりはないのだと思った。


 これからどんなふうに過ごしたい? せっかくの初めてだから。美味しいものを食べて、広いお部屋に泊まってみようか。好きな恰好してさ、普段はしないこともできるよ。ゲームしたり、映画を見たり、お酒はあと四年、我慢だけど。ワインを舐めるくらいは目を瞑っちゃうかな。

 そんな甘い誘い文句に、柔らかな頬は仄かに朱に染められた。遥さんは何をしたって可愛い。照れると怒って拳を振る。ぶたれても痛くはない、本気で悪いと思っていない、だけどごめんねって何度も言って、やっと許してもらえる時が、いちばん幸せ。ずっとずっと、何度でも繰り返してもいい。

 今晩のことは、何を提案しても喜んでくれると思っていたのに、形の整った薄い花唇から出た答えは慎ましくしかし頑なで、ただ「川上さんの部屋がいい」の一点張りだった。

「制服じゃないから、もうスカートはやめたの」

 手を繋ぎながら夜道を歩く。正確には、遥さんは五本指で僕の人差し指だけを握っている。昔、こうして父親の手を掴んで幼い足は懸命に歩いたのだろうか。少しだけ切なくなって、固く結ばれた拳を、伸ばした残りの指で包んでぎゅっと握り返す。

 コンビニの袋の中身を聞かないまま、駅から徒歩七分の自宅へ着いた。更新手続きを三回して住み続けている賃貸マンションは、一階のテナントがセブンイレブンという、それだけで間取りの狭さも高架の騒音も帳消しになる好物件だ。

「明日予定があれば、帰りは車出すし、泊まるなら今のうちに肌着買っておけるよ」

 軽く手を引いて注意を促したけれど、やっぱりあっさり無視されてしまう。まあそうだよね。でも次は大事な話。

「ここに来るの、おうちの人に連絡した?」

 きちんと答えないと家に入れてもらえないと悟った遥さんはすぐにぱっと顔を上げた。こういう賢いところも魅力的でとても好き。たぶん僕はお店で注文を受ける時の横顔からそれを読み取ってしまって、それから長年完璧に保ってきた善良な常連客という均衡を、呆気なく自分から投げ出してしまった。

「お客さんと、飯食ってくるって言った、けど」

「けど?」

「……付き合ってるって、言ってない」

 だんだんと俯いてついにはくたりと垂れてしまったレモン色の頭を、根負けしてくしゃくしゃと撫でた。手からそのまま、悔しいとか苛々するとか嬉しいとかの素直な感情が伝ってきてこそばゆくなる。

「遥さんのお母さん、本当、きみに甘いよね」

「子どもに興味ないだけ」

 僕の許しを得たことを知った相貌はさらっと涼やかになり、そのまま勝手知ったるみたいな歩調でエントランスホールまで先を行った。

「違うよ。信頼してるんだ。あんまり信頼してるから、きみが言うことぜんぶ本当の、しかも良いことだって解釈して、僕を親戚のおじさんか何かだと決め込んでる」

「それは、そう」

 遥さんがぶかぶかの袖に手を当ててふっと小さく笑う。見逃すまいと覗き込んだら自分が影になってしまって失敗だった。ポーチライトの神様は僕に味方してくれないらしい。

 オートロックの手前で足踏みを食らっている背に追いついた。カードキーを出すのが億劫でパネルにそのまま暗証番号を打ち込む。ピッピッと軽快な開錠音を立てて自動ドアが開いた。ポストに寄らずそのままエレベーターの呼び出しボタンを押す。

 5階へたどり着きゴロンと開いた鉄扉を出た遥さんは、風に煽られ頬を叩く髪を両手で乱雑に払い除けた。億劫そうにフードの内に頭を押し込んでから、暗闇の廊下を颯爽と走る。弦を弾いたみたいなアスファルトのびいんという音を響かせるスニーカーが止まったところは、教えたことも案内したことも一度もない、僕の部屋の前だった。

 こんな不可思議な意思疎通みたいな瞬間を、遥さんとはもう何度も体験している。今もしっかりと振り向いてから、鍵を寄越せと言わんばかりに広げた手を差し出した。

「あれ、左利き?」

「右利き。でも鍵は、左じゃないと開けられない」

「へえ、それ、たぶん左利きだよ」

 くしゃっと鼻に皺を寄せた顔を、引き寄せてスーツの胸元にぐりぐりと擦りつけた。初めて会った時より背が伸びたな、と思う。あと二年過ぎて成人を迎える頃には、僕と同じ目線になっているのかもしれない。ずっと変声が抜けないみたいな掠れた声も、細長くて端麗な首の流線も、もしかしたら本当にこの刹那にしか留まらなくて、遥さんは徐々に向き合わないといけない容貌へ少しずつ変遷する、その端境にいるのだと。

