「婚約破棄ですか?わかりました!」と答えたら本当に婚約破棄された件

仲室日月奈

本編

 本日もノヴァの婚約者は麗しい。

 夜空と見紛う艶やかな黒髪から覗く瞳は、青みがかった紫色だ。神秘的な色合いは何度見ても飽きることはない。すらりとした長身は適度に鍛え上げられており、剣術の成績もいいと聞く。紅茶を飲む仕草までも優雅だ。どの瞬間を切り取っても華がある。彼の前では、どんな高貴な花も見劣りするに違いない。


 眉目秀麗の彼――アストリッドはブライト伯爵家の次男で、ノヴァの婚約者だ。


 婚約者になったのは社交界デビュー前年のお茶会なので、かれこれ二年の付き合いになる。年の離れた兄の代わりに弟妹の世話をしているせいか、彼は驚くほど面倒見がいい。

 一人っ子で伸び伸びと育ったノヴァの世話も慣れたものだ。

 段差で蹴躓きそうになったときはすっと体を支えてくれ、事なきを得た。アストリッドの顔にうっとりしてダンスのステップを踏み間違えたときだって、とっさにターンで誤魔化してくれた。一緒に観覧したオペラのボックス席で、従者が引くくらい号泣したときはハンカチを貸してくれた。

 淑女が人前でみっともなく泣くなんて、とんだ醜態だ。しかし、彼は「俺の前で泣くのを我慢しなくていい。泣き止むまで、そばにいるから」と声をかけてくれた。

 その言葉で、余計に涙があふれた。

 ノヴァがアストリッドを異性として意識するのは時間の問題だった。

 けれども、好きという気持ちは右肩上がりに膨れ上がるのに、彼の態度は出会った頃から変わらなかった。つい最近だって、庭園の薔薇に目を奪われてドレスの裾を踏んでしまったときも「大丈夫?」と自然な動きで腰と片手を支えられた。

 ダンス以外で体が密着している状況にドキドキしたが、対するアストリッドは平然としていた。そのときに悟った。彼の中でノヴァは手を焼く婚約者であって、恋する相手ではないのだと。

 とはいえ、いずれアストリッドとは結婚して夫婦になる。

 今は特別な感情を抱いてもらえなくても、明日はわからない。幸いにも時間はたっぷりある。まだ諦める必要はない。

 恋が芽生える瞬間なんて誰にも予想できないのだから。


「今月の……」

「はい。婚約を白紙になさるお話ですね!」

「話は最後まで聞くように! 舞踏会のドレスの色について確認するだけだ」


 眉間に皺を寄せた顔も絵になるのだから、美しすぎるのも罪深いと思う。

 この国で、黒は高貴な色だ。特に彼ほど見事な黒髪は貴重だ。ありふれた色彩の飴色の髪に緑の瞳であるノヴァとは天と地ほどの差がある。

 そんな彼がため息をつくだけで、色気がだだ漏れなのは由々しき問題ではないのか。


「……ノヴァ。俺の話、聞いてる?」

「は、はい! 聞いております!」


 しばらくジトッと疑うような視線を向けられていたが、にこにこと笑顔を続けていたら、やがてアストリッドが折れてくれた。いつもの光景だ。


 ◆◆◆


 ある日のうららかな昼下がり。

 王立アカデミー裏庭の待ち合わせ場所に向かうと、アストリッドは本を読んでいた。だがノヴァの姿を認めると、ぱたんと本を閉じてしまう。

 木洩れ日の下、芝生の上で寛いでいた婚約者は優しく手招きした。社交的な笑みではなく、親しい者に向けるくだけた笑みとともに。

 これで胸が高鳴らない女性がいるだろうか。答えは否である。

 アストリッドは自分の横にハンカチを広げ、ノヴァに座るように促す。相変わらず紳士的だ。彼の横に腰を下ろし、ノヴァは自分の愛しい婚約者を見つめた。


「こ……」

「婚約破棄ですね!? さぁどうぞ、婚約破棄される心構えはばっちりです!」

「そんな心構えは不要だ。今すぐ捨ててきなさい。そもそも、こ、しか言っていないぞ」


 早口の抗議に、ノヴァはこてんと首を傾げた。


「あら、違いまして?」

「まったくもって違う……っ」

「まぁ。だって最近の流行りではありませんか」

「……俺たちまでする必要はないだろう」

「そうでしょうか? 愛を確かめ合うのにぴったりだと、もっぱらの噂ですわ」


 貴族の婚姻は政略結婚が主だ。

 身分差を超えた恋愛結婚は一見幸せそうだが、苦難も多く、結婚後に後悔する例も珍しくないと聞く。いわゆる、現実と理想の違いに苦しめられるパターンだ。生まれ育った環境が違えば、おのずと貴族作法の教育や価値観も変わってくる。

