Scene9-1




      9




 スパイクの紐を強く結ぶ。全身を巡る緊張が一組終わるごとに増していき、俺は自分の組がやってくるまでのあいだ、肩を回したり、足首を回したりと、身体が硬くならないように意識しながら待機時間を過ごしていた。


 周囲は張り詰めた空気が漂い、記録会とはまた違う大会ならではの闘志を各選手から感じ取れる。昼頃になって耳に入ってくる声援も朝と比べて大きくなり、競技場全体の熱気が上がっているのがトラックに立っているだけで伝わってくる。


 一組、また一組とレースが終わっていき――順番がやってきた。


 六レーンへ入り、前の人が使っていたスタブロの位置と角度を自分用に合わせる。ゴムが焦げたような独特のにおいと、周囲から漂う汗と薬品の混ざった香りが微風に乗って鼻から入ってきた。


 整えたところで俺はスタートの姿勢を作る。自分のタイミングでスタートを切り、最初の足の入り方、腕の振りなどを意識しながら流しを終えた。各レーンの選手も同じように最終確認をして、各自スタートラインまで戻っていく。


 そして最後に、となりの黒地にオレンジのユニフォームを着た五レーンの選手が――強豪校の選手特有の、時間と場を支配するような、ゆったりとした足取りで戻ってくる。俺のいる組では、年上のこの人が頭一つ、いや、ふたつくらい実力が抜けている。その他は名前が知れ渡った選手はおらず、年上はいるものの、そこまで抜けた人はいなかった。


 息を整える。

 雰囲気に飲まれるな、と自分に云い聞かせる。


 アナウンスがされ、俺はスタブロに足をかけていった。白線の手前に指をつき、いつものルーティン――まぶたを閉じ、深く鼻で息を吸って――吐く。意識的に肩の力を抜き、頭をクリアにさせて、ゆっくりと目を開く。


 ――よし。


 腰を上げてから、静寂の間の後、スタートの音が響き渡る。


 反応良く出だしの一歩目を着地させると、二歩目、三歩目と流れるように足が前に進んでいく。加速がついたところで上体がスムーズに起き上がり、景色が一気に広がった。テンポ良く足が動く。下腹部に力がこもり、地面からの反発がしっかりと推進力に変わっているのがわかる。


 やっぱり、調子が良い。

 走りだして間もないが、明確にそう感じた。


 風を裂く音、聞き取れない声援が混ざり合う。それなのに近くを走るスパイクの足音だけがなぜかしっかりと耳に残る。半分を過ぎたあたりから五レーンの選手が一気に加速してきて前に立たれた。苦しくなってきて浅い呼吸を何度も繰り返し、フォームが崩れないように意識しながらすこしでも前へ前へと腕を振りつづける。


 ゴールが見えているのに、なんでいつも間近になるとそれが遠く感じるのだろう。あとちょっと、あとすこし、そう思っているのになかなか辿り着けないのがもどかしい。


 視界にいるのは五レーンの選手だけ。このまま粘り残す。絶対に負けない。絶対に。普段は負けん気なんてなるべく見せないようにしているのに本番になると本能が目を覚ます。


 諦めない。


 フィニッシュラインが目と鼻の先にやってくる。五レーンの選手が先着すると、俺は胸を前に突きだし、わずかでもタイムを縮めた。最後まで油断しない。予選で余裕を見せていられるほど俺は強くない。岬のように流しても一着を狙えるような選手じゃない。だから足掻いた。才能がないと諦めるのは自己責任、だけど爪の甘さと努力をしないのは怠慢だ。


 ラインを割ると、勢いを流すように俺はゆっくりと足をゆるめていった。荒い息が最初はでていたが、調子が良いときの特徴で、レース中にあれだけ苦しかったにもかかわらず、レース後は自然と息が整う。調子が悪かったり、がむしゃらに走っているときなんか、フルマラソンを走った後みたいに大袈裟な感じで息が乱れたりするのに。


 ある程度いくと、前を走っていた五レーンの選手が立ち止まって、くるりと振り返った。表情がぜんぜん崩れてない。最後らへん、軽く流してたもんなこの人……俺は息を整えながら腰に手を当てていると「っすー。お疲れ」と声をかけてもらった。


「おつかれっした……」


 共にトラックから外れ、荷物がある場所まで戻っていく。予選は二着までが確定で準決に進めるのだが、たぶん二着には残せた。……はず。周りを見ている余裕がなかったので、こればっかりはリザルトを確認してみるしかない。


 荷物のある待機場所まで戻ると、俺は地面に坐り、キツキツに締めたスパイクの紐をまず解いた。水分補給をしながらタオルで汗を拭いていると、徐々に興奮が冷めてきて、落ち着いた息がこぼれでる。


 のんびりとランシューに履き替えたり、ジャージを着たりしていると、翔陽の組がやってきた。中学の頃から無駄に長いスタート直前のルーティンを見ていると、おまえそれほんとに意味あるのか? と問いただしたくなってしまう。


 結果はまあ、予想通り。ここからだとはっきりとはわからなかったが、これから行われる準決、そしてその先の決勝へ向かうために力を温存しながら走り抜けたような感じだった。


 俺はタオルを首から下げ、リュックを背負ってから、忘れ物がないかを確認して待機場所を後にする。裏口へ進み、とりあえず着替えたいので学校が確保した場所へ向かうことにした。


 それよりも、と、俺は渕が見に来ていたか気になり、リュックからスマホを取りだした。アップからいままでスマホを触れていなかったので渕とはまだ連絡を取れていない。百メートルの種目が開始される時刻と組は伝えていたし、午前中に行くと云っていたので、たぶんもう見に来ていると思うんだけど。


 電源を入れる。


 起動すると、待ち受けに通知があって『着いたよー』『これからだよね?』『頑張って!』そして最後にキャラクターが親指を立てたスタンプが送られていた。送信時間は間隔が空いていて、それを見た瞬間、渕のことを想うと、もやっと胸に苦味が広がる。


 俺はすぐにアプリを開き『いま終わった!』『どこにいる?』と送った。スマホを握りしめ、早歩きで移動しながら返信を待つ。外部の人はホームストレート側の観客席にいるはずだと見当をつけ、ひとまずそちらへ向かうことにした。

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