19話 山の主

里奈がそれを見たのは去年、小学5年生の頃。

場所は学校の隣にある塗装屋の工場。

防犯対策なのか、それとも他に理由があるのか。

いつも工場のシャッターは半分閉まっていて、中の様子を見た事があまりなかった。

たまたまその日、放課後に1人で工場の前を通りかかった里奈はふと工場の入口に目を向けて足を止めた。

どう言う訳か、その日は工場のシャッターが全開だったのである。

だから中の様子がよく見えたのだ。


塗装屋に全くもって似つかない、天井から吊るされた巨大な猪の姿が。




「今考えるとあれは絶対に山の主よ!」


昼休み、6年3組の教室にて。

里奈がふんす、と鼻息を荒くしながら叫んだ。


「主ってなんだぁ?」


圭介がふわあ、とあくびをしながら千春に聞く。


「猪か何かだろ」


頬杖をついた千春の答えを聞いた里奈は机をバンバンと叩いた。


「そうよ千春!!おっきい猪!!」


里奈たちの住む村は近くに山がたくさんある。なのでよく山からさまざまな獣が降りて来るのだ。

そのためこの地域には猟友会があり、大人たちの半分以上が会に名を連ねている。


「て言うか天井から猪とか何だよ」


いくら田舎だからってなあ、と言いながら圭介が頭の後ろで手を組んだ。


めたんじゃねえの?塗装屋のおじいさんも確か猟友会に入ってるってうちのお父さんが前に言ってたな…」


千春がぽそりと呟く。

今は亡き千春の祖父がまだ若い頃、村の猟友会に入っていたと聞いた事がある。その時に一緒だったのが塗装屋の先代・すなわち塗装屋のおじいさんらしい。

千春の祖父は数年前に亡くなったが、塗装屋のおじいさんは今も健在であり、元気に獣を追いかけ回していると聞いている。

去年里奈が工場で見たと言う山の主(仮)も、もしかしたらおじいさんが仕留めた獲物なのかも知れない。


「知ってるか里奈。猪の肉ってすげえ美味いんだぜ」


千春は小さい頃に祖父が持ち帰って来た猪の肉を食べた事があった。しっかり下処理がされていたのか全く臭くなく、豚肉に近い味だったが非常に美味しかったのを今でも覚えている。


「ちょっと千春、あんたまさか…山の主を食べたの!?」


嫌あああああ!と叫びながら里奈は驚愕の表情で口を押さえる。


「馬鹿!主とは別の個体だ!!」


謎の理由で争う千春と里奈をよそに、圭介は椅子をガタンガタンと揺らしている。


「俺は猪食った事ねえやぁ。やっぱ牛が1番だろ」


圭介の牛への愛を聞いた千春は、脳内で牛肉を思い浮かべた。


「牛肉かあ…美味いもんなぁ、すき焼き」


卵をつけて食べるのが最高だよな、と千春はすき焼きを食べる姿を思い浮かべてうっとりとしている。

横にいる圭介も似たような顔をしているので恐らく同じ光景を思い浮かべているのだろう。

すき焼きに思いを馳せる2人をよそに、里奈がまた唐突にガタン、と立ち上がった。


「決めた!!私も猪狩りする!!!」


里奈の突然の発言によって、残念ながら2人は現実世界に戻されてしまった。


「はあああ!!?」


里奈の謎の声明を聞いた千春と圭介の声が教室中に木霊する。



そしてこれ以降、里奈の頭の中は猪でいっぱいになるのであった。

一体どこの小学生、しかも女子が猪に心を奪われた挙句に自ら進んでそれを狩ろうとするのだろうか。


千春がいくら考えても答えはわからなかった。




「はい!先生!」


とある授業中の時間。

先生から指された訳でもないのに、里奈は突然大声で挙手をしながら立ち上がった。


「な、何だ?どうした谷井」


黒板にチョークで授業の内容を書いていた先生は困惑した表情で振り向いた。


「授業で獣狩りとかないんですか!?私、猪を狩りに行きたいんです!」


里奈の質問内容を聞いた千春は頭を抱えた。

教室のあちこちからクスクスと笑う声がしている。

ちなみに今は社会…世界史の授業中である。

狩猟など全く関係がない。


「ある訳ねえだろ!何なんだ獣狩りって…縄文時代にでもいるつもりか?おい川崎、保護者みたいなもんだろ。谷井を何とかしろ」


先生は呆れた顔でシッシッと犬を追い払うかのように手を振り、黒板に顔を戻した。


「なっ、何で俺が!?」


突然の指名に千春は驚き立ち上がってしまった。

その様子を見ていたクラス中の生徒たちからは、ゲラゲラと笑われる始末である。


あんまりだ…何だよ保護者って!!