 大恋愛の末に結ばれた男女が童話のようなハッピーエンドを迎えるのは稀だ。


(貴族の義務からは逃れられない。……だからこそ、学生であるうちにロマンスの一つぐらい経験してみたい、と思うのは無理からぬことなのでしょう)


 学園内は貴族の子供が社交を学ぶ場であり、言わば練習の舞台だ。少しぐらい羽目を外しても大抵は見逃される。

 だからこそ、婚約者から本当はどう思われているのかを聞き出すのに、婚約破棄は都合のよいイベントなのである。淡々とした日々に飽きてきた学生にとって、ドキドキする事件は大変魅力的だ。

 もちろん、本当に婚約破棄するわけではない。

 貴族の婚姻は当主に決定権がある。当人がいくら騒いでも当主が首を横に振らない限り、婚約が白紙になることはあり得ない。そこで婚約破棄の一芝居をするのだ。


 きっかけは一人の公爵令嬢だった。


 婚約者のすげない態度に堪忍袋の緒が切れた令嬢が、公衆の面前で「婚約を破棄させてくださいませ」と静かに告げた。

 いっそ感情をあらわに罵られたほうがマシだっただろう。だが淑女らしい笑みは残したまま絶対零度の冷たい瞳を向けられて、相手の男はたじろいだ。

 緊迫した空気に周囲にいた生徒も凍りついた。

 それもそのはず、公爵令嬢の婚約者は、対立派閥の筆頭伯爵家の嫡男だったからだ。

 もし婚約が破棄されれば、名門公爵家と伯爵家の繋がりは露となって消える。彼らの婚約でまとまっていた派閥にヒビを入れるのは必然だ。描いていた派閥の勢力図が変わるのは容易に想像がつく。

 両家ともに政治の中枢を担う貴族だ。婚約破棄による影響は計り知れない。

 常に聖女のような穏やかな笑みを湛えている公爵令嬢は、生徒の模範とも言える完璧な淑女だった。その彼女が婚約破棄を申し込むなんて、誰が想像できただろうか。

 ピンと糸を張った緊張感が漂う中、ふと相手の男が片膝をついた。視線は自分の婚約者に注いだまま、これまでの非を謝罪した。そして、社交的な彼が婚約者にだけ無愛想な態度を取っていた理由を明かした。


 特別に想う相手だからこそ、緊張して言葉が出なかったのだ、と。


 真摯な眼差しが、この言葉が偽りのない本心なのだと物語っていた。

 長いようで短い時間、そこに居合わせた者たちは固唾を呑んでその場を見守っていたが、やがて公爵令嬢は謝罪を受け入れた。それから彼女の「小説のワンシーンになぞらえた即興劇」というネタばらしで皆が胸を撫で下ろした。

 だが、似たような珍事件は続く。

 学生時代の思い出作りも兼ね、卒業間近の子爵令嬢が同じ台詞を口にしたのだ。そこで二人は愛を確かめ合い、幸せそうに手を取り合って学び舎を巣立っていった。

 件の小説は飛ぶように売れた。

 すれ違いによる勘違いで婚約破棄を決意した令嬢と婚約者の物語は、お互いの心の内を知るまでの緻密な描写と物語の伏線も相まって、世の女性の心をつかんだ。

 婚約者の本音を探ろうと令嬢たちの心に火がつき、「なんちゃって婚約破棄」の光景があちこちで見られるようになった。最初は乗り気じゃなかった令嬢でさえ、取り巻きの令嬢が嬉しそうに婚約者と気持ちを通わせたことを知ると、重い腰を上げた。

 かくして高位貴族さえ取り組むようになった婚約破棄の真似事は、あっという間にアカデミー内に広まった。

 とはいえ、中には実際に婚約を破棄された人がいるとか、いないとか。逆に令息から「他に好きな人ができたんだ……」と話が切り出されることもあるらしい。どんな展開が来るのか、いざ自分が当事者になってみないとわからないスリルに満ちている。


(婚約破棄は確かにリスクがありますわ。ですが、アストリッド様の本音を聞く絶好の機会ですもの……! なんとしてでも聞きたいと思うのが乙女心というものでしょう!)


