Scene7
7
「いきまーす」
掛け声をだしてから、俺は走りだした。
トラック特有の地面からの反発とスパイクの歯が食いこむような感触を感じながら第三コーナーを曲がり、ホームストレートで待ち構えている翔陽のところへ向かっていく。
目印のテープを通過すると翔陽が勢いよく走りだす。身体が近く、まだあとすこし縮められる、そう思いながら「はい!」と声をだすと、翔陽が腕を上げた。俺はバトンを手渡すと、翔陽がホームストレートを軽く流しながら走り抜けていく。
息を整えながら、周囲を確認してトラックから外れる。
戻ってきた翔陽と合流して「ちょっと、まだ、詰まるなぁ」と意見をだしたら「だなぁ。ただギリギリすぎるよりはいまくらいでもいい気がすっけど」とバトンを手にペシペシと叩きつけながら翔陽が答えた。
翔陽とは中学の頃に何度もリレーでバトンを繋いできた。その経験がお互い蓄積しているので、ある程度の余裕を残していた方が本番で臨機応変に対応しやすいのはわからなくもない。だが、それでもちょっとだけ修正しておいたほうがいいと思う。
「すまん、もう一本いいか? 試しにあとちょっと長くしてみてほしい」
「おけ。同じ六レーンにいるわ」
「サンキュ」
翔陽からバトンをもらい、バックストレート方面へ歩いていく。きょうは明日から催される大会のため、当日行われる競技場で軽めの調整と、短距離メンバーは各自スタートの確認などを行なっていた。個人種目は百メートルと二百メートル、それからリレーに出場する予定で、すでにスタート練習と二走の先輩とのバトンパスの方は確認が終わり、最後に翔陽との確認を終えれば、きょうの練習は締めになる。
歩きながら競技場を眺める。俺らと同じように、きょうは現地で最終調整を行なっている学校が多く、放課後にもかかわらず、トラックとフィールドのどちらもいつにも増して人が多い。
その景色を見ていると高揚感が滾っていく。ああ、いよいよ始まるんだと感じるというか、なんでなのかはわからないが、当日よりも前日ほうが雰囲気が好きで、俺は気分が上がるのだ。
第三コーナーの途中で足を止め、走ってくる人がきていないかを確認してからトラックのなかへ。六レーンに足を踏み入れると、もう一度うしろから人が来てないかを確認してから息を整え「いきまーす」と声をだす。
ぐっ、と母指球らへんに力をこめる。足がスムーズに回る、フォームも崩れてない、腕も振れる、なにより身体が軽い。
たぶん俺は、調子がいい。
コーナーの曲がり方も身体をうまく使えている。そんな風に、ひとつひとつを確認しながら走り抜けていくと、目印のテープが見えてきた。俺を待つ翔陽がテープを越えてスタートすると、その瞬間に「あ、やっべ遠っ」と思った。
「ごめーん!」
案の定、バトンパスはギリギリで(翔陽が振り返るくらい)、たぶん本番だと間違いなくミスるやつだったので、もう失敗が分かりきっていたので先に謝っておくことにした。
「へいへいへーい!」
翔陽が陽気に答えながら軽く流していき、俺は再びトラックを外れると、翔陽と再び合流して、お互いに「やっぱ前のやつでいくかぁ」という結論になったが、微調節と最終確認でもう一本だけ走っておくことにした。
そんなこんなで練習を終え、きょうはリレーメンバーでダウンをやり、全体ミーティングで明日の日程やらを顧問から聞いて、きょうは解散となった。
「そういえばさ、明日、渕が、見に来る、かも」
他校の生徒も入り混じった競技場の更衣室で、制服に着替えながら、俺は翔陽に告げた。
「あ、そうなん?」と翔陽がインナーを着ながら云った。「ん? かもってことは、行けたら行く的な話?」
「いや、九十五パーくらいで来る」