俺にだって手に追えねえよ!!


千春は声にならない叫びを上げていた。





「ねえ千春、銃刀法って本当に邪魔だと思わない?」


先程の忌まわしの時間…世界史の授業が終わった後、不服そうな顔をしながら里奈が物騒な発言をして来た。


「…お前みたいなやべえ奴のために昔の偉い人が作ったんだよ」


千春は呆れながら圭介に借りた少年ジャンプに目を戻した。


「アメリカは子どもでも銃持ってるのに!」


本当不公平!などと里奈は謎の不満を零した。


「あそこは自由の国だからな。自由過ぎて収集つかなくなってるけど…そもそもな話をすると、アメリカでも多分子どもはそんなに銃は持ってないぞ。あとな、俺たち小学生だけで狩猟は無理だし、大体狩りには免許が必要なの!潔く諦めろ」


そう、狩猟は免許がないと出来ないのだ。千春の祖父も狩猟免許を持っていた。猟友会はそもそも免許がないと入る事が出来ない。


千春はパタン、とジャンプを閉じた。

誰かさんのおかけで全く集中出来ないので、後でまた圭介に借りて読む事にしたのだ。

千春はジャンプを後ろに座っている圭介に返した。


「えええええええ!!!?」


借りが出来ないと言う真実を知った里奈は、この世の終わりかのような顔をして悲痛な叫びを上げる。


「まあ狩りは別としてさ、猪の肉は食べてみたいよなあ」


ジャンプを受け取った圭介はまだ食べた事がない猪の肉を思い浮かべ、よだれを垂らしそうになった。


「猪の肉ねえ…」


その言葉を聞いた千春は一つ思い当たる場所があった。







放課後、校庭に続く階段にいつものように千春、圭介、里奈の3人は座っていた。


「ムッティと優衣は?」


圭介はキョロキョロと辺りを見渡した。


「ムッティは塾、優衣ちゃんはピアノ」


だから今日は3人、と千春が言った。


「で、今日の議題は?」


里奈は頬杖をつきながら千春に聞いた。

狩猟は諦めたのか、まだ諦めていないのかは分からない。


「猪の肉を食べる」


千春は里奈の質問にそう答えた。

千春の答えを聞いた里奈はえっ、と言って嬉しそうに身を乗り出して来た。


「どうやって!?」


「とりあえず…塗装屋のおじいさんのところに行ってみようと思う」


千春の話を聞いた圭介がそうか!とポン、と手を叩いた。


「千春ん家のじいちゃんと一緒に猟友会に入ってたって言う?」


千春は頷いた。


「塗装屋のおじいさんは多分今も猟友会に入ってる。上手く行けば肉が手に入るかも知れない」


昔祖父が貰ってきた猪の肉は、確か塗装屋のおじいさんが捌いたものだ。以前聞いた事があったのを千春は昼休みの時に思い出したのだ。


「とんでもねえ飯テロじゃねえか!早く行こうぜ!」


「そうよ!早く行かないと!」


そう言うや否や、圭介と里奈は塗装屋に向かって走り始めた。


「おいお前ら、俺を置いていくな!!!」


千春はやれやれと思いながら2人を追いかけた。




「お前ら…、足早くないか…?」


学校の隣にある塗装屋に全力疾走で走った2人を追いかけた千春は軽く息を切らしていた。

件の2人はと言うと、既に塗装屋の前に到着して中を覗き込んでいる。


「おい…千春…」


圭介が中を指差した。


「何だよ…、…あ」


圭介が指差した先を見た千春は驚いた。


普段とは違い全開に空いたシャッターの奥に、天井からぶら下がっている獣の姿が見える。


「…でっっっか…」


天井からぶら下がり、物を言わない巨大な猪を見て圭介が呟いた。


「デジャヴね…こんな事ある?」


里奈が千春を見て呟く。


「…ナイスタイミングって奴だな」


千春は最高のタイミングに自然と笑みを浮かべていた。

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