 なにせノヴァの婚約者は愛の言葉をひとつも囁いてくれないのだ。

 お土産に好物のお菓子を必ず持ってきてくれるし、とりとめない話も嫌な顔ひとつ見せず聞いてくれるので、甘やかされている自覚はある。

 だがしかし、ノヴァは恋人らしいドキドキする関係を求めているのだ。

 アストリッドはいつも紳士だ。常に気配りができていて、ノヴァが言うより先に行動してくれる。彼がそばにいる安心感は大きく、もはや恋人というよりも兄のようだ。

 とはいえ、ノヴァも花も恥じらう十六歳。

 妹みたいな扱いで満足できる年齢ではない。慈しんでくれるのはありがたいが、女として見られないのは少々複雑なのである。


 ◆◆◆


 今夜はヘルマン伯爵家での晩餐会だ。

 料理長が腕を振るったメニューの数々はどれも見事だった。鴨肉のローストの周囲には、色鮮やかな野菜と秘伝のソースが添えられている。柔らかいお肉とソースが口の中で合わさり、噛むたびに幸せに浸れた。

 デザートのムースも絶品だった。チョコムースとオレンジムースが二層になった断片は宝石のように美しく、甘酸っぱい木苺と交互に食べて楽しんだ。

 食事が終わった後、ノヴァはアストリッドに誘われて応接間に向かった。馬車の迎えが来るまで世間話をするのかと思っていたが、なぜか正面に座る彼の表情が硬い。


「ノヴァ。今日は大事な話がある。心して聞いてほしい」

「婚約破棄ですか? わかりました!」


 いつものように食い気味で言うと、アストリッドは無言で一枚の羊皮紙を差し出した。


「ええと、アストリッド様。……こちらは?」

「お望みの書類だ」


 最初は何を言われたのか、わからなかった。

 しかし、いつになく真剣な面持ちに、嫌な予感がする。

 急いで書類に目を通す。そして驚愕した。


「……本日をもって両家の婚約を解消する……?」

「おめでとう。俺と君は婚約者でなくなる。お互い晴れて自由の身だ。君を幸せにする役目は俺ではなくなったが、君の幸せを祈っている」


 事務的に言われて、ノヴァは頭が真っ白になった。


「え……嘘、ですよね……?」

「嘘だと思うか?」

「…………」


 アストリッドはつまらない嘘をつく性格ではない。そう、これは冗談ではないのだ。


(ということは……つまり…………)


 自分は愛想を尽かされたのだ。何度も婚約者の心を弄んできたから。

 他の人が大丈夫でも自分が大丈夫な保証はない。そのことに気づかず、ずっと彼の心を傷つけてきた。いくら温厚な彼でも何度も傷つけられて平気なわけがない。


(ああ……。もう、手遅れなのですね。わたくしは……なんてバカなことをしていたのでしょうか)


 署名欄は一人の空欄を除き、すべて埋められている。

 その事実から推察されることはひとつ。


「……ここにサインすればよろしいのですか?」

「ああ。お父上のサインはすでにいただいている。これを教会に提出すれば、俺たちはただの他人に戻れる」

「…………そう、ですか」


 放心している間にも優秀な従者が羽根ペンを差し出してくる。

 もう後には引けない。ノヴァはペン軸をインク壺に浸し、震える手で署名する。後悔が押し寄せ、少々文字がいびつになってしまった。彼は書類を無造作に受け取ると、さっと立ち上がった。


