六月の花嫁
毎年六月になると、じいちゃんの和菓子屋には「六月の嫁さん」が現れる。
「花嫁」じゃなくて「嫁さん」なのは、その霊が花嫁衣装みたいな豪奢なものではなく、薄汚れた着物におんぶ紐という出で立ちだからだ。
しとしとと雨が降りしきり、客足も少ない六月の日。じいちゃんがそろそろ店じまいを、と店の雨戸を閉めようとすると、いつの間にか、背後に女の霊が立っている。
その女はぼろぼろの着物を身にまとい、破れて穴だらけの蛇の目を差したまま、戸口の前で動かない。色褪せたほっかむりを深く被っているせいで、顔立ちを確認することはできない。
鼠色の街を背に、着物の裾からじとじとと水を滴らせて立ち尽くす女がこの世ならざるものであることを、じいちゃんは一目見て確信したという。
驚きと恐怖で何もできずにいるじいちゃんに、女は言うそうだ。
「あじさいを、あじさいをください」
あじさいっていうのは、梅雨をモチーフにした練り切りの名前だ。
白餡の周りに、細かく切った青や緑色の寒天をまぶして紫陽花の花のように見せるのだ。
どうやら女の霊はそのあじさいを買いに来ているらしい。
心優しいじいちゃんは、女の求めるあじさいの練り切りを一つ、握らせてやる。
すると女は「ありがとう」と言って、淡い光の中に溶けてゆく……。
そんなオチを想像しただろうか?
でも、女の霊があじさいを手に入れることはできない。
遅いんだ。
六月にあじさいは売っていない。
練り切りというのは一か月ごとにその季節の象徴となる風物を模って作られるが、対象となる季節は大抵、少し先取りされている。
だからじいちゃんの店でも、あじさいを売り出すのは五月ごろと、梅雨には少し早い時期になる。
女が出る六月の頃には、もう練り切りは朝顔とか、天の川とか、更に先の物に姿を変えてしまっている。
だから、女はいつまでもあじさいを手に入れることができずに、毎年毎年じいちゃんの店に現れ続けているんだそうだ。
***
という話を聞いて、頭を過ったことだろう。
「なぜ、哀れな霊のためにひと月遅くあじさいを拵えてやらないのか」と。
初めて六月の嫁さんの話を聞いたとき、もちろん俺もそう思った。
だから、じいちゃんに聞いてみたんだ。
「毎年来ると分かっていながら、なぜその女の望むものを売ってやらないのか?」
すると、じいちゃんは語り始めた。
惨い話だ。
あるところに、女がいた。名前はツユといった。
最近商家の息子に嫁いだばかりの、若い女だ。
長い黒髪が特徴的だが他に特筆すべき点はなく、陰気で自分の意見もろくに言わないので姑からはいつも虐げられていた。
六月のある日、ツユが生まれたばかりの赤子を背負いながら家事に追われていると、姑が言う。
「これから得意様との茶会だが菓子がひとつ足りない。今すぐ急いで同じものを買ってこい」
着の身着のまま屋敷を追い出されたツユは急いで街の方へ駆け出すが、そこで初めて「用意されていた菓子がなんの形をしていたか」を聞きそびれていたことに気付く。
今から引き返して注文を聞き直すことも考えたが、一度でも屋敷から外に出てしまった手前手ぶらで戻ればまた怒られる。
ツユは何か手掛かりになる記憶はないかと必死に頭を悩ませた。
そして、今朝方姑が「立派なあじさいだ。これなら得意様もお喜びだろう」と、廊下の向こうで話していたのをことを思い出す。
ああそうだ、用意されている茶菓子はあじさいに違いない。
ツユは急いで菓子屋に走るが、当然六月の半ばにあじさいの練り切りは手に入らない。
学のないツユは、練り切りが模る季節の風物がひと月分先取りされることなど知らなかったのだから仕方がない。
代わりに持ち帰った朝顔の練り切りは、残念ながら姑の用意していたものとは異なるデザインだった。
今朝方姑が話していた「あじさい」の話は、単に庭に咲いているあじさいのことであった。
主人に恥をかかせたとしてひどい折檻を受けたツユは屋敷から締め出され、薄着で降りやまない雨の中一晩を明かすことを余儀なくされた。
元から体の弱かったツユは、それが原因で肺炎を患いあっけなく死んでしまった。
その日のことを悔やんで死んだツユはそれ以来、ずっと手に入ることのない「あじさい」を求めて彷徨っているのだ。
……という話。
***
「あの日手に入れられなかった練り切りを求めて彷徨う霊、というのは分かるんだけどさあ。『あじさい』を求めてるのはおかしくないか? だって、『あじさい』は不正解だったんだろ? 求めるなら、正しい答えの練り切りであるべきだ」
「そう。この話にはまだ続きがあるんだ」
その日ツユが急いで向かった菓子屋は、ツユの主人の屋敷が贔屓にしている菓子屋だった。
当然その日用意されていた茶菓子だって、その店に注文したものだった。
姑に虐げられているとはいえ、ツユがその家の嫁であることは事実だ。ツユが一言申し出れば、菓子屋の店主はすぐに同じものを持たせてくれたはずだった。
店主もグルだったのだ。
得意客への接待の用意でピリピリしていた姑は、ツユを懲らしめてストレス発散をしようと考えた。そして、菓子屋の店主に命じたのだ。
「うちの嫁が来ても、今日の茶菓子の種類を絶対に教えるな」と。
何代も前から菓子屋を贔屓にしてくださっている大店の奥様からの指示だ。店主も下手には逆らえなかったのだろう。
そして、姑の思惑通りにツユは失態を犯し、それが間接的な原因となって命を落としてしまった。
だから、ツユがこの世を恨んで死ぬ原因を作ったその菓子屋の店主の元には、
もう何十年もずっと、六月の嫁さんが現れ続けているのである。
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