神様のコーヒー

ラピ丸

神様のコーヒー

 ある街にサラリーマンの男がいた。彼は毎日のように働いておりロクに休みもとれておらず心身共に疲れ切っていた。

 そんな彼にもささやかな趣味があった。それはコーヒーを飲むことだった。中学生の頃からバリスタだった叔父の影響でコーヒーの世界に嵌まり、大人になった今では、休みの度にフラリと街へ出て気の赴くままにコーヒーを飲み歩く。ささやかだが、かけがえのない幸せな時間だった。

 そんなある休日のこと。彼は何気なく立ち寄った喫茶店で不思議な豆を見つけた。それはカウンター席の向こう、ショーケースに展示されていた豆で、下にぶら下がった名札には流麗な文字で「神様のコーヒー」と書かれていた。

 男は長年コーヒーを飲み歩いており豆には詳しい自信があった。神様の名前が付いた豆も、コーヒーの神様が愛したと呼称されるコーヒーも飲んだことがあった。だが、「神様のコーヒー」という名前の豆は見たことも聞いたこともなかった。

 男はぼんやり店内を眺めてた店長を捕まえると豆を指さして訊ねた。


「あの豆は、いったいどんな銘柄の豆なんだ?」


 店長は始め驚いた様子だったが、男の指した豆を一瞥すると穏やかに笑って答える。


「書いてあるとおりですよ。アレは、神様のコーヒーです」

「だがしかし、オレはあんな豆見たことも聞いたこともないぞ。相当珍しい豆なのか?」

「ええ、もちろん。なんせ神様のコーヒーですから」


 店長の穏やかな説明が、男の興味をさらにかき立てた。


「ではマスター、神様のコーヒーというのは何処の国の銘柄なんだ? どんな味で、どこから取り寄せた品なんだ?」


 矢継ぎ早に質問を投げかける男に、店長は眉をひそめて視線を逸らす。


「申し訳ありません。この豆に関しては、生産者の方からあまり言いふらさないで欲しいと言われておりまして、詳しいことをお伝えできないのです」


 店長の返答に男はついつい肩を落とす。コーヒーフリークとしては知らない豆を知らないままにしておくことは実に残念なことだからだ。

 だが謎に包まれた「神様のコーヒー」をどうしても諦めきれなかった男はさらに店長に食い下がることにした。


「では、あの豆で淹れたコーヒーは、いったいどんな味がするんだ? 神様のような味なのか?」


 男は鼻息を荒くして、カウンターから身を乗り出すと店長目がけて食い気味に顔を寄せる。

 店長はそんな男から若干距離をおきつつ言った。


「もしよろしければ、試飲してみますか?」

「本当か!」


 店長の申し出は男にとってこれ以上ない素敵なものだった。

 男が喜んで申し入れると、店長はすぐにケースから豆を取り出し、男の目の前でコーヒーを淹れてくれた。


「この豆には不思議な噂がありまして。一口飲めば、神様の力が宿ると言われているんですよ」


 カウンター越しに漂ってきた湯気は挽き立ての豆の渋く優しい香りがする。店長の面白い噂話も、嘘ではないのだろうと男は感じていた。コーヒーには常に不思議な力だ宿るのだ。

 間もなく男の目の前に出されたカップには、深い茶色のコーヒーがほどよく淹れられていて、男の喉をゴクリと鳴らした。

 ゆっくりとカップを持ち上げ、縁に口をつけるとクィと呷る。温かなコーヒーと共に口の中に新鮮なキレが広がって、喉の奥に深いコクが染みこんでいった。

 ほぅ、とカップを置いたとき、コーヒーが五臓六腑に染み渡り、男は何故だか身体が軽くなったような気がした。


「どうでしょうか。今ならコチラの豆が、100グラム200円で購入できますよ」


 まったく、商売上手な店長だ。男は笑って、100グラムを購入した。


「そうそう、お客様のような方なら心配ないかもしれませんが、くれぐれも飲み過ぎにはご注意くださいね」


 豆を渡される際、店長が神妙な顔で男に告げた。


「言われなくとも、こんな貴重な豆はゆっくり大切に飲ませて貰うよ」


 男はそう言って豆を受け取ると、すぐに店を後にした。




 明くる朝、男は早速「神様のコーヒー」を飲んで出社した。一日の始まりは良いコーヒーから、というのが男の持論だった。

 電車に揺られ、バスに揺られ、間もなく会社に着くという時に、男はふと、自分の右腕に違和感を覚えた。痺れているわけではない。痛いわけでもない。どちらかと言えば調気がするのだ。