「アストリッド様……。あの、その……」

「見送りは不要だ。俺と君は赤の他人なのだから」

「…………」


 足音が遠のき、世界が一気に色褪せていく。

 灰色に染められた視界に愛する人はもういない。自分は取り返しのつかないことをしてしまったのだ。


「……ううっ……」


 周りの目なんて気にしていられない。ノヴァは子供のように感情のままに泣きじゃくった。胸が苦しい。悲しい。切ない。負の感情ばかり無限に湧き出す。

 失ってから過ちに気づいたって遅いのに、ただ泣くことしかできなかった。


「そんなに泣くぐらいなら、誰かを試すような真似はしないことだ」

「……お、お父様……」


 いつの間にか、そばにいた父親が困ったように笑う。父親は膝を折り、ぺたりと床に座り込む娘と視線を合わせた。

 ノヴァと同じ緑の瞳に、泣き腫らした自分の顔が映し出される。

 我ながらひどい顔だ。


「彼はよく耐えたと思うよ。女性にはわからないかもしれないが、男心は繊細なんだ」

「お父様。わ……わたくしは愚かでした。婚約者なのに、たくさんアストリッド様を苦しめる真似をしました。婚約者失格です。き、嫌われて当然です……! ただ好きだと言ってもらいたかっただけなのに。回りくどい真似をせずに、素直に言えばよかった……!」


 涙は止めどなくあふれてくる。

 ぽつりぽつり、と大粒の雫が絨毯に吸い込まれていく。

 両手で顔を覆って嘆いていると、頭を撫でていた手が不意に離れた。


「――――と娘は申しているが、どうするね?」


 第三者に向けた言葉に、ノヴァは反射的に顔を上げる。

 父親の視線はドアのほうに向けられていた。誰もいないはずの空間に向けられた問いに答えたのは、ノヴァのよく知る声だった。


「伯爵も人が悪いですね。答えなんて決まっているじゃないですか」

「……アストリッド様……!?」

「彼女の婚約者の座を誰かに渡すつもりはありません」


 もう屋敷を後にしたはずの彼がドアのところに立っていて、ノヴァは目を丸くした。

 見間違いかと目を擦るが、幻は消えない。

 目を瞬くことしかできないでいると、父親がわざとらしく咳払いをした。


「あー……こほん。先ほどノヴァがサインした書類だが、二枚目は確認したかな?」

「え? 二枚目……ですか?」


 アストリッドが持ち去ったはずの書類を父親から受け取る。指で擦ると、一枚目の紙の下に重なっていた紙が一枚出てきた。書かれていたのはたった一文だけ。


 “これは偽の婚約解消に関する書類のため、効力は一切ないものとする。”


「っ……!??」

「その様子だと気づかなかったようだね。まぁ、そうなるように仕組んだわけだが」

「え? え?? それでは、わたくしたちの婚約は……」

「もちろん、続行だ。その一文にあるように、そもそも正式な書類ではない。受理されるわけがないのだから何を書こうが無効だ」


 つまり、家族ぐるみで騙されたというわけだ。

 だが胸に広がるのは安堵だった。さすがに偽の書類を整えるのは少々やり過ぎだとは思うが、元はといえばノヴァの悪ふざけが原因だ。誰かを非難する資格なんてない。


「…………よかった」


 思わずもれたつぶやきに、父親とアストリッドが目配せをする。


「ヘルマン伯爵。今後同じことを繰り返さないためにも、俺はノヴァとよく話し合う必要があると思います。彼女の私室をお借りしてもよろしいでしょうか?」

「許可しよう。しっかりと話し合いなさい」

「ご配慮ありがとうございます。……ノヴァ、行くよ」


 アストリッドが差し出した手につかまり、のろのろと起き上がる。

 重い足取りで彼の後ろに続く。自室に到着したところで、彼はノヴァをメイドに託し、寝る準備をさせた。メイドにされるがまま、目元を冷たいタオルで冷やされる。その後、軽く湯浴みを済ませ、胸元にフリルがあしらわれたネグリジェに袖を通す。その上にショールを羽織れば完成だ。

 猫足の二人がけソファの端に腰かけて待っていると、応接間までアストリッドを呼びに行っていたメイドが戻ってきた。手際よく茶器を用意し、部屋に残っていたメイドたちも全員退室した。

