第九話 脅迫状は、紅く

 血のように赤い字で記された手紙は、私への脅迫状のように思えた。

 「心臓」という字に呼応するように、胸がドクンと大きく跳ねてはそこから鼓動がどんどん速まっているのがわかる。


「わりと真面目にやべーな」


 拓斗がいつになく真剣な声色で言った。

 しかし、その隣で楓はじっと落ちた手紙を見つめていた。


「楓?」


 私が楓に声をかけると、楓は床に落ちたそれを拾い上げた。

 そうして、医務室の入り口の壁にかけてあるカレンダーを見て、なにやらぶつぶつと呟いている。

 何かに気づいたのか、楓は振り向きざまに私に質問する。


「由姫、婚約者がいたことは?」

「へ!?」


 突然、婚約者のことについて聞かれて思わず声が上ずってしまった。

 もちろん、楓は「由姫」に対して婚約者の存在を聞いているのだが、由姫になる前の「私」への質問に思えて一瞬びくりとしてしまう。


「なんで、そんなこと……」

「いいから!」


 少し焦ったような声をあげる彼に、余計に驚いてしまう。

 楓は拓斗と喧嘩をするとき以外は、わりと冷静で落ち着いているから、さっきの低い声に私は少し怖くなって瞬きの回数が増えた。

 彼の質問に答えようと、自分の記憶を手繰り寄せてみる。


「婚約者は、その……いましたよ。幼い頃も含めると、5人かな」

「お前、5人もいたのか!?」


 拓斗が驚きの声をあげた。


「はい、その……全て私のわがままに付き合ってられないとお断りされましたが……」


 私が全員から断られたことを聞くと、拓斗は小さな声で「まあ、由姫だからだろうな」と言った。

 聞こえてますよ、その悪口……。

 拓斗はため息をついたあと、楓が持っている脅迫状を覗き込んで言う。


「この、下の方に書いてある『僕の涙で月は曇るだろう』ってなんだ?」


 拓斗の言葉を聞いて私も気になったので、楓の持っている脅迫状を覗き見た。

 すると、確かに先程の脅迫のような文面の下に誰かの直筆でそのように書かれていた