第2話 あひる

「なんでこんなとこに」


 誰かの忘れ物だろうか。それにしてもこんなものなんで。

 疑問に思いながら手を伸ばしたときだった。


「気易く触ろうとしてんじゃねえよ」


 甲高い声が聞こえた。声変わりをしていない少年のようなその声に驚き、俺は手を止めた。

 周囲を見回す。誰もいない。

 気のせいだろうか。でもやけにはっきり聞こえたな。

 なんなんだ、と呟きながらさらに手を伸ばす……。


「だから! 触ってんじゃねえよっての!」


 はっきりと声が鼓膜を震わせた。ぎょっとして声が聞こえた先を見る。

 そこにはあのあひるがいた。

 ベンチの上にちょこんと座る、手のひらサイズのおもちゃのあひるがいた。


「お前? しゃべったの、あひ」

「あひるではない! 吾輩はすいすいだ!」


 ぴしゃりとあひるが俺の言葉を遮る。その間もあひるは動かない。だが俺にはなぜかその黄色いそれがわずかに胸を張ったように見えた。


「吾輩って、え?」

「吾輩が吾輩と言ってなにが悪い!」


 声が不機嫌そうに跳ね上がる。いや、と首を振る俺に、あひるはふんと鼻を鳴らした。


「お前、まさか下着ドロボーじゃなかろうな!」

「下着ドロ……そんなわけないだろ。大体、吾輩くんはなにも着ていないし」


 全裸のあひるから取れるものなんてあるか。

 そう思わず言い返すと、あひるは憤慨したように怒鳴った。


「誰が吾輩くんだ! 俺はすいすいだ!」

「俺? 吾輩じゃなくて?」


 反射的に切り返す。するとあひるはぐぐっと口ごもった。しばらく沈黙したのち、あひるは逆切れして叫んだ。


「そうだよ! 俺だよ! 吾輩はかっこいいから使ってただけだよーだ!」


 ・・・随分子どもっぽいあひるだ。いや、あひるに子供っぽいもないのか。


「それで下着ドロボーって?」

「あれ」


 あひるがくちばしをつん、と上げる。いや、動いていないが、つん、と上げたような気がした。そのくちばしの先を辿り、俺は振り返る。

 回り続ける洗濯機があった。


「あれ、君の?」

「なわけあるか! 俺の彼女のだ!」


 彼女?! 目を剥くと、あひるはぼそぼそと言い直した。


「まあ、俺は佐和子の自称、彼氏だけど」

「自称」


 繰り返す俺にあひるは怒りを誘われたようで声を張り上げた。


「ってかお前おかしいぞ! 俺の声聞こえちゃうとか! 何者だ! 名を名乗れ!」

「話しかけておいておかしい呼ばわり……」


 俺は苦々しくため息をついた。あひるは再びむぐぐ!と言葉を詰まらせる。


「だって、声聞こえると思わなかったんだもん。けど! 佐和子のパンツは俺が守らないとな!」

「さっきから言ってる佐和子ってのはさ、君の持ち主?」


 尋ねつつ、俺は回り続ける洗濯機の二つ隣の洗濯機の蓋を開けた。はて、どうするんだっけ、と悩んでいると、洗剤は勝手に入るから大丈夫だよ、とあひるが教えてくれる。親切なあひるだ。


「持ち主じゃない! 彼女!」

「で、君は自称彼氏と」

「うるさいな! そんなことよりなんなんだ、お前! なんで声聞こえるんだ! さっさと名を名乗れ! このもやし男! 前髪長すぎだろ! 目、悪くなるぞ! 切れ! この野郎!」

「口が悪いあひるだな。前髪は関係ないと思うけど」


 しかしあひるの言うことももっともだ。少し伸びすぎている。俺は目の上にかかる前髪をつんつんと引っ張りながら洗濯機のスイッチを操作した。

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