 沈黙が下りた室内で、口火を切ったのは横に座るアストリッドだった。


「ノヴァ。まずは謝罪させてほしい。……君に反省させるためとはいえ、ヘルマン伯爵の計画に乗ったのは俺だ。すまなかった」

「……いいえ。悪いのはわたくしです! アストリッド様が謝る必要はございません」

「しかし、君を傷つけた」

「すべては自分がまいた種です。あなたに傷つけられたとは思っていません。どうかお顔を上げてください」


 懇願するように言うと、アストリッドはようやくノヴァと視線を合わせた。


「……最初は愛想を尽かされたのだと思いました。他の素敵な女性がアストリッド様を幸せにしてくれるなら、わたくしは祝福しなければいけない。言葉だけなら、どうにか取り繕えたでしょう。でも、心から祝福することは無理です。……だって、アストリッド様を恋い慕う気持ちはずっとなくならないでしょうから」


 彼以外に恋い焦がれる存在が現れるとは思えない。

 同時に思う。もっと自信を持っていれば、こんなに不安に駆られることはなかったのではないかと。今回のことだってそうだ。彼の気持ちを知りたいと強く願ってしまったのは、自分に自信がないからだ。

 だがその不安を払拭するように、アストリッドは即座に否定した。


「心配しなくていい。俺が君以外の女性を選ぶ、そんなことは天地がひっくり返ってもあり得ない」

「え……」

「俺と婚約解消してしまったら、君は違う男と結婚するだろう? そんなの嫌に決まっている。考えただけでも頭がどうにかなりそうだ」

「そ、そうですか……」

「わかったら二度と言わないでほしい」

「……わかりました。もう二度と口にいたしません。……アストリッド様、本当にごめんなさい」


 切実な訴えに罪悪感が膨らみ、頭を下げた。

 すると子供をあやすように、ぽんぽんと大きな手のひらが頭を数回撫でる。


「ねえ、ノヴァ。散々、俺の恋心を弄んだんだ。これはお仕置きが必要だよね」

「お仕置き……ですか? そ、それはどのような……?」

「ふふ、今日ばかりは逃がさないよ。ヘルマン伯爵から許可は取ってある。今夜、君が寝るまで俺がそばにいよう。君の寝かしつけは俺の役目だ」

「ね、寝かしつけって……あの。わたくし、一人で寝られますが」

「結婚後は俺の役目だ。悪いが、今夜ばかりは誰にも譲る気はない。だから今宵は俺がノヴァの好きなところをひとつひとつ、君の耳元でずっと囁いてあげよう」

「――――っ!??」

「大丈夫。すぐに慣れるさ」


 彼の目を見ればわかる。本気だ。

 獲物を捕らえたような瞳は爛々と輝いており、視線を逸らすことさえ、許されない。


「ノヴァは俺のことが大好きだよね。いつも俺の姿を見つけたら、目を輝かせて小走りで来るんだから。可愛い君を抱きしめたくなる衝動を毎回抑えている俺の苦労がわかる? 紳士的な距離を保とうと精一杯なのに、ノヴァときたら俺の理性を試す真似ばかりするんだ」

「…………」

「婚約破棄の件だって、絶対に俺が頷かないと知っていたんだろう。どれだけ自分が愛されているか、よくわかってる。それはとてもいいことだ。だけど、たとえ遊びだとしても君と婚約破棄する真似はしたくない。この気持ち、わかってくれるよね?」

「は、はい……申し訳ありませんでした」


 素直に謝罪すると、アストリッドは優しく微笑んだ。

 ほっと気が緩んだのもつかの間、彼はとん、とノヴァの右肩を押した。

 彼の手はほとんど力が入っていなかったが、不意打ちだったため、ノヴァはソファに押し倒される格好になった。

 アストリッドの顔が近づく。彼は硬直したノヴァの髪を一房すくい上げ、指先に絡めた。


「君の赤みがかった飴色の髪が好きだ。夕焼けに照らされたノヴァは、まるで女神のようで神々しい。好奇心旺盛なエメラルドグリーンの瞳も愛くるしい。その瞳がきらきらと輝くのを見るのが好きなんだ。情に厚くて涙もろいところも含めてね」


 艶っぽい瞳に見下ろされ、喉が鳴る。

 混乱のあまり、無意識に逃げ道を探そうとドアに視線を向けると、アストリッドの腕が視界を塞ぐ。


「俺の大好きなノヴァ。君は周囲を笑顔にするのが得意だ。使用人でさえ、身内のように大切に思う君の心に触れるたび、俺の心まで浄化されていくようだ」


 まるで神を崇める賛辞だ。いくらなんでも、美化しすぎやしないだろうか。

 それに何より、初めて聞く甘い声音の破壊力が凄まじい。

 心臓がバクバクする。鼓動は大きくなり、このままでは命の危険を感じる。

 思わず両耳を手で押さえた。だが小さな抵抗は虚しく、彼の指先がノヴァの手の甲を優しくなぞる。宝箱に触れるような繊細な手つきだ。驚いたせいで耳を覆っていた手から力が抜けてしまう。

