Scene6-1

 


      6



 帰りのHRになると、なんだか身体がソワソワとしはじめる。テストが直前まで迫ったときのような緊張が腹の底から上がってきて、若い担任が文化祭のことについてなにやら説明しているが、内容がまるで頭に入ってこない。


 もう一度時計を見てから、渕へ目を移す。

 きょうの渕は、いつもとどこか違って見えた。


 普段はもっさりとした髪がしっとりと抑えつけられていて、おまけにちょっと艶がある。まじまじと見たわけではないのではっきりとはわからないが、たぶんうっすらと化粧もしているっぽい。


 失礼かもしれないが、ああ、渕でもそういうことをするんだ、と俺は思った。いや実際に、しているところを見たことがないから、そういうことをしない子なのかも、と。


 まあそういう俺も、普段から整えているほうではないので人のことは云えないのだが。慣れていないので恥ずかしさはあったけれど、きょうは久しぶりに滅多につけないワックスを使って、多少は髪を整えてきている。


 お互いに『きょう』を、意識しているんだなと思った。


 担任が締めの挨拶をして、クラスメイトが一斉に動きだす。カバンを持ってダルそうに教室をでていく人、友達のところへ向かう人、担任になにかを訊きにいく人――その喧騒のなか「帰るぞー」と翔陽がやってきて、俺はカバンを持ち上げた。


「……じゃあ、後で」

「あ、うん。また……」


 ぺこっと、渕が軽く頭を下げる。俺と同じく、やや緊張しているのだろうか、表情はいつもより固かった。


 廊下にでると、他のクラスもちょうど終わったのか、人がどんどん増えていく。


「なーに緊張してんだよ」と翔陽が肩をぶつけてきた。

「うるせ」と俺は肩を跳ね返した。「……こんな気分なんだな。いっしょに帰るときって」

「でもスタートのときより緊張しねぇだろ? フライングしても失格にならねぇんだし」

 俺は鼻で息を吐いた。「そうかもな」

「だろ?」と翔陽がにこやかにほほえみながら云った。


 きょうの放課後に渕といっしょに帰ることを俺は翔陽にだけ伝えた。だからだろうか、翔陽なりに俺のことを気遣ってくれているんだろう。陸上の大会のときですら、チームメイトなのに緊張をほぐしてくれることをあまり云わないやつなので、らしくないことをしているのがちょっと面白く、それが逆に程よく力が抜けた。


 翔陽と話しながら階段を降りていき、昇降口で靴を履き替える。外のようすを確認すると、暑さはいまだ相変わらずで、開け放たれた正面玄関からぬるい温風が吹いてくる。日差しは真夏と比べたら落ち着いたほうかもしれないが、目をふさぎたくなるような眩しさは変わっていない。


「ほんじゃ、オレはここで」

「ん、またな」

「あ、今度オレともその喫茶店行かね?」

「男同士で行くようなとこじゃねーよ」

「つれねーなぁ」

「大会、終わったらな」

「おうよ。んっじゃなー」


 っ、ちぃー……と云いつつ背負ったリュックを揺らしながら翔陽が外へでていった。その背中が遠くなるたび、なぜだかちょっとだけ心細くなっていく。


 適当なところに立っていると、行き交う人達の視線がやたらと気になって、俺はポケットからスマホをだした。


「あ、の」


 しばらくして、渕の声が聞こえると、俺は顔を上げた。


「あ、……うん」と俺はスマホをポケットに戻した。「行く?」


 こくん、と小さく渕がうなずいて、俺は正面玄関へ足を向けた。真上から降り注ぐ日光を浴びながら、横にいる渕を意識すると、じんわりと汗が滲んでくる。


 並んで歩いていると、ふんわりと柚子っぽい柑橘系の香りがした。たぶん、香水、なのかな、これは。あまり詳しくないのでよくわからないが、匂いはほんとに一瞬、ふとしたときに漂うくらいなので、あまりつけてはいないのかもしれない。


 歩くペースを渕に合わせるようにしながら進んでいると、前を行く同学年の顔だけ見たことあるような女子二人が、確認するようにこちらを何度か振り返った。


 その視線が、遠くからでも感じる『あの二人、付き合ってるんだ』という空気が、俺にとってはあまり心地の良いものではなかった。好きでもないのに付き合った、俺の胸の内を見透かしているんじゃないか、とか。まわりから見て、俺たちはどう思われているだろう、とか。外側から見たら、ちゃんと恋人同士として映っているのか、とか――わかるはずがないのに、どこかマイナスな方向に考えが向きそうになってしまう。


 水谷と付き合っていたら、こんなことは考えなかったかもしれない。


 でも、と俺は目線を移す。

 となりにいるのは、渕だ。


 すこし背が低くて、この暑いのに、ブラウスを第一ボタンまで締め、リボンも緩めておらず、緊張しているのか、リュックの肩紐をぎゅっと握っている。大人しそうだけど奥手ではなく、こっちが恥ずかしくなるくらい意外とグイグイきたりする――俺の彼女。


 たぶん何度も、似たようなことを繰り返し思うんだろう。でも、その度に、同じことに気づくと思う。かもしれなかったことを考えて、なにになるんだ、って。


「暑くないか?」


 えっ、と渕がこちらを見上げる。どうやらいままで見られていたことに気がついていなかったらしく、目と目が合うと、急に慌ててすこし距離をとった。


「えっ、あ、え、だいじょうぶ、だけど、なん……で?」

「いや、いつもリボンとか第一ボタンもきっちり締めてるからさ」と俺は云った。「学校終わったし、ちょっとくらい、緩めてもいいんじゃないのかな、って」

「あ、うん……そう、だね」と渕が云った。「じゃあ、そう、してみよう、かな」


 歩きながら、渕が襟のそばの髪をうしろへ流し、片方の襟の奥をいじる。ある程度の長さまでリボンを緩めると、第一ボタンを外し、顎を引きながら、バランスを整えるようにリボンを触りはじめた。


「どう?」


 急に上目遣いで訊いてきたので、一瞬だけ胸が跳ね上がった。どうって……まだウブな心を持ち合わせている俺にとってはじろじろ見てもいいものなのかと若干の躊躇もあったが、その下心を悟られたくもなかったので、俺は平静を装いながら確認する。


「うん」


 俺は納得の相槌を打つ。いつもはちょっと垢抜けてない感じがあったけれど、第一ボタンとリボンを緩めただけで、雰囲気がそこそこ変わった。やりすぎてないくらいが程よく制服を着こなしている感じもあり、俺はこのくらいが好みだ。


「ちょっとだけ、涼しいね」

「だろ? 明日からそうすれば?」

「むむむ無理、絶対、無理」と渕が慌てて云った。「ボコボコにされる、かも」

「だれにだよ。どうなってんだうちらの学校の治安。ヤバいだろ、それ」と俺は笑いながら云った。

「そうだね」と渕も笑いながら答えた。「でも、やっぱりちょっと、ね……こうするのは、稲田くんといるとき、だけ」

「あーまぁ……渕が、そうしたいなら」

「うん」


 それから、喫茶店に着くまでのあいだに話が途切れることはなかった。最初は重たく感じた足も、途中からあまり気にならなくなり、軽やかに動くようになっていった。

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