 これより先は今から引き算ばかりだ、なんて言うつもりはない。きっとずっと遥さんの芙蓉は艶やかに充ちていくはずだ。だから大事にしてあげたいし、そうなるとどうしても僕である必要というのもない。

 帰りまでにスペアキーをひとつ渡すね、と告げてから、財布に収まったままのカードキーを翳して開錠した。不自然な電子音は施錠の時の杭を繰り出す動作やそれを引っ込めるような音には到底聞こえなかった。ああ、こういうところがショウワのオジサンなの。大丈夫、自分でもよく分かってる。

「段差に気をつけて。部屋、あんまり綺麗じゃなくてごめん。暗いよね、電気点けるよ」

 扉が閉まった途端にべらべらと喋り始めた僕の袖を掴み、きゅっと口を引き結んだ遥さんは、消え入りそうな声でぽつりと漏らした。

「川上さん、ごめんね」

「……なにが、どうしたの」

「ごめんね、俺」

 ぽつぽつと、受け止められることなく落ちた涙は夜雨みたいだった。靴を履いたまま三和土に立っている遥さんの周りにぱっぱっと円い染みができて、その情景にまた溢れてきてしまうものを、ようやく差し出した手で受け皿のように貰う。

 もったいないなぁ、これ、乾いたら消えてしまうじゃないか。流れを止めて壊さずに全部、取っておければいいのに。

「遥さんが、いいんだよう」

 泪を拭った手が当たらないように手首で背中を引き寄せて、濡れた頬をスーツとワイシャツに押しつけた。綺麗に染まった柔らかい髪は、撫でた指を埋めると髪染めの薬剤の強い刺激に混じって、ほんのりといい匂いがする。

 

 駅前の居酒屋は、もともと小料理屋風の座敷が売りの店舗としてオープンした。僕がここのマンションを見つけて引っ越してから二年ほど経っていて、何度か通ったけれどあまり気に入らなかったのか、その後ほとんど顔を出さなかった。程なくして店は閉店した。まあそういうことだろう、と思っていた。

 半年後、居抜きで開店した焼鶏居酒屋が、今の遥さんたちが働くお店だ。社員の柴くんが熱心で良い男だったから、学生アルバイトの子やフリーターの子たちもみんないい子が集まった。料理は少しだけ高いけれど、値段以上に美味しいし飽きない。お酒の品揃えは文句なし。こだわりが見えて通いがいのあるお店だったから、まるでアイドルの応援でライブハウスに通うみたいにほぼ毎日顔を出すようになるまでに時間はかからなかった。

 今やみんなのお姉さんである葉月ちゃんが入りたての頃には失敗ばかりしてしょっちゅう落ち込んでいたのも知っているし、店員さん同士のお付き合いから結婚したカップルのこともよく憶えている。みんなそれぞれに個性があり、若さも相まってきらきらして魅力があった。親心みたいに見守っていたというのが正解かもしれない。

 去年の夏の始まりだった。新しいバイトの子が現れて、僕はまた仲良くなれるひとが増えて嬉しいな、くらいにしか思っていなかったと思う。ネームプレートにマーカーで書かれたあだ名は「ハル」と読み取れた。線は細いが長身で、丁寧だし真剣だけど極端に無口。普通は無愛想な子だなと目くじら立てるところだけど、〝店推し〟歴がすっかり長くなった僕は、なんて可愛らしい子だろうとひどく楽観的にその新入りさんを迎えた。

 何度か通って、そのうち深い時間になると、先に遥さんがシフトを終えて制服姿に着替え、カウンターでまかないを食べて帰ることを知った。一度冗談で手招きをすると、顔を顰めながら隣に座ってくれることがあった。

 腰掛けた丸椅子から短くしたプリーツスカートの丈がこぼれる。仕事を終えてひっつめを解くと髪は肩骨を覆うくらい長かった。目元は綺麗に化粧がされていて、形の良い爪も貝みたいにつやつやしている。

