ハヤブサ
俺はハヤブサ。
漢字は隼。シュンなんかと読み間違えられやすいが、生粋の鳥名だ。
急降下時の時速は400 km/h にもなり、小学生時代の俺はこれがカッコ良くて仕方がなく、誇らしかった。
今でもバイクや新幹線や探査機と同じ名前で話題にされると恥ずかしいという問題点を除いて、この名前を気に入っている。
そして俺は美術部の部長だ。
カンバスの上に絵の具を広げて、ナイフで伸ばして、削って。この動作が純粋に楽しかった。
美術系の進路を考えているわけではないが、俺があまりにも美術室に居着いていたので、半強制的に部長にされてしまった。
入学当時にいたお喋り好きな女子グループは、気づけばいなくなっていた。
数少ない部員の中に、双葉錦という後輩がいた。
彼女はいつも無言で絵を描いて、帰っていく。時々俺が話しかけるが、かなり一方的な感じだった。
それでも、彼女の態度は何故か一方的である罪悪感を抱かせることはなかった。
第一、二人ともカンバスという魅惑の空間に閉じ込められていて、あまり互いの存在を意識するようなことはなかったのだ。変に干渉してくる奴も稀にいるので、その距離感が心地よかった。
ある日、双葉錦はこう言った。
「先輩を描いてもいいですか」
「別にいいけど……」
そりゃあどうして。
「私、見た物しか描けないんです」
「そっかぁ……」
どう考えても説明が足りていないのだが、見た物しか描けないの一点張りで、俺は説得をやめた。
別にやっちゃ悪いってことはないけど……。苦笑いするしかなかった。
「えっと……俺はどうしてればいいんだ?」
「どうぞ寛いで、絵とか描いててください」
「はあ……」
大人しくカンバスに目を向ける。
どうにも見られながら描くのは落ち着かない。その時の感情、緊張感は、絵の具の乗りを硬くさせる。ワンパターンな絵なんてつまらないし、いくらでも感情に左右されてくれ、とは思うが。
俺はメディウムの混ざった粘度の高い絵の具を広げる。平坦なカンバスに数ミリの凹凸が生まれる。
絵画という二次元を二次元のままに表現することこそが芸術、という考えもあるが、二次元よりも三次元の方が表現の幅が広がるのも事実だ。
絵は自由で良い。何を使ってもいい。
このメディウムの山が、本当に山なのか、海なのか、それとも何でもないのか。俺にだってわからない。
わからないくらいが、楽しいのだ。
「先輩、来週も来ますよね」
「きっと、いつでもいるよ」
文化祭まで、一か月を切っている。
そりゃあ部活を主にすべきではないのだろうけど、美術部の展示だって、今年で最後だ。悔いのないものにしたいと思う。
俺は彼女を双葉さんと、向こうもまた俺のことを望月先輩と、呼んでいた。
今日も彼女は絵を描いている。
「クラスの出し物はどうですか」
「順調だね。あっ、そうそう。俺は当日は仕事ないんだけど、内部の装飾はだいぶ手掛けてるから。良ければきてね」
「そうですか。先輩は偉いですね」
双葉さんのクラスは、と言いかけて、慌てて口をつぐんだ。
彼女は今まで一度もクラスの話をしたことがなかった。
「まあ、人それぞれだよね。俺も去年は全然行事の方行かなかったし」
「そうなんですか?」
急に語気が強くなり、思わず一瞬手を止めた。
「望月先輩って、もっと、人気者的な立ち位置だと思ってた。」
「あはは、そんなことないよ」
彼女に俺はどう見えているのだろうか。
言うほど外向的かな。クラスでは決まった少人数グループで落ち着いているし、カノジョがいるわけでもないし。印象が良いってのは、喜ばしいことではあるけど。
そもそも彼女の思考回路がとても掴めるものではなかったので、俺は考えるのをやめた。
その日は、彼女が口を開くことはなかった。
昼時、俺は提出し忘れたプリントを届けるため、職員室に向かった、のだが。
「双葉さん」
