星の銀貨

有栖れの

星の銀貨

 煙草が苦いものだと思っていたのは、どれくらい前のことだっただろうか。

 とあるパチンコ店の喧騒から抜け出した女は、ただ外気と体温の差だけでつくられた白煙を吐きながら、郊外の無駄にだだっ広い駐車場の片隅、使われていない車止めのコンクリートブロックへと腰を下ろす。身を切るような十二月の夜は、しかし先程まで暖房と興奮した客の熱気にあてられていた今の彼女にとっては心地よい冷やかさだった。

 店先と街灯からわずかに届く電光を頼りに、交換してきたばかりの煙草の封を切り、一本を口に咥える。

 ジャケットのポケットを探りライターを取り出したのと、いつの間にか対の車止めの上、小さな黒い塊がもぞりと蠢くのが視界の端をかすめたのは、ほぼ同時だった。

思わず肩が跳ね上がると同時に口元に変な力が入り、落としそうになった煙草を慌てて指先で摘まむ。視線を振り向ければ、相手もこちらの動きに気付いたのか、アスファルトの地面を覗き込むように俯いていた顔を上げた。宵闇よりも更に暗い墨色の髪が流れ、きらりと丸く覗く漆黒と目が合う。

 年の頃は三歳くらいだろうか。だぼついた黒い服の裾ごと手足を丸めこむようにしゃがみ込んだ、小柄な少女。

「……何してるの。お母さんかお父さんは? ひとり?」

 不意を突かれ無駄に鼓動を速める心臓を無理矢理に落ち着けながら、周りに他の人影がないことを確認し、女は眉を顰める。時刻は二十二時過ぎ、年端もいかぬ独りぼっちの子どもに出会ってしまうのは、例え心霊でなくとも心底遠慮したい状況である。

「あっちにいるよ」

 細く高いが不気味さは感じない無邪気な声と、店の方角を示した短い左の人差し指。それに少し安堵しつつも、親の監督責任、といった言葉が脳裏をちらついて、女は小さく頭を振る。女自身にもとうの昔から、子どもというものに自分の時間を捧げられるほど大した人ではないという自覚があった。善人ぶるつもりはない、ただ面倒だと感じただけだ。

 人見知りしない性質なのだろう、少女は女の内心など知らず、話し相手ができたと言わんばかりに元気よく話を続ける。

「それでね、おほしさまね、あつめてるの!」

 星?とつい怪訝そうに繰り返した女に、少女は握りしめていた右手を開いてみせた。小さな海星を思わせる掌上には、さらに小さな銀色の珠――女にとってひどく見慣れたパチンコ玉が二つ、載せられていた。恐らく、客の服や持ち物にいつのまにか紛れ込み持ち出されたものがいくらか、この駐車場に転がり落ちて散らばっているのだろう。要は見立て遊びだ。


 女は溜息をついて、煙草を箱に戻した。傍らの鞄にライターと合わせて放り込み、ついでにこれも端玉で交換したばかりのチョコレート菓子の小箱と、店内が暑くて脱いだままだった自らの白いカーディガンを引っ張り出して、まとめて少女の膝上に突きつける。きょとん、とこちらを見上げる彼女に、着な、と短く言葉を添えた。

 本来なら要らぬお世話のそれを押し付けたのは、暗がりに慣れた目が、この気温で外にいるにはあまりにも薄着でよれた少女のシャツと、パチンコ玉を差し出したときにぶかぶかな袖からのぞいた細い腕にぽつぽつと散った、赤茶とも白ともつかない丸い跡を一瞬認めてしまったせいかもしれなかった。

「さむくないよ」

「……寒くなくても風邪は引くのよ。そろそろ動く車が多くなるから星探しはやめて大人しくしてなさい。それ食べていいから」

 迷った挙句、スマホを出すことは選ばなかった。少女は助けを求めていないから。一方的な自己満足に居心地の悪さを覚える女を尻目に、少女は大人しく、丸まったカーディガンを広げはじめる。小さな膝から転げ落ちてしまった菓子を拾い上げつつ、袖を通すのを手伝ってやれば、くふくふと幼い笑い声が上がる。