 それでも、掠れたファルセットみたいな中間的な声の調子のすっきりとした横顔の輪郭、カウンターについた腕の感じで、そちらの方もすぐに気づけたと思う。

 それからは、僕の中で彼でも彼女でもなく、そのひとは遥さんになった。突然そう呼ばれた高校生は、それにもさほど驚くことなく、僕を変わった常連として憶えてくれるようになった。

 豪雨の夜や、店を出るのが未明になった日、あるいは食べ足りなくてコンビニでおやつを買いたい時、僕たちはなんとなく一緒に遥さんの家の近くまで歩いた。バイト先に通うおじさんの客につきまとわれたりお菓子を買い与えられたりして怖くないのかと心配したけれど、幸運にもそれを責められるようなことはなかった。

 胸が熱くなる、という実感はきっと人生でこれが最後だと思う。ただ、少しでも相手から不和の気配を感じれば、潔く手を引こうとも決めていた。

 夏が終わる頃、遥さんはバイトのシフトがない夜に、今日みたく駅の改札前で帰りを待っていてくれていたことがある。僕はその姿にはしゃいで喜び、せっかく会えたのだからどこかで食事をしようと手を引くと、それをぱしりと振り払われた。

「やめろよ。俺、男だよ」

 再び手を取ろうとして、今度は胸を押し返され、その時は周りの目なんか気にする余裕なんて全くなく、成り行きのまま揉み合いになった。

「遥さんは遥さんでしょ。きみが一番そうやって過ごしている、僕もそれを」

「待ち伏せされて気持ち悪いだろ、気持ち悪いって言えよ、ホモにストーカーされてるって」

 静かな慟哭に一瞬怯むと、遥さんがすぐに踵を返して走り去ろうとする。その時はTシャツにジョガーパンツという身軽な出立ちで、何だか慌てて出てきてくれたみたいな感じが漂っていた。

 服を引っ張ってしまわないように腰を抱える恰好で静止しながら、「あれ」と思わず声を上げる。

「今の、僕からの連絡見て来てくれたわけじゃなくて……?」

 そう、その日は僕の方から遥さんに、教えてもらった連絡先へメッセージを送っていた。今日はお店のシフト入ってる? って。あと二十分くらいで駅に着くから、遥さんがいたら顔を出そうかな、なんて。

 実際、接客中だったらそう簡単に自分の端末は見られないだろうし、気づいてもらえないのを前提にして向かっていた。例えそのまま返事をもらえず、お店を外から覗いて焼き場に遥さんがいなくても、誰かと目が合えば一杯は飲んでいくかな、くらいの気楽さで。

 だから改札を出て思いがけず姿を見とめた時、本当に嬉しかったのだ。歳も外見も考えず感情を表に出してしまったことは後から思えばちょっと反省するところだけど、遥さんも照れてるだけなのかな、くらいの何とも能天気なものだった。

 だからその後に振り向いた相貌が、絡まり合った感情の狭間に置かれていることにこちらも驚いた。遥さんは大きく目を見開いて、まるで初めてそれを知ったように、ただこう言った。

「さっきの連絡、川上さんなの」

 

 *

(後略)





「それが、不通なら」


 いつもはスリップする自転車のブレーキが、今日は縁石の手前できゅっと硬くロックされた。ぴったり寄せて駐輪できたので、今日は何かいいことがあるかもしれない。

 とはいえ、この狭い世界の中で起こる〝イイコト〟なんてたかが知れているのだった。郊外の駅前にある焼鶏居酒屋で、店員はいつもの顔ぶれ、週頭の今夜は常連が軽く腰掛けてさらりと一杯引っかけて帰って行く、客足も静かなものだろう。

 そんな訳なのでシフトの二分前だけれども急いて支度をするなんていう焦燥は湧かない。適当に折り畳んでリュックに放り込んだ店のロゴ入りTシャツを引っ張り出した。脇腹にできた皺も気にせず、そのまま旋毛に襟ぐりを乗せるように頭を突っ込む。

 額まで突き出してから、化粧をして出勤していたことを思い出した。頬の前に両手を差し込み、手遊びで花を作るみたいに十指を朝顔型に開きながらするすると顔を出す。ミドリガメの求愛みたいだ。小学生の時に散歩道にしていた、近所の神社の境内にある池に、大量の甲羅干しを見た記憶がふと蘇る。目の後ろに朱色の太い筋が引かれているその外来種のカメは、水中で盛んに両手を頬に擦り付けるような習性があった。

 誰に教わるでもなく、あれが交尾の誘いだということにどうやって気づいたのだろうか。週末の団欒で自然界の動物を追うドキュメンタリー番組が流れていたことに起因している? あるいは、今の自分が分からなくなっているだけで、小学生の理解は大人のそれとはあまり差異がないということなのか。