部活以外で会ったのは初めてだ。それもいつもの毅然とした態度ではなく、動揺が滲み出ていて。
「あっ……望月先輩……お疲れ様、です……」
彼女は普段の態度を無理にでも取り戻そうとする。
「無理しないで、何があったの、話、聞くから」
俺にも動揺が移る。
乱れた息を整えながら、彼女はおもむろに口を開く。
「私、もう、何もわかんなくなっちゃって」
ぐぐ、と口角を上げて誤魔化そうとするのがわかる。
「どうしてこう、コミュニケーションって、難しいんですかね、円滑に進むよう完璧な計算をしても、どこかしら狂ってしまって、私のせいで破綻して、最初から何もしなければよくって、でもそれができなくって、って、あっ、すみません、先輩にはこういう話する気じゃなかったのに、」
へへ、と力なく笑う。床に落ちた水滴をラバーが弾く。
「えと、たぶん、双葉さんは、周りをよく見てるんだよ、すごいことなんだよ、ただ、自分が全部背負っちゃうから、苦しくなることもあるけどさ……」
なんか俺、今ダサくない!?ドモドモってなんないで、なんか、もっとこう、良い返しがあるだろうに!
「はは、そうですよ、よくわかってますね。だから、もっと上手く溶け込めないといけないのに、」
「そんなことないって!」
思わず大きな声が出てしまった。場が静まり返る。
「あ、ごめん急に……」
俺は、彼女のなんだかよくわからない、掴みどころのない感じが好きだった。愛想笑いで、他人を立てる以外の能力がない奴らよりもずっと良い。そんな彼女の個性が、万が一、均質化されて、”らしさ”が損なわれてしまうのは、自分のことではないのに許せなかった。
俺は彼女にどうして欲しいのだろう。どうやったら救われるだろう。脳の回転が追いつかず、ギギギと音を立てる。
「あのさ、辛かったら、いつでも俺のとこに来てよ、双葉さんが辛い思いをするのは、俺も良くないと思うし、双葉さんの性格、けっこう好きだし……」
どうだ!?変じゃないか!?わからない!!心臓がギュウギュウ鳴っている。もうどうにでもなれだ。
「へへ、ありがとうございます」
「今日も、美術部、来るかな」
「はい、行きますね」
不器用だけど不器用なりに、伝えられたと思う。君は君のままでいい。それを伝えたかった。
その時、俺は初めて彼女の笑顔を見た。
何故か文化祭の話し合いが長引いてしまい、俺は慌てて美術室に向かった。メイド服を誰が着るとか着ないとか、そういうくだらない話に付き合っている余裕はないのに。
やらかした。既に彼女は教室にいなかった。
別に、話し合いが悪いのであって俺のせいではないのだろうけど、彼女に期待を持たせておいて裏切る、という残酷なことをしたことには変わりない。
無意識に親指を食い込ませていた手のひらが痛かった。
彼女のいない美術室に、一枚の絵があることに気がついた。
すっかり絵の具に塗れてしまった古びたイーゼルに掛かった大きなカンバス。窓から差し込む山吹色に染まっている。
「これは……」
俺だ。見た瞬間、これは俺だと思った。まあ、そりゃあ俺なんだけど。
顔が似せられてるとか、精密なタッチとか、それもあるけどそういうわけではなくて。
外見だけじゃあわからない、俺の中の光と影が。
彼女へ向ける態度の感じが。
そして何より……
「どうして今まで気づかなかったんだ……」
見た物しか描けない。
これがきっと彼女が感じている欠点だった。
だけれど、この作品を見た瞬間に俺を襲ったのは、静物や風景画には込められない、感情。
大きな感情。
彼女の視界がゆがむほどの。
「まだ学校の中にいるはずだ。」
俺はハヤブサ。君へ向かって、誰よりも鋭く。
日陰の彗星 春原よいち @qulsnug
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