「高っ。かもじゃなくて確実じゃねーかそれ」と翔陽が云った。「んじゃあ明日は渕さんにいいところ見せねぇーとなぁ。オレが!」
「なんでだよ」と俺は笑いながら云った。「いやまあ、そんだけなんだけどさ。とりあえず」
「あいよ。見かけたら挨拶しとくわ。あ、そういやさ、舞衣も話したがってたぞ、そのことで。一成に彼女できたって云ったらさ。きょうこれからいっしょに帰るけど、おまえも来る?」
「いやいいわ。絶対めんどくせぇもんあいつ」
「そ? んじゃあ舞衣におまえがめんどくせぇから来なかったって云っとくわ」と翔陽がシャツを羽織りながら云った。
「おいこら言葉を変えるな? 俺は岬がめんどくせぇとは云ってないからな? 誤解生まれるからな? いろいろ訊かれるのがめんどくせぇの。てかもうこの説明がめんどくせぇよ」
ケラケラと翔陽が笑う。普段と異なる場所にいるせいか、明日が大会ですこし浮かれているのか、それとも岬と帰れるからか。たぶん全部かもしれないな、といつもより上機嫌の翔陽と話しながら着替えを済ませる。
「んじゃ、明日な」
「うーっす、じゃあな。ちゃんと寝ろよ」
「おまえもな」
競技場をでると、外は日が落ちて暗くなってきていた。競技場から駅までの道のりは街灯が点いていて、車道を走っている車のテールライトが色濃く光っている。
俺はポケットからスマホをだし『部活終わったー』と渕にラインを送った。駅へ向かっている途中でスマホが震えると『おつかれさまー』と返信がくる。それから渕と何気ないやり取りを繰り返しながら家に辿り着くと、明日のこともあるので夕飯を早めに済ませ、長めに風呂に浸かってから、部屋で明日の荷物を整えることにした。
カバンのなかを整理しながら、ユニフォーム、ゼッケンを間違いなく入れたことを確認する。それからスパイクと、タオルの予備などなど……と準備しながらも、渕とのラインはあれから途切れることなくつづいていて、スマホが震える度に手が止まってしまった。
『明日、午前中に行くね?』
『おけ。暑いから帽子とかあったほうがいいかも』
『わたし帽子似合わないよー』
『日傘は?』
『持ってないよー。夏に買っておけばよかった……』
と明日のことについてやり取りをしながら支度を済ませ、俺は時間を確認した。十時をすこし回ったくらいで、いつもならまだ寝るにはぜんぜん早い時間だが、明日に備えていつでも寝れる体制になっておくことにする。
寝巻きに着替えてから、まとまった荷物を見て、忘れ物がないかをもう一度振り返る。
よし、だいじょうぶだ。
ベッドへ腰を下ろして一息吐くと――なぜだか急に緊張がこみ上がってくる。あまり前日に緊張はしない方だったのに一体どうしてだろうと考えていると、ああもしかして、と思いつくものがあった。
渕が、見に来るからか。
中学のとき、親が応援にきてくれたことがあったけれど、それとはまた違う感じがする。親が見にきたときは恥ずかしさが強かったが、いまは情けないところを見せたくない、自分をよく見せたいと思ってしまう、というか。
今更そんなことを思ったところでもう遅い。なにをいまになって、見栄を張ろうとしているんだろう。
ベッドの上に胡座をかき、足を揉みこむように指でほぐしていく。自分の実力以上のものなんか滅多にでないことなんてわかっているくせに、それでもなにかしておきたくて。
ある程度ほぐれたところで俺はスマホを手に取った。寝る前に渕に返信をしておこうと思い、アプリを立ち上げて『明日早いから、もうそろそろ寝る』と打ちこみ、送信を押す直前で、指が止まる。
数秒考えてから、俺は通話ボタンを押していた。
スマホを耳に当て、呼び出し音が鳴り響くと、鼓動が早くなっていく。すこし経ってから『あ、は、い。もしもし……』と弱々しい声が聞こえてきたとき、胸がぎゅっと縮んだ。