 その瞬間を逃さないと言わんばかりに、アストリッドの囁きが次の動きを封じた。


「駄目じゃないか、耳を塞いだら。俺の声が聞こえなくなるよ」

「……っ……」

「ずっとずっと一緒にいよう。長生きして二人で椅子に揺られながら孫に囲まれて、のどかな余生を過ごすんだ。――だから苦手な野菜もちゃんと食べようね」


 突如告げられた言葉にノヴァは息を呑んだ。

 これまでノヴァは貴族令嬢として恥ずかしくない振る舞いをしてきた。苦手な食材があっても、表情はちゃんと取り繕えていたはずだ。

 なのになぜ。一体いつから。どこでバレてしまったのか。

 冷や汗をかくノヴァの胸の内を見透かしたように、アストリッドは優しく言葉を継ぐ。


「長生きするためには、食生活はとても大事だと思うんだ。ヘルマン家の料理長からノヴァの食の好みは全部聞いてきたから一緒に克服しよう。見た目と味付けが変われば、きっと苦手という意識も薄れる。料理だって、味付け次第で魔法をかけられる。大丈夫。どんなときでも俺がそばにいるよ」


 語りかける口調は穏やかなのに、反論を封じる圧があった。

 心拍数が上がるのがわかる。このドキドキは恋のときめきからか、はたまた逃げられない恐怖からか。

 いろいろ限界を迎えたノヴァは抵抗するのを諦めた。

 それを了承と受け取ったのか、アストリッドはふわりとノヴァの体を横抱きにして天蓋付きベッドに横たえた。大事にされているとわかる手つきで降ろされ、柔らかい寝台がノヴァの体を包み込んだ。

 婚前の男女が一夜を共にするなんて、普通はあり得ない。

 だが家長の許しがある場合は別だ。つまり、ノヴァは逃げられない状況にいるわけで。


「あ、あの……。アストリッド様もお疲れでしょう? お休みになりますか?」

「……ん?」

「わたくしと一緒で落ち着かないということでしたら、ベッドをお使いください。わたくしはソファで寝ますので」

「…………ノヴァ。それ、本気で言ってる?」

「もちろんです。アストリッド様の睡眠が最優先ですから。寝不足はお肌の天敵。美しいアストリッド様の目元に隈を作るなんてこと、絶対に阻止せねばなりません」

「ふーん。そう。でも寝るのは君だけだよ。今日の俺はあくまで寝かしつけ役だからね。君が寝るまで、そばにいるだけだ。それ以上のことは今夜はしない」


 その言葉に嘘はなかったが、結論から言って、寝られるわけがなかった。

 耳元で好きな人の声をずっと囁かれ続け、正気を保てる人間がいるだろうか。いや、いない。この状態で夢の世界に旅立つなんて芸当、相当図太い神経を持ち合わせていない限り不可能だ。

 朝日が昇り、白旗をあげたノヴァを見て、アストリッドは満足げに微笑んだ。

 潤んだ瞳からこぼれ落ちる寸前だった涙を親指でそっと拭い取られ、あろうことか、そこに口づけられた。

 瞬間、顔中が沸騰したように熱が集まった。

 それ以降のことは正直、あまり記憶にない。彼が手配した軽食が部屋に運び込まれた際、なぜか彼の太ももの上で食べさせられた夢を見た気がする。できれば記憶違いだと思いたい。彼の体温が心地よくて、だんだんと眠気に襲われて意識が途切れたように思うが、どこまでが現実で夢だったか定かでない。

 次にノヴァが起きたときは昼過ぎだった。

 そばにいたのはメイドだけで、アストリッドはとっくに帰宅していた。メイドから渡された手紙を確認すると、端正な字でこう書かれていた。

 親愛なるノヴァへ。これからは恋人として存分に甘やすから覚悟しておいて、と。


 淑女の皆様。

 愛する婚約者に、気軽に婚約破棄なんて口に出してはいけません。

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