 大人、と自分を呼んでみてからばからしくなってハッと鼻で嗤った。スウェットのボトムを脱いで勤務用に買った安物のデニムに履き替える。狭いバックヤードには誰もいないから後ろも振り返らない。例えば今、極端に生地が僅少のエロいアンダーを身につけていようが、誰かにそれを知られることはないのだ。

 腰巻きのエプロンに粗品のボールペンを挿し、打刻カードを箱形の端末に通す。刻印されたカードをウォールポケットに戻した時、端末のデジタル時計がピッと五時に切り替わった。開店まであと三十分、カウンターの内側にある焼き場には社員の柴さんしかいない。

 仕込みのタッパーをホシザキの保冷庫から引き出していた彼は、こちらに短く視線を送ると、おはようと言う代わりにぼそっと呟いた。

「地震、だいぶ揺れたね。ハルちゃん平気だった?」

 彼が言う通り、今日も軽い横揺れの地震があった。照明の傘が揺れ、食器棚のガラスがかたかたと鳴ったのを確認したあたりには、震動は概ね収まっている。

 体になんとなく揺れが起こる現象も、地面を奥底から揺さぶられる感覚にいつも特段の感情を持たないことも、あまりに生活の中へ自然に入り込み過ぎていた。

 そういえば、その昔に境内で一度だけ、大きな地震に遭ったことがある。

 金曜の午後、短縮授業が終わってそのままひとり寄り道をして遊んでいた時だった。学校から持ち帰った縄跳びの練習をしていたが、池の水が俄かに湧き立ったので何気なく手を止めた。

 池はカメの群生で煮え立つようだった。四足でむちゃくちゃに水を掻き、白い飛沫がそこここで上がっている。

 一体どうしたのだろう、とそちらへ近寄ろうとした。その時、足下がぐらっと崩れるような歪みに襲われた。外にいても分かるような大きな揺動だった。

 予知だ。

 分かった時に、恐怖や狼狽ではなく、小さな感動でただ目を見開いていた。少しして神社の人に保護され、何事もなく自宅へ帰されるまでの間、感じた昂揚を吐露して大人たちに叱られないようにとそればかり考えていた記憶がある。

「揺れてないです、うち」

 カメがいないので。そんな言い方をしそうになるのを飲み込んだ。柴さんは微かに苦笑して、何事もなくて良かった、とだけ言った。

 柴さんは地方出身者だ。大学で上京し、学生寮の近くにあった居酒屋のチェーン店でアルバイトをしていて、そこから独立開業した福泉さんについて来た。社員になってから間もなく三年になる。

「今日、カシラとフリソデあるよ。ボードに書いてくれる」

「はい。カシラ……と、なんだっけ」

「フリソデ」

「フリ……いいや。葉月さん来たら書いてもらいます。先にレモン切っとくんで」

「さすがハルちゃん」

 あははっと笑う柴さんを尻目にレモン用に使う小ぶりの包丁を取り出した。スライスのレモンはサワーとハイボールに使う用、切ったらそれぞれまとめてタッパーに。揚げ物に添える為にくし切りをしたのはボウルに詰めてラップで蓋をする。当店自慢の〈無敵サワー〉に使う、氷代わりの冷凍レモンは胴を半分に割ってから十字切りに仕込む。

「あ」

「なに」

「昨日凍らせたやつ、ヘタ取り忘れてる。すみません」

 保冷庫から取り出した容器の開けた蓋をそっと戻した。そうやってもなかったことにはならないのに、串打ちをする柴さんの手の動きをぼんやり眺めてみる。もう、すみませんって謝ったのだから取り繕う必要はないのだ。腰に手を当て居直った声で「まあいいか、もう凍ってるし」と言い放った。

「あはは、そうそう、凍ってるし、今切ったら危ないよ。今日はそういう仕様」

「昨日だけど」

「ほんとだ。はは、はーあ……」

 変な笑い方だな、と思う頃には柴さんの声は止んでいる。それまで淡々と同じリズムで綺麗にもも肉を竹串に刺していた手がだらりと落ちた。彼が腕を折ってまな板に屈んでいたところから背筋を伸ばす。マッシュ頭に耳はピアスの穴だらけの柴さんは派手だったけれど、学生時代は陸上の有名選手だったらしい。前に偶然立ち寄った客が、全国大会で入賞した当時のことを憶えていて、こっそり耳打ちするようにその話を教えてくれた。