「あ、もしもし……? ごめん、急に電話かけて。いまって、だいじょうぶか?」
『う、うん、だい、じょうぶ……ちょっと、びっくり、したけど……ど、どうした、の?』
「いや特にその、なにかあるとかじゃ、ないんだけど……」
自分で云ってて自分がめんどくせぇやつだなと思ったので、俺はそう云ってからすぐに「なんとなく、声、聞きたくなって……」と思ったことを口にだすと『そ、そう、なんだ』と渕が嬉しそうな恥ずかしそうなどうしたらいいのかわからなそうな声で返事をした。
ちょっとの間が空いて『明日、だね?』と渕が訊ねてくる。
「うん」
『緊張、してる?』
「すこしな」と俺は情けなく笑みを浮かべながら答えた。
『そ、そう、だよね』と渕が云った。『え、っと。わたし人前でなにかしたこと、あんまりないから。きっと、緊張する、よね』
「写真部って、そういうのないんだ?」
『うん。コンクールはあるけど、だれかの前で、とかはないから』と渕が云った。『だから、すごいなって、思う』
「いやいや。はじめての大会の前日とか、緊張であんまり寝れなかったよ」と俺は云った。「もう何回もでてるから、すこしはましになってきたけどさ」
『最初って、中学生のとき?』
「いや。小学六年生。なんか学年で何人か代表みたいなの選んで、大会っていうか記録会? みたいなのにださせられたんだけど。まあ緊張しまくってさ、気がついたら終わってたってくらい、正直あんまり覚えてないんだけど」
『その頃から速かったんだ?』
「まあ……かもな」と俺は声のトーンを落とした。
その頃、というより、あの頃は、と返したくなってしまったのをどうにか堪える。たしかにむかしは足が速かった。小学生のちっぽけな自分が自慢できるもののひとつになっていたくらいには。
でも、いまは違う。中学を経て、そこら中に俺以上に足の速いやつがいることを思い知ってる。
多分俺は、渕に保険をかけておきたいんだと思う。
自己保身。
明日、結果がでなかったとき、失望されないように。
渕が大会を観に行きたいと云ってきたとき、俺はあまり深く考えずに了承した。陸上に詳しくない渕が見てて面白いだろうかと、そっちの方に意識が向いていた。けれど、日が経つごとに、自分のことへ意識が向いていくようになった。
『んじゃあ明日は渕さんにいいところ見せねぇーとなぁ。オレが!』
ふと、翔陽の言葉が蘇る。
ほんとはそれくらい云えたらいいんだけど、いまのように弱気なままでいたら、きっと良い結果はついてこない。
だから。
「渕」
『ん?』
「頑張るよ、明日」
虚勢じゃなく、いまの自分が云える精一杯の前向きな言葉を、渕に伝えた。
『うん。頑張ってね』
その優しい声音を聞いたとき、じんわりと、胸にあたたかいなにかが広がっていく。自然と鼻から息が抜けていき、強張っていた肩が徐々に落ちていった。
「じゃあ、そろそろ寝るわ。ごめん、突然電話して」
『ううん、だいじょうぶ。……おやすみ』
「おやすみ」
耳からスマホを離し、俺は渕が通話を切るのを待った。
だけど画面がなかなか戻らなくて、思わず「……渕?」とふたたび声をかけたら『あ、ご、ごめん……切るね』となんだか名残惜しそうに云い残して通話を切る。いや、もうなんか、なんか、なぁ……電話してよかったよ。色んな意味で。
ふわぁっ、とあくびが漏れる。俺はスマホを充電ケーブルに繋ぎ、部屋の明かりを消して横になった。明日、どうなるだろう。不安よりも愉しみな気持ちを抱きつつ、意識が次第に薄れていった。
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