Scene8
8
「おい、次だ次」と翔陽が立ち上がった。
俺も席から立ち上がり、階段を降りてトラックにギリギリまで近づく。いまはホームストレートの観客席でレースを眺めており、トラックでは女子四百メートルが行われていた。参加している学校は多いものの、朝イチの種目のせいなのか競技場の熱気はそこまで高くなく、声援もまばらに聞こえる程度だった。
「あーやべぇ。自分が走るときより緊張するぅー!」と翔陽が両手を合わせた。「足攣るなよ〜。普通に回ってこいよ〜」
「そうだな。まずはそこだな」と俺はパンフレットをジャージのポケットに入れた。「お、きたきた」
次に走る選手がやってきてスタブロの位置を変えていく。五レーンに岬の姿があった。青をベースに黄色のラインが入ったセパレートのユニフォームを着て、遠巻きでもすぐにわかる背の高さ、高い位置で結んだ髪。一個上の先輩も混じるなかで、負けず劣らずの体型をしており、場慣れした雰囲気も感じさせる。
スタートの確認と流しを終え、岬が太ももを叩きながらゆっくりスタート位置へ戻ってくると、こっちへ顔を向けた。……ような気がする。じっと見ていたわけじゃないから、俺の勘違いかもしれないけれど、もしかすると観客席を見ていられるほどの余裕があるのかもしれない。
スタートの準備が促され、選手が位置につく。
数秒の静寂の後、号砲が響いた。
はじまってすぐ、岬は動かなかった。まわりを見ながら、というより、きょうの自分のコンディションはどうなのか、他人よりも自分のことを気にしているように俺には感じた。
一人だけ突っ込んでいる人はいたが、岬は惑わされることなくバックストレートをついていくかたちで走り抜けていく。
動いたのは、第三コーナーに入ってからだった。
それまではついていくだけだったのに対し、明らかにギアを上げたのがわかる走りで、前にいる人たちとの距離を詰めていく。突っ込んでいた人はへバッてきてスピードが落ちるなか、岬と、もう一人、えんじ色のユニフォームを着た人がぐんぐんと伸びてきて、観客席の声援も熱が増す。
ホームストレートを、岬が駆け抜けていく。
「マイー! ラストラスト!」
「岬ー! ラストー!」
声を送ったが、もう走っている本人には結果はわかっているのだろう。五十メートルを過ぎてから、すこしずつ速度をゆるめていき、最後はえんじ色のユニフォームの人にすこし迫られたが一着でゴールをした。
「ふぃー……」と翔陽が安堵の息を漏らした。「これで予選突破、と。やーよかったぁー……」
「あいつ、まだぜんぜん余裕ありそうな感じだったな」
「だな」
各選手が続々とフィニッシュラインを越えていく。レース後に振り返って礼をする人、息を吐き、腰に手を当てながら俯いてコースを外れていく人などなど、振る舞いは人それぞれだが、実力のない人にはきまって『余裕』がなかった。
「ちょいトイレ行ってくるわ」
「おう。俺さっきのところで見てるから」
翔陽が小走りで離れていく。俺は階段を上がり、さっきまで坐っていた観客席の高い位置へ戻っていった。岬のレースが終わったので、このあとは別に見なくてもいいのだけれども、学校が確保した場所にいても特にやることもなくダラダラしてしまいそうなので、ここで観戦して雰囲気を味わっていたい。
心地よい日差しを浴び、ジャージ越しにほんのりと熱を感じる。まだこの時間は幾分ひんやりとした空気が流れていて、ゆるやかに流れる風が気持ちいい。
パンフレットを見ながら、トラックへたまに視線を移して翔陽が戻ってくるのを待っていたら「あっ! いたいた!」と聞き覚えのある弾んだ声がして、俺はそちらへ顔を向けた。
岬が手をぶんぶんと振ってくる。快活で明るい性格がそのまま顔にでたような容姿で、くっきりとした二重と大きな目が特徴的だ。上はユニフォームと同色の学校指定の長袖のジャージを羽織り、下は濃紺のハーフパンツで、大きめのリュックを担いでいた。
俺は軽く手をあげると、岬が階段を一段飛ばしで駆け上がってくる。
「うっす。おつかれ。予選通過おめ」と俺はグータッチを作った。
岬がこつんと拳を合わせた。「ありがとー。てか久々じゃん。前の記録会ぶり?」
「そうだな。まあ昨日練習で走ってるとこ見かけたけどな?」