 柴さんは今の職場を愛している人だ。きっともう、二度と競技者としてトラックを走らないだろう。けれどこうして背筋を正して佇んでいると、小さな呑み屋の社員という手狭の枠に嵌め込むのはあまり似合わない気もする。

 乾いた笑いが失せて重い静寂がやってきた。俺の手には切るのに失敗して果肉がぐずぐずのレモンが残っている。容器に押し込み、蓋をして掴んでいた手の指を舐めた。柴さんが上の戸棚を開ける。私物の長財布を脇に避けて、重ねて置かれた煙草とライターを抜き出した。親子ガメだな、と胸中でぽつりと言ってみる。

「ハルちゃん、付き合う?」

 既に数本吸った後なのか、箱を振るとかさかさと音がした。パッケージにくっきりとした濃緑色がプリントされている、男性が好んで手に取る印象の銘柄。勧められれば喫むが、熱心な方ではないし習慣もない。同世代の連中でいそいそと嗜みを覚える者も少なくなかったが、俺にとってみれば口寂しいという点では殆どチョコレートと相違ない。

「なんで吸うと思ってるんですか」

「え、違った? 根拠はない。ハルちゃんって、こう、ちょっとやんちゃそうな雰囲気あるよね」

「雰囲気どうも。一本貰います」

「はは、すっきりしてる。葉月ちゃんも言ってたよ。ハルちゃん、格好良いから女の子たちにもモテちゃうよねって」

 打った串とぶつ切りのもも肉にざっとラップを被せて、柴さんが先にバックヤードに引っ込んだ。二畳もない空間に備品だらけの雑然としたところに、場違いなほど大きな換気扇がついている。きっとオーナーの福泉さんが自分の一服用でつけたやつ。おかげでこんな場所でもロッカーはかび臭く感じることはなかった。

 畳んであったパイプ椅子をひとつ出してこちらへあてがってくる。柴さんは片脚を上げて膝に乗せた姿勢で事務用のテーブルに腰を置いた。ライターは石が摩れているのか何度ダイヤルを回しても火は点かない。仕方がないから、テーブルに転がっていたチャッカマンの火で二本いっぺんに先端を炙った。紫煙と呼ぶような優美さはない、ぷっと濁った呼気が目の上に浮かぶ。

「も、って何」

 吐息の靄越しに睨むと、柴さんは眉尻を下げて「珍しく怒るじゃん」と嘆息した。

「別に、柴さんに反対されてるのはもういいです」

「だって相手、陽ちゃんでしょ? ハルちゃんが年上好きとかならいいけど、遊ばれるよ、お金で解決される、セックスだってなんか……ねっちょりしてそう」

 パイプ椅子の背もたれに肘を置きながら、柴さんの何ひとつ本気ではなさそうな文句にいちいち頷く。どれもあながち間違ってはいないのだった。金ではなく時間で解決されることの方が多いが、どちらだって与えられたらきちんと貰っておくと決めている。遊ばれているのだってはじめから承知していたし、俺には見えない別の川上さんがどこで誰と何をしていようと、それを妨げる理由がそもそも無かった。セックスがしつこいのは大歓迎、逆に淡泊だと、妙に縋ってみたくなったりしてこちらが惨めになるばかりだから。

「っていうか、妬ける。若くて可愛い子連れ歩いてさ、そのうち陽ちゃんの髪までサラサラになっちゃいそうじゃん」

「そりゃ、同じトリートメント使ったらなります」

「ああ、失敗した。ハルちゃんの惚気は深手になる」

 いい加減に焦れてきたので吸い込んだ三口目を柴さんの顔に真面に吹きかけた。わっと後ろへ反ってからばたばたと腕で仰ぎ、マッシュ頭の社員が涙目で咽せる。

 客が少ない日なら開店後もだらだら仕込みを続けながらオーダーを回していられるが、このままでは暖簾を出す時間さえ押してしまいそうな気配だ。紙煙草を折らないように灰皿に捻りながらそっと押し付けて火種を取り払う。ちりっと赤く光った大鋸屑はすぐに黒く小さくなった。先に立ち上がると、柴さんは観念して、分厚い前髪に指を差し込んでぐしゃぐしゃと適当に掻く。

