Scene6-2





「ありがとうございましたー」


 喫茶店をでると、空がほんのりと橙に変わりはじめていた。俺は肩のあたりをほぐすように両腕を上げる。渕とただ喋っていただけなのに、身体が固くなってしまっていて、やっぱりすこし緊張してたんだな、と俺は思った。


「チーズケーキ、美味かったな」

「うん。今度は季節のタルトも、食べてみたい」

「また、次な」

「うん、また、今度」と渕が笑みを浮かべながら云った。


 俺が駅の方向へ足を進めると、渕がすっと横についてくる。大通りから外れているせいか、車の数もすくなく、歩いている人もそんなに多くない。の、だけれども念のために俺は車道側へ位置を入れ替えた。


「九月、もうすぐ、終わるね」


 無理して沈黙を埋めようとしているような感じでもなく、ただ思ったことをそのまま口にしたみたいに、渕がさらっとつぶやいた。


「だなぁ」と俺は答えた。「そういえば、あとちょっとで大会あるんだよ、陸上の」

「えっ、そう、なんだ」

「そ。月末に。土日含めて三日間」と俺は云った。「それで大会終わるまでしばらく休みなし。まぁ、前日とかは軽い感じで終わるんだけどさ」

「え、じゃあ、よかったのかな、わたしと……その」

「ああ、いや。むしろよかったよ」と俺は渕のことを察して付け加えた。「俺、休みの日って、家でダラダラしてることがほとんどだから、その、そうじゃなくなって、よかった、というか」


 休みの日にひとりでゆっくりしていたい人なのかと渕が思っていそうだったので、俺はあえて自分のことを話した。もしくは、大会前の貴重な休日に遊びに行ってていいのかな、とかだろうか。もう、ぜんぜん、問題ない。平日の休みなんてほとんどあってないようなものだし、上を目指しているような意識の高い選手でもないのだ。


「……部活が休みの日は、ほぼ空いてるから。また、誘う、かも」


 恥ずかしさでまわりくどい云い方になりそうだったので、俺は伝えたかったことを口にすると、気まずい沈黙が訪れる。


 足音と胸の鼓動が同期する。照れ隠しに「いや、ほんと、たまにだけど」と付け加えて云えるような雰囲気でもなく、俺は渕の方をなぜか見れなくて、前を向いたまま歩いていると、小指に、そっと、なにかが絡んだ。


「うん、また、教えて」


 まるで約束を交わすように小指が繋がる。浅くて滑り落ちてしまいそうだったので指を曲げると、渕の手の膨らみに触れた。そのまま手を包むようにして握ると、湿った手のひらの感触がした。


 どうして、渕はすこしのあいだ黙っていたのだろう。そのあと、なんで小指に触れてきたのだろう。どうして俺は、手を握ったんだろう――理屈じゃ説明できないあれこれが、頭のなかに押し寄せてきて、ふしぎとそのときはじめて、付き合ってるって、感覚がした。


 手を握っていると、自然に、歩く速度が遅くなる。お互いなぜか無言になって、鳴り止まない脈動が耳の裏側から聞こえた。距離が近くなったせいか、渕のにおいがより強く感じる。なにか話さなきゃと思っているのに、話題がまるで浮かんでこなかった。


 小道を抜けていき、大きめの通りにでて駅が近づいてくると、さすがに人の数が増えはじめる。横断歩道の信号が点滅していたので、俺は無理せず足を止めた。ここを渡ってすこし歩くと、駅はもう、すぐそこにある。


「あの、大会、って。わたし、見に行っちゃ、ダメ?」


 信号待ちをしていると、渕が訊ねてきたので、俺はすこし考えてから「ダメじゃないけど……見てても、面白くないかもしれないぞ?」と答えた。


「だいじょうぶ」

「それに暑いぞ?」

「だいじょうぶ」

「だいじょうぶか」と俺は口調を真似しながら答えた。

「土日のどっち、稲田くんは走るの?」

「あーと。どっちもだけど、土曜のほうが走る、かな」

「じゃあ、そっち、見に行く」

「ん。わかった。場所、あとで送っとく。ちなみにそんな遠くないから」


 信号が青に切り替わり、俺たちはふたたび歩きはじめた。なぜかよくわからないが、渕から大会を見に行きたいという頑なな意志を話していて感じた。普段はふわっとした、なんというかこう、当たりの柔らかな話し方をしていたと思うんだけども、ちょっとだけ渕の頑固っぽい一面が垣間見えたというか。


 駅が間近に迫ってくると、同じ制服を着た人の姿がちらほらと見えた。それを意識してなのか、渕の手の力が僅かに緩むと、どちらがともなく手を離す。湿った手のひらが外気に触れ、なんだかちょっとだけその涼しさに寂しさを覚えた。


 改札を通り抜け、渕が俺とは異なる路線へ足を向ける。


「それじゃあ、またね」

「おう、また」


 自分が乗る路線へ足を進める。その途中、手に残った余韻が尾を引いてついうしろを振り返ってしまうと、渕がこちらを見ている姿が目に入った。えっ、と驚いたような反応をしてから、軽く周囲を確認して、恥ずかしそうに小さく手を振ってくる。


「マジかよ……」


 ほんとうに、あるんだな、こんなこと。と俺も驚きながら、ささやかに手を振り返す。渕の姿が見えなくなると、俺は階段を上がっていき、電光掲示板で次の電車がいつ来るのかを確認した。残念ながらいまさっき出発してしまったようで、俺は歩きながら空いているところへ移動する。


 ホームを歩いていると、ふしぎと、胸が軽かった。


 ずっと気を張っていたから、一人になってすこし気が抜けたせいだろうか、それとも好きじゃないのに付き合った、その罪悪感がちょっとだけ薄れたからだろうか。


 どっちもかもな、と俺は自身の気持ちに正直に向き合う。まだ付き合うことに慣れていないせいか、気疲れしてしまう自分と、渕と距離を縮めるごとに胸に抱いた罪悪感が薄れていったような、そんな気がして。


 渕と繋いでいた手を、ぼんやりと見つめる。


 好きじゃないのに付き合った、その事実は覆せない。けれど――と胸に微かに芽生えた恋の火種が燃えるのを感じて、俺は手に力をこめた。



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