Scene11-1




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 午後に行われた男子百メートルの準決は四着という結果に終わった。自己ベストの更新とまではいかなかったがそれに近いタイムもだすことができ、俺としては予選敗退も覚悟していたので上々の成績と云っていいと思う。


 大会の一日目はその後も順調に進んでいき、残すは男子百メートルリレー、通称『四継』の予選を残すのみとなった。


 俺は二レーンへ入り、事前に先輩と合わせた歩数を数えていく。目印のマーカーを貼り終えてからスタート位置まで戻り、バトンを受け取った体で軽く流しを行った。内側のレーンは俺の走る三走だとコーナーが急になるため好き嫌いが分かれる。個人的にコーナーはむかしから得意で外より内の方がいいとは思っていた。


 スタートを待つあいだ、太ももを叩く人、その場でジャンプする人などなど、同じ走者の人達が気持ちを入れていく姿が目に入る。俺はまろやかな橙と青の混じる空を見上げた。昼間と比べ、気温はすこし落ち着いている。鼻で息を吸いこむと、澄んだ秋の香りがした。


 これが、きょう最後のレースだ。


 まぶたを閉じながら呼吸を整え、もう一度、気持ちを入れ直す。俺達の走る組は、正直なところ格上ばかりだ。二着までが確定で予選抜けのなか、五レーン、六レーンに強豪校がいる。


 翔陽は食らいつけるかもしれないが、一人が速く走れても勝つことはできない。総合的な走力の問われるリレー種目ではうちの高校に勝ち目はあまりないだろう。ただ、実力が劣っているとしても、どれだけ張り合えるか試すいい機会だ。


 それとリレーには『まさか』が存在する。最後の走者が走り終わるまで、結果はわからない。


 第一走者に、スタートの準備が促される。

 競技場を包む深い沈黙の後、一斉に、各選手が走りだした。


 堰を切ったように遠くから声援が轟く。リレーは学校同士の対決、それもきょうは最終種目なので予選でもボルテージが高い。特に強豪校がいる組は部員数も多いため、その迫力に少々気圧されるくらいだ。


 一走の先輩がバックストレートへ入ってくる。二走の先輩が前へ踏みだしていくと、無事にバトンパスが行われたのを見届けて、俺はクラウチングの姿勢でこちらへ向かってくる先輩を待つ。


 内のレーンのせいか、他校の選手が先に俺の横を次々に通過していくと、思わず気持ちが先走りそうになる。目印のマーカーまであとちょっと、あとすこし――焦りでスタートを早く切りすぎないように我慢し――俺は目を切って駆けだした。


「はい!」


 掛け声がして、俺は腕を後方へ。手にバトンの感触がしたところでこぼれ落ちないように全力で握りしめると、一瞬、腕に反発するような力が伝わってきた。――詰まってる。先輩がそれをカバーするようにバトンを押しこんだのがわかった。


 外へ振られないように左半身に意識をおき、下腹部に力をこめる。まるで台風のなかにいるような風を裂く音と息遣いが混ざり合う。加速がつき、となりの三レーンの丸刈りでオレンジのユニフォームを着た選手との距離が縮む。抜ける。いや、抜く。


 並んですぐに追い越すと、待ち構える翔陽の姿が見えてくる。そこで息がわずかに上がってきた。後方からは三レーンの選手のスパイクの音と息遣いが聞こえる。粘られているのか、あまり引き離せてはいないようだ。


 いまの順位が何位かはわからない。

 あとはもう翔陽に託すしかない。


 構えていた翔陽が見切りをつけてスタートした。加速していく背中を最後の力を絞りだして必死に追いかける。


「はい!」


 高々と翔陽の腕が上がる。大きく開いた手のひらにバトンを押しつけるようにしながら手離すと、心のなかで『頼む!』と叫んだ。


 俺は荒い息を吐きながら速度を落としていき、遠くなっていく翔陽の背中を見送った。


 足は重く、ふくらはぎが張っているのが歩いているだけでわかる。腰に手を当てながらレーンから外れていくと、翔陽がフィニッシュラインを越えたのが目に入った。正確にはわからないが、おそらく四、五着といったところだろうか。『まさか』は起こらなかったけれど、強者揃いの組で十分健闘した方だろうと、俺は思った。


 息を整えながらホームストレートを歩いていく。踵が滑り、スパイクの歯が引っかかって進みにくい。


「稲田ァ、おつかれーッ!」


 観客席から岬の声がした。応援に来てくれていたのかと思いながらそちらを見上げると、鉄柵に手をかけた岬と、その横に首にかけたタオルを握りしめた渕がいる。


 目が開き、驚きで言葉を失う。えっ、な、んでおまえら、いっしょにいる? 


「お、おツかれーっ……」


 声を張るのに慣れてなさそうですこし裏返っていた。俺は歩きながらそれに応えるように手を上げると、渕がタオルを握っていた手をふっと離し、恥ずかしそうに笑みを浮かべながら手を振ってくる。


 一日目を終え、疲弊したいまのタイミングでのその笑顔は、心と身体にありえないくらい染み渡った。

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