Scene4-2




 がくん、と姿勢が大きく傾き、俺は慌てて体勢を立て直す。やばいやばいガチで寝てた……動揺して動悸がしていたけれど、そんな俺のことなんて気にも留めていないようすで、白髪頭の老齢の世界史の先生が黒板の前で気持ちよさげに喋りまくっている。


 俺は壁にかかっている時計を見た。もう間もなく授業が終わる。周囲のようすをうかがうと、うつらうつらとしていまにも夢のなかへ旅立ちそうな人や、堂々と机に突っ伏して寝てる人などが見受けられた。


 その流れで、となりにいた渕のようすをチラッとうかがうと、右手にシャーペンを握ったまま、まるで魂が抜け落ちたみたいに俯いていた。……たぶん、寝てる、よな、これは。普段は真面目に授業を聞いている渕でも、この授業だけはさすがに耐えられなかったらしい。


 救いのチャイムが鳴り響くと、先生が話を止め「じゃあきょうは、ここまでにして」と締めを促した。学級委員が挨拶をし、クラスメイトがそれぞれつづく。


「ふ、ぅあ……」


 俺はあくびをして、身体をほぐすように伸びをした。肘をついた変な姿勢で寝てしまっていたせいか、首と肩が痛い。


 板書をほとんどせずにマシンガントークを繰り広げる世界史の先生はきょうも相変わらず一人で喋り倒していた。まあ宿題もださず、寝ても怒らず、問題を振ってだれかを指名したりすることもないので楽と云えば楽なのだが、ぶっ通しでただ話を聞かされるだけなのも辛いものがある。


 昼休みになり、クラスメイトが各々好きなように動きだす。机の上の物をしまっていたら「うーっす」とおでこを赤くさせた翔陽がやってきた。


「寝てたな」

「当たり前じゃん。てかあれもはやお経だろ。なに云ってるかさっぱりわかんねぇもん」と翔陽が云った。「むしろ一成は寝てねえの?」

「いや? 寝たけど?」

「寝てんじゃねえか」

「おまえみたいに堂々と寝てねえよ」

「バカだなーおまえ。怒られねぇんだし寝れるときに堂々と寝たほうがいいに決まってんだろ。なぁ渕さん?」

「えっ」


 突然のキラーパスに虚をつかれたのか、渕がちょっと驚いたように声を上げた。


「え、え、っとその」と渕が顔をキョロキョロしながら云った。「そう、かも、しれません」

「渕」

「は、はい」

「こいつには遠慮せず、思ったことを正直に云っていい。うるさい黙れ話しかけんなって云ってもいいんだ」

「ひどくない? ねえ、ひどくない?」と翔陽がシャツの袖を引っ張ってきた。

「え、ええ、っと」と渕がちょっとだけ笑いながら云った。「おでこ、赤いですね?」

 翔陽がおでこを触りながら云った。「えっ、マジ、そんな?」

「はい。けっこう、赤い、です」と渕が笑うのを我慢しているような声で云った。「ね?」


 ふんわりとしたやわらかな笑みを浮かべながら渕が訊ねてくると、胸がわずかにどくんと跳ねた。不意打ちの笑顔にすこしばかり動揺してしまって「あ、ああ、うん」と頭に浮かんだことを答えることしかできなかった。


「あっ」


 渕が時計へ顔を向ける。ノートなどを机のなかへ片していき、カバンから弁当袋を取りだすと、すこし急いだようすで席を立った。


「あ。渕。席、使ってもいいか?」

「うん。いいよ」と渕が振り返ってほほえんだ。


 渕が弁当袋を持ちながら移動していく。そのうしろ姿を見ていると、翔陽が「おまえまだ渕さんにそれ云ってんのな」と云いながら渕の席に坐った。


「きょうはなんか、なんとなくな」


 この席になってから随分と時間が経ち、もう分かりきっていることだから最近は許可も取らなくなっていたんだが、授業中に寝ていたときにふとむかしの事が蘇ってきたので、きょうはついつい口が動いてしまった。


 カバンから弁当を取りだして机におく。翔陽はスマホを弁当のそばにおき、だれかとやりとりをしているようだった。


 おそらく、彼女の岬 舞衣(みさき まい)だろう。


 翔陽と岬は小学生からの幼馴染で、岬とは中学で同じ陸上部だったので俺もそれなりに親しい間柄だった。いまは別の高校に通っているので、記録会や大会などで会ったときにすこし話をしたりする程度になってしまったけれど。


 彼女ができてから翔陽の立場になってみると、同じ学校に彼女がいないというのは、まあ、不安になるだろう。それはたぶん、岬も同じで。こうして時間が空いたときによく連絡を取り合っているが、お互いに、会えない時間をすこしでも埋めていたいのかもしれないな、と思った。


 彼女ができる前は、その姿にちょっとだけ憧れがあった。暇さえあれば連絡を取り合っているところが、なんというか、恋人がいる感じがあって。スマホをいじっているやつなんて周りにたくさんいるけれど、動画を見たりとか、SNSを見るとか、そういう人とはまた違う雰囲気があったというか。


「ちょっとトイレ行ってくる」

「行ってらー」


 食べ終わった弁当をカバンにしまって俺は席を立った。エアコンの効いた教室から廊下へでると、むわっとした暑さが肌にまとわりついてくる。冷房の効いた教室で涼んでいるのか、廊下はほとんど人が歩いていなくて足音がよく響いた。開け放たれた窓からは心地いい風が入ってきて、エアコンで冷えた身体を戻してくれる。


 トイレが見えてきて、俺はすこしばかり早足になると、女子側の戸が急に開いた。そこからでてきた人を見た瞬間、大きく胸が跳ねる。


 前髪だけを残したポニーテール、ぱっちりとした大きな目と、ふっくらとした唇に、日頃から気を使っているのがわかるような整った肌。背は女子のなかでは高いほうで、パッと見ただけでも目線が彼女へいってしまうような存在感がある。


「よっ、す……」

「うん」


 目が合い、微妙な気まずさがほんの一瞬だけ流れた。水谷(みずたに)のことを特に気にしていないように振る舞いながら、俺は男子トイレの戸を開ける。


「はぁぁ〜〜……」


 トイレの中程で足が止まり、大きな溜息が溢れてしまった。フラれてから、一度も水谷と話したりしていなかったので、あの独特な『フラれた側とフった側』にしかない空気を味わうのは初だった。


 告白に失敗したときに、こうなるかもしれないことは想像していた。もちろん怖かった。もしもフラれたら、水谷とこれまでのように接することができなくなることが。でも、それでもいいと思っていた。そう覚悟を決めて告白をしたから。


『――ごめん。私、いま好きな人いるから』


 告白したときのことが急にフラッシュバックする。過去の苦い思い出までもが同時に蘇りそうになってきて、俺は気持ちを落ち着かせるために息を吸うと、なぜだか急に、さっき見た渕の不意打ちの笑顔が思い浮かんだ。


 ふしぎと、ざわついた心が穏やかになっていく。そうだよ。俺はいま、渕と付き合っているんだ。それに、水谷への未練なんてなにひとつない。水谷はもう、他の人と付き合っているんだから。

 


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