「どうしよう、おれ、奥さんの機嫌の取り方、忘れちゃった」

 何だそんなこと、と滑らせてしまいそうな口を慌てて結んだ。指の隙間からぬるぬると上がっていく煙へ潜るように背を屈めている柴さんは、まだ潤んだ目を瞬きさせている。

 柴さんは初夏に結婚式を挙げていた。授かり婚だったらしく、今は相手の実家近くに住んでいる。家を買ったのか、まだ賃貸なのかまでは知らない。バイトの中で話題を共有できる者がいないので、年末に生まれた赤ちゃんの事を含め、細かいことはほとんど耳にしたことがなかった。

 今は生後四か月になると聞き、ちゃんと生きていたんですねとひどく不躾な応答をしてしまった。当然に、四か月の乳児がどんな大きさでどれくらいの重さがあるのか、何ができてどれほど世話が必要なのか、まるで分からない。

 柴さんは手先が器用だし、接客以外でも常に明るい人柄だ。子育てに向いてそうだと勝手に思う。夫も父親も適役といった風の彼が、パートナーの機嫌が取れないという複雑な愚痴の相手を、フリソデも書くのにも詰まるような俺に務まるわけがない。

 腰エプロンに差したボールペンを抜き出すと、ノックを突いて戻してカチカチと弄り、手の中でくるくると軽く回した。軽い粗品のボールペンは、グリップの重さもなくポリプロピレンだけでできているので、遠心力が利用できずに時折指の支点から零れる。落ちる前に掴み、またプロペラのようにするすると回転させ、何周もできないうちにまた指に挟んで落下を止めた。

「ハルちゃんはさ、彼氏に何してもらったら嬉しい? どんな男だったら頼もしいって思うのかな。私、愛されてるな、とか。いちばん大切だって伝わる方法。でも、子どもも大事」

「拗らせてる」

「ごもっともです」

 柴さんは諦めてテーブルから腰を上げる。

「でも、ハルちゃんのは純粋に聞いてみたかったな。葉月ちゃんも経験ありそうだし、いつも人気だけど、なんていうか、愛され慣れてるみたいな立ち位置じゃん。ハルちゃんは、供給選択してるよね。欲しいもの分かってて、要らないものは無視するしさ」

「僻まないでください。無視されてるからって」

「本当、容赦ないね」

 何も解決してないけどまあいいか、とため息をつきながら、彼が先にバックヤードを出た。伸びをしながら目尻に涙を滲ませる姿は、バイト店員にとってはやっぱり良い上司だし、きっと家でも良い旦那なのだろう。

 僅かな休憩の気怠い空気が肌に合いすぎて、その後の仕込みは全く身が入らなかった。葉月さんのシフトの時間になって表に暖簾が出てからも、馴染みの顔がぽつぽつと現れて、灼のついでに暇そうなフロアのバイトへ話しかけてくる時も、バックヤードで漏らされた柴さんの弱音を思い起こしている。

 葉月ちゃんは、愛され慣れてるみたいな立ち位置じゃん。

 柴さんの声になぞられたその言葉に憑かれると、食器が手から抜けてシンクにぶつかった。ジョッキだから亀裂も入らなかった。失礼しました、と周囲に軽く頭を下げて、柔らかい面に洗剤を垂らしたスポンジを取り緩く揉む。

 座敷で注文を受けた葉月さんがサンダルを引っ掛けてカウンターへ戻ってきた。洗い物を中断してドリンクに入ろうとする俺と目が合うと、ふんわりした笑顔を向けられる。

「私、このままドリンク入るよ。ハルちゃん、洗い物ごめんね。ゆっくりやってね」

 今日も葉月さんはほっとするような柔らかい、それが少しだけ心もとなくさせる声だった。

 ふと、さっきの柴さんのことが葉月さんの耳に入らずに済んで良かったと思う。

 久々に貰い煙草も喫めたことだし。これくらいがイイコトなのであれば身丈に合った丁度良さだ、と自嘲気味に息を吐いた。

 葉月さんは愛され慣れてなんかいない。俺の知る彼女は今でもひとりで生きるのを苦しいと思っている人だった。

 

 俺が福泉さんの面接を受けてバイトを始めたばかりの頃、葉月さんも少し前に復帰したばかりと聞いていた。社員の柴さんもその数か月間は三つ隣の駅の分店へ手伝いに出ていたので、当時の彼女についての詳しい事情を知らない。