「そうだよ! てか昨日なんで帰ったの! あたしの練習終わるまで待っててよ!」
「なんでだよ。俺は別にいーだろ」と俺は軽く笑いながら云った。
岬がとなりに腰を下ろす。手に持っていた水を軽く口に含んで、キャップを締めながら「あれ? ショウは?」と訊ねた。
「さっきトイレ行った。おまえのレース見て安心したんだろきっと」
「あいつ自分より他の人のレース見てるほうが緊張するらしいからね」と岬が笑いながら云った。
「てか、気づいてたんだな? ここにいるの」
「ほんとたまたま。レース前にそっちのほう見たら、ふたりがいるの目に入って。もういないかもなーって思いながらダメ元で来てみたんだけどさ」
「調子は良さげ?」
「んーまあまあ。準決は組次第って感じだね。正直なところ自信あるのは明日の八百かな」と岬が云った。「いやてかあたしのことは別によくて、それよりカノジョできたってほんと?」
「翔陽遅いな?」
「話逸らすな」と岬が太ももを指で摘んできた。
「痛たたたっ。つねるなって」と俺は身を捩りながら云った。「……まあ、できたよ」
「いつ」
「あー……新学期はじまって、ちょっと経ったくらい?」
「なんで云ってくれないかなーもー」と岬が大袈裟に身体をうしろへ反らせた。「まあ、とりあえずおめ!」
岬がグータッチを求めてきたので、俺は恥ずかしさ半分、もう勘弁してくれと半分思いながら「ん」とグータッチを返した。中学から親しかったということもあり、なんか身内に恋人ができたことを知られてしまったような照れ臭さがあって、素直になれない複雑な心が渦巻いてしまう。
「実は「あっ、ミサキー! 予選通過おめでとー!」
他校の選手が岬の姿を見かけて声をかけてきた。岬は軽く手を振って「ありがとー! そっち予選何時からー?」と訊ね「ヨンパは明日なんだー。んじゃねー」と俺に気を遣ったのか、他校の選手が話を早めに切り上げた感じで去っていった。
「ごめんごめん、なんか云いかけたよね?」
「……あー実はさ、きょう来るんだよ、ここ」
「えっ、カノジョ?」
うなずいたら「えっ、それほんと? 見たい会いたい!」と声を弾ませる。むかしから岬は社交的で、だれとでも仲良くなれる天性の親しみやすさがあった。さっきのように他校の人とも仲良くなったりと、交友関係もかなり広い。
「時間が合えば紹介する」
「そうしてそうして! てか写真とかないの?」
「写真は、……ないな」
「ちょっとーなんで撮ってないの? 付き合ってるなら待ち受けにしておくの常識でしょ?」
「おまえ絶対やってないだろそれ。翔陽もしてないぞ絶対。エナドリ一本賭けてもいい」
からかっているのがわかって、俺は軽く笑いながら云い返すと、ちょうどいいタイミングで入場口から翔陽がでてくるのが見えた。俺たちの姿を見つけると、翔陽が急いでこちらへやってきて「えーい予選通過おめ!」と岬にハイタッチを求める。
「ありがと。ねえショウ、あたしの写真待ち受けにしてるよね?」と岬がハイタッチをしながら云った。
翔陽が一瞬考えるそぶりを見せた。「ぁ、ま、してるに決まってんじゃん!」
「はいあたしの勝ちー!」
「いやいやいや絶っ対嘘だって。いますこし間が合った。おい翔陽、おまえスマホ見せろ」
「えっ、ちょっと待って待ってなになにどういう流れ?」
翔陽が岬のとなりに坐り、それからちょっとのあいだ三人で他愛のないことを話した。高校生になり、中学の頃にいっしょにいた雰囲気とすこしだけ変わったような、そんな気がする。でも集まると自然と表情が砕けて、会話が弾むところは変わっていなくて、こうしているとなんだか心が和んだ。
岬に付き合ったことを云えなかったのは、その、好きでもないのに付き合ったことが引っかかっていたからで。
怖かった、んだと思う。
岬に俺の内情を伝えることが。
ふたりは両想いで付き合ったから、なおさら。
翔陽には話せたことが、岬に話せないのはすこし後ろめたさがあった。さっきもちょっとだけ、渕のことを話すとき、小骨が喉に刺さったようになってしまう。
でもいまは、前向きな気持ちに変わっていて――渕のことを紹介したいと云えたのも、その気持ちに変化がでてきた証拠なのだと思う。
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