異世界への扉と現実的着地点
1
遠くで声が聞こえた。「あん子、あん子」と私の名前を呼んでいる。母の声だ。
はっ。
肩がビクつき、目があいた瞬間。さっきまで見ていた夢の情景が幻と消えた。残ったのは強烈な眠気と重い瞼のみ。
布団を被りなおして二度寝に入ろうとすると、「いい加減起きなさい」と母が部屋の扉を開けた。
洗面台の蛇口を捻り、手早く洗顔を済ませた。顔を洗わないことにはその後も目を開けていられなかった。
「ゆうべ夜更かししたんでしょう? また漫画でも読んでたの?」
「違うよ……ちょっと。勉強、してただけ」
勉強って、と続け、母が朝食のヨーグルトを準備してくれる。私はダイニングテーブルに着き、湯気の上がるカフェオレに口をつけた。
「試験ならこの間終わったばかりだし、受験も関係ないでしょう?」
「まぁ、そうだけど」
香ばしく焼いたトーストを出され、いただきます、と手を合わせた。
「私の場合、学校の勉強だけが勉強じゃないからさ」
「……ああ、そういうこと?」
母は納得したように息をつき、口元に笑みを浮かべた。
ゆうべはパソコンを使って、ファンタジーを主軸とした小説を書いていた。
幼いころからあらゆる空想に耽るのが好きな私は、将来の夢を作家や脚本家と決め、進路は専門学校一択だ。既に願書の提出も済ませている。なので大学受験とは無縁というわけだ。
朝食を食べ終え、歯を磨いてから、洗面台の鏡に向かって髪を整えた。おろしっぱなしの黒髪をいつも通りの三つ編みにする。
銀縁眼鏡に黒髪のおさげ。まるで昔の女学生みたいだ。
気を抜いたらまたあくびがもれた。執筆に熱が入っていたとは言え、さすがに三時半までは起きすぎだったな、と軽く後悔する。
「行ってきまーす」
黒い門扉を押して出たところで、あ、と口を開ける男子と目が合った。斜向かいに住む二つ年下の後輩、
出たな、陽キャ男子。
む、と口元を結んで気を引き締めた。
「おはようございます、あん子先輩」
真柴くんがほとんど無表情で近づいてくる。
「お、おはよう……」
明るい茶髪を感じよくセットし、整った顔立ちをしたイケメンだ。スラリと背が高く、相変わらずモテオーラが漂っている。
彼は一ヶ月少し前に引っ越してきて、三週間ほど前からなぜか私に懐いてくる稀少な人間だ。
黒髪おさげの眼鏡女子、教室では隅っこ族の、陰キャ丸出しの私とわざわざ話そうとする男子は、真柴くん以外にはいないと思う。
なので家を出る時間が重なると、自然と一緒に登校する流れになる。
なんとなく隣りが見れなくて目線を下げると、ふぁ、とまたあくびがもれた。
「あん子先輩、眠そうですね」
「……まぁ、ちょっと」
「もしかして昨日、遅くまで起きて小説書いてたんですか?」
「っへ」
「ほら、この間言ってた……猫が変身する話」
勘が良すぎるよ、この子、と思って見ていたら。既に真柴くんとはその話のやり取りを済ませていたのだ。
「書けたら読ませてくださいね」
真柴くんのふわりとした笑みが眩しくて、目がチカチカする。
「ん、わかった」
三次元の異性に慣れていなくて、私はまた目をそらした。
そういえば真柴くんとは、そんな約束をしたんだっけ。
私が書く物語の読者になってくれると彼は言ったのだ。真柴くん曰く、私が素敵だと思うことを判定してくれるらしい。
同じ価値観だといいな、とつい思ってしまう。私の考えが彼にも許容されれば、世間一般でも通用するかもしれないから。
「あん子先輩?」
高校の正門が近づいたところで、適当な相槌をしていたのがバレて、真柴くんに顔を覗き込まれる。とりわけ男子に対する免疫が薄いので、顔面が沸騰したやかんのように熱くなった。
「そっ、それじゃあ私。急ぐからっ」
サッと手だけを上げて別れの挨拶を口にすると、私は昇降口へ向かって一目散に駆け出した。
目立つ彼と並んで歩くのは、ただでさえ気が引けるのに、校内で一緒にいるところなんか誰にも見られたくない。周りから何を言われるかわからない。
陽キャの真柴くんは私の地味な見た目を笑わないし、私の夢も馬鹿にしない心の綺麗な持ち主だ。
けれど私と真柴くんが並ぶとどこかちぐはぐで釣り合いが取れないのも自覚している。
すれ違った女子の目をうっかり引いてしまうイケメンな彼と、その他大勢に分類されるモブキャラの私。
学年も違うんだし、学校で話しかけるのだけは勘弁してほしい。そう思っていた。
*
びっしりと並んだ背表紙を指でなぞりながら、私は図書室で本を探していた。
猫が変身する物語を書くうえで、登場させる魔法使いの出自についてもっと深く掘り下げようと考えていた。
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