 だが動きに違和感はなかったし、身体に不調があるのはいつものことだったので、不思議には思いながらもそのまま仕事を始めた。

 そして間もなく異変が起こった。

 それは男が自分のデスクに山のように積み上がった書類を片付けようとペンを手にした時に起こった。

 なんとペンを手にした途端、男の右手が勝手に動き出したのだ。男は大層慌てたが、次の瞬間、別の驚きに襲われた。

 勝手に動き出した右手は、そのままとんでもないスピードで目の前の仕事を片付け始めたのだ。次々と出来上がる書類に男は呆気にとられてしまう。書類を確認すると、内容の正確さはもちろんのこと誤字脱字さえ一文字も見当たらず、字そのものも非常に美しく読みやすかった。

 あっという間に案件は全て完了してしまい、たまりに溜まっていた男の仕事は一瞬にしてなくなってしまったのだった。

 男が唖然としていると、その様子を見てサボっていると考えた上司が肩で風を切って声を荒げる。


「おいおい、あんまり手を抜くんじゃねぇよ。そんな時間があれば一文字でも書けよバカ!」


 そして男の隣まで来て、全ての書類が終わっている状況を見て、目を点にした。上司もまさか、全ての書類を終わらせているとは考えていなかったからである。


「オマエ……、これ、オマエがやったのか?」


 恐る恐る訊ねる上司に、


「えぇ……、ボクです」


 恐る恐る応える。

 次の瞬間、先ほどまで男を詰めようとしていた上司は、手のひらを返して男を褒め称え始めた。


「凄いじゃないか! オマエ、やればできるんだな!! おい、皆も見ろ! 彼のような男が、将来会社を引っ張っていくんだぞ! わかったらお前らも、彼のように立派な社員を目指すように!」


 上司の大げさな物言いでフロアにいた全員が男の方に視線をやった。初めは「嘘……」「大げさな……」といった視線が向けられていたが、上司の異常な喜びようにだんだんとフロア全体で男をたたえる雰囲気が出来上がっていき、最後には社内で一躍ヒーローのように扱われるようになった。


「彼のような偉大な社員に、ばんざーーい!」


 盛り上がる社内を他所に、男が考えていたのは「神様のコーヒー」のことだった。

 今朝あのコーヒーを飲んで身体の調子が良くなった結果、仕事が捗りここまでの成果を得られた。

 店長は神様の力を得ると言っていたが、それは正しい事実だった。あのコーヒーを飲んだものは本当に神様の力を得ることが出来るのだと、男は確信していた。

 調子に乗った男は次の日も、その次の日も男は出社前にコーヒーを飲んだ。すると身体に不思議な力が宿って、スーパーマンのように働くことができたのだ。

 コーヒーを飲めば飲むほどどこからか力が漲ってくるのがわかった。

 男の一度に飲むコーヒーの量がだんだんと増えていった。


 ある朝、男がいつもどおり「神様のコーヒー」を準備していた。

 この頃になると、もう初めに淹れていた倍の量を一度に飲むようになっていて、コーヒー無しで出社するなど考えられなかった。

 特注したドリップマシーンでコーヒーを淹れる。香ばしいコーヒーにうっとりとしながら、男は一気にコーヒーを飲み込んだ。

 すると突然、男の頭を激しい痛みが襲った。うなじのところから頭頂部にかけてガンガンと激しい痛みを繰り返した。

 男はしばらくの間床を転がり激しい嗚咽をあげながら悶えていたが、数分後、身体がビクンと大きく痙攣したかと思うと、唐突に落ち着きを取り戻した。いつも通り着替え、いつも通り会社に向かった。

 電車に揺られバスに揺られ、会社につく頃には、男の表情は菩薩のように穏やかなものになっていた。


 その日を堺に、男は大きく変わった。誰よりも早く職場に来て、誰よりも多くの仕事をこなし、誰よりも遅い時間に帰る。人の嫌がることを率先して行い、争いを憎み、全ての人を愛した。休みの日はボランティアに参加し、食事もろくにとらず稼いだ金はすべて貧しい人や弱い人への募金に使った。貧しい生活を愛し、色恋を拒み、誰の言うことも素直に従う真面目な男になっていた。

 誰よりも仕事が出来るようになった男を周囲の人はやがて奇異の目で見るようになっていた。「人が変わったようだ」と誰もが口にしていたが、それよりも的を得ていたのは男の両親の言葉だった。

 男ははじめ足繁く両親の元へ帰り、彼らに尽くそうとしていた。だが帰省する度に、自分達の息子が幸せであって欲しいと願い、良い生活を送れているのか、良い人はいるのか、楽しく生きているかと問いかける両親を疎ましく思い、次第に男は実家に顔を出さなくなってしまった。

 そんな男を両親はこう評したそうだ。

「まるで神様になったみたいだった」と。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

神様のコーヒー ラピ丸 @taitoruhoruda-

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