「ぶかぶか。きもちいい」

 仄白く僅かな光を跳ね返し、大分視認性の良くなった少女から女は目を逸らす。煙草の代わりにチョコレート菓子の箱を開け、銀紙を剥いた一片を口に放り込む。当たり前に甘い。摘まみ上げたもう一つを同じように途中まで剥いてから、女と同じように車止めブロックに座り直した少女に手渡した。

「たべていい?」

「いいってさっき言ったでしょ」

 親には言わないでよね、と念押す女をもう一度じっと見てから、少女は手の上のチョコレートに目を戻し、ゆっくりと小さな口に含んだ。

「おいしい!」

 少女の瞳が星のように輝く。それから、はっとしたように女に向き直った。

「ありがとう、ございます!」

 唐突な敬語と律義さに、初めて女は、くすりと笑った。


 少女は楽し気に話し始める。名前は分からないが、この間初めて食べた甘いものも美味しかった。花が好きだけれど最近あまり見なくて少し悲しいこと。暗くても別に怖くないし、ものも良く見えること。星が好きなこと。雨は好きだけれど空の星が見えないこと。ガラス越しより、ベランダで見る星のほうがきれいなこと。

 女は、少女くらいの年の頃に聞いた話を一つだけ教えてやった。流れ星に願い事をすると叶うらしい、と。

 少女はぱっと上を向くと、瞬くばかりで凍てついて動かない星空を、真剣に見つめ始めた。

「おねえさんは、おほしさまおちてくるの、みた?」

 女は、先程まで目の前で降り続けていた銀玉、そして鞄の中で換金を待っている、薄いケースに収められた金属片を想った。

「見たけど、今日はあんまりだった」


 離れた出入口のほうから、わずかな喧騒が漏れ聞こえ始めた。黒い人影がまばらに吐き出されてゆく――もう閉店が近い――おそらく少女の親も戻ってくるであろうことを思って、女は立ち上がる。

「私はもう行くけれど、ちゃんと明るいところにいなさい。変な人に声かけられてもついていくんじゃないわよ」

「だいじょうぶ。……ね、おねえさん、これ。ほしい」

 ゆっくりな、恐る恐るともいえる声。少女を見下ろすと、神妙な面持ちで立ち上がり、それでも地面に擦れそうなほど長いカーディガンの裾を両手で持ち上げていた。小さな手の隙間から、銀色がぱらぱら、こつりと零れ落ちる。

 もう一度身を屈めてパチンコ玉と小さな銀紙の手裏剣――食べ終えたチョコレートの包装ごみを手慰みに折ってやったもので、紙のサイズも女の記憶も適当なせいでひどく歪だが、これも星だと喜ばれた――を拾ってやる。ふと思いだして、鞄からフルーツキャンディを二つ取り出し、諸々一緒にカーディガンのポケットに入れてやった。

「……要らないからいいわよ。あげる」

 こんな時間、場所に年端もいかない子どもを放置する親だ。この奇妙なプレゼントたちがどう作用するか分からないが、万に一つも返ってくる可能性はないだろう。それでよかった。

「それと、あなたは、次はもっとお節介で優しそうな人に見つけてもらいなさいよ」

 少女はきょとんと首を傾げると、よく分かっていなさそうな顔でうん、と頷いた。


 換金を終えて駐車場に戻れば、少女の姿はもうなかった。女は冷え切った体を縮こまらせ、自身の車をゆっくりと動かしてその場を後にする。

 カーラジオから聞こえるニュースは、週末の双子座流星群について。

 キャスターやアナウンサーの華やいだ声が、たくさんの星が降り注ぐことを願っていた。

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星の銀貨 有栖れの @arisu_reno

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