 偶然それを見てしまったのは、夏の終わり、深夜のコンビニ前の駐車場で縁石の上に座り込んでいた時のこと。家のエアコンの調子が悪くて、寝苦しさに堪らずアイスを買いに出ていた。同じ部屋の母は仕事で疲れているのか、すうすうと気持ち良さそうに寝ている。灯りを消したまま古いアパートのところどころ爪で剥がれた壁を伝い歩き、鍵が開いたままのドアをゆっくり押して外へ飛び出した。

 目当てのチョコバーは売り切れていて、赤城しぐれを木べらで削って食べた。縁の向こうにピンクの細かい塊がいくつかこぼれる。舌の上に乗せてアイスを上顎の内側へ押しつけると、じいんと痺れてふるふると小さく震え、もう体中が冷えきって一口も食べられないという心地にさせられた。けれど食べ終わった途端に猛烈な熱さに絡め取られ、サウナになったアパートの寝室へ戻れなくなることを知っている。カップを掴む親指の近くを掘って食べると、体温で溶けたのか、アイスは崩れて柔らかくなっていた。掻き込むように口元へ寄せようと肩をいからせていた時、駐車場の隅の暗闇から、ネヘッネヘッと高くて奇妙な音がする。

 妖怪かと思ったら、それは乳児の泣き声だった。こんな時間にと訝しんで視線を送ると、抱いてあやしていた人に目が留まる。

 向こうもすぐに気が付いて、「ハルちゃん」と手を振られた。縁石で便器に跨っているみたいな恰好の俺を目指してゆっくり歩いてくる。

「遅いね、女の子ひとりで、危ないよ」

 優しく微笑む葉月さんに、ただ首を横に振って答えた。ここにオンナノコはひとりしかいない。乳児はなんとなくの直感で男子だと思った。母親のつり上がった目と鼻筋のところが自分の顔とうんざりするほど酷似するのと同じで、腕の中の小さな顔も葉月さんにそっくりだ。頭髪が綿毛みたいにふわふわ、肌は泣いて真っ赤で血管が透過したように見える。

「買い物ですか」

「ううん、この子、寝るのがあまり上手じゃなくて、気晴らしのお散歩。このまま眠る時もあるし、だめだったら諦めて、家で第二ラウンド」

 その時、何でもないことのようにそう言って、ずっと縦にゆらゆらと揺れている葉月さんの姿は、少し異様だった。店にいる彼女はいつもにこやかであたたかくてゆったりしていたが、街灯に照らされ、首筋に汗をかきながら乳児を抱える葉月さんは焦燥でいっぱいだ。

「食べますか、アイス」

「ごめんね、赤ちゃんだから、まだお菓子だめなの」

 その小さな生き物の母親はやっぱり葉月さんなのだろうが、子どもがいることも、その父親にあたる男がいたことも、焼鶏屋ではひた隠しにされていた。端末のロック画面は家族写真ではなくクレイアニメのピングーの壁紙だ。葉月さんは本当に楽しそうに笑う時、ちょっと豪快に、ピングーみたいにぱしぱしと自分の体を叩く。

「じゃなくて、葉月さんが。ずっとそうしてると、へばっちゃいそうで。好きな味買ってきます」

「じゃあ、一口分けてくれる? 久々に見ると欲しくなるよね」

 畳んだ腕にぐずる乳児の頭を置きながら、彼女はこちらへ傾いて、あ、と木べらの前で口を開けた。ほぼ反射で、すくった一口を舌の上に差し出す。きっと今は化粧を落として素肌でいる葉月さんが、店の中と同じくらい綺麗な顔で「はあ、美味しい」とため息をついた。

「ありがとう、元気出た。もうひと歩き、散歩して帰るね」

 こちらが声をかける前に、彼女はもう踵を返して駐車場を出て行こうとしている。背中ごしに残る訴えは、ネヘッネヘッと夜半の闇に奇妙に響いていた。

 

 バイブレーションの唸り声で目を覚ます。振動で移動しながらベッドボードを掘削するようにガタガタと震え続ける端末をぞんざいに掴んだ。サイドボタンを親指で押し込んでも鳴動は止まらない。断続した長音が威嚇で喉を震わせているように聞こえる。

 変な電話だ、と思った。俄かに泡立つ境内の池にびしゃびしゃと散った飛沫が無意識に脳裏で投影された。行くあてもなく藻掻くミドリガメの群生。甲羅をひっくり返されて、パニックでなおも暴れ、短い四肢を突っ張ったり引っ込めたりしてガタガタと背をぶつけ合っている。

 液晶画面の下に表示された太いスライドバーを親指で撫でた。左から右へ滑り終わると、ぱっと画面が切り替わる。

 丸くくり抜かれたアイキャッチは、頭に手を乗せたピングーの顔だった。丸い嘴にちゃっかりした目、腕はもっと薄く長く伸びそうな自由な輪郭をしている。

 その下に出ているスピーカーボタンを軽くタップしてから、はい、と短く応答した。

 電話の向こうからは物音がしなかった。人の気配や足音、あの奇妙な乳児のねむぐずりする泣き声も。マイクの性能が良いからノイズも耳に届かない。

「葉月さん」

 級友との深夜の電話は寝ぼけて誤発信したり、長電話の果てに気づけば意識が眠りに沈んでいたりなんてことはままあった。でも、今こちらへ電話をくれているひとは、そんなことは決してしない。

「そっち、行きましょうか」

 端末を枕の上に置いて布団から抜け出した。椅子にかけたままのジャージに袖を通し、財布と鍵をポケットへ突っ込み、靴下を探すのが億劫で裸足のままスニーカーを履く。爪先をとんとんと叩きながら通話中の画面に向かって呼びかけた。

「あの時、アイス食ったコンビニ、そこから家までの道教えてください。すぐ着くから」

 言い終える前に、鉄の扉を押し開けて外へ飛び出している。足音が自分より遥かに遠くへ消えていく。死んだ人は影も歩く音もしなくなるという子どもだましの話が本当にあるのなら、ちょうどこんな感覚だろうか。

 風が耳元にひゅうひゅうと擦れていく。スピーカーボタンを解除して、端末を耳元へ押し当てる。サイドバーをかちかちと指で打ってボリュームを最大にした。つんざくような葉月さんの悲鳴が聞こえる。

「しぬ、この子、しんじゃう、私が、ころし、ああ、いや、またひとりになっちゃう……!」

 それで、いつもぴったりと抱えているはずの乳児が声を上げない理由は概ね想像できた。救急車を呼ばないと間に合わないかもしれない。だが、電話を切ったら俺が葉月さんの家に辿り着けなくなる。そのどちらを選択すべきなのか、考えれば即座に答えは出る筈だが、こちらもがむしゃらに駆けて頭に血が上り、数秒の逡巡をしてしまった。

 コンビニの看板の真下で足を止める。途切れる息の合間に、葉月さん、ともう一度呼んだ。

「電話切って、すぐに一一九してください。救急車の方が早く病院に着けます。それが終わったら、もう一回こっちに連絡して」

 電話の向こうでくぐもった呻き声がした。俺ではない、きっと稚児のことなのだろう、妖怪ネヘよりもよほど聡明そうな名前が繰り返し呼ばれる。洟を啜ってから、葉月さんははあはあと息を吐き、涙声で訴えた。

「ハルちゃん、待っててほしい」

「待ってます。コンビニであんまん食ってますから」

 こんな時に場違いなことを言ったかと思ったが、葉月さんは柔和な笑いを短く漏らしただけだった。

 小児科がある市中の救急病院へ搬送された葉月さんの子は、血中の酸素欠乏によるチアノーゼが出ていた。あまりに激しい泣き方をすると出るもののようで、ひきつけを起こしたり、血の気が引いて顔面蒼白になる場合もある。そのまま酸素濃度が回復しないと容態が悪化するため、救急車の要請と緊急入院は賢明だった。

 乳児の父親は来ていない。正確に言えばどこかで生存しているのかもしれないが、葉月さんの住む世界の中では死んでいた。同居しているのは彼女と年の近い叔母家族で、幼稚園に通う娘がいる。夫婦の仕事の時間に幼稚園への送迎、食事や風呂の世話をして、夕方に我が子を預けてバイトへ向かう日々だ。時間制で育児を分担して食費を幾らか入れれば好きなだけ家に居ていいと彼女の叔母に言われていた。話を聞く限り良い人のようだ。だが彼女はそれを常にずっと後ろめたく感じでいる。

 母親の心緒が子に顕れたのか、成長に伴って乳児の夜泣きは酷くなる一方だ。日々の育児に疲弊していたのか、その晩は泣いてもあやさずしばらく放置してしまっていたらしい。

 葉月さん母子が病院に運ばれてから一時間後、自転車で追いかけた俺も小児病棟の長い廊下を歩いていた。既に処置は終わっており、乳児はおむつしか纏わない恰好で保育器の中で寝ている。

「大変でしたね」


(後略)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

サンプル『呼ぶのは、遥か』2/25:COMITIA147 丹路槇 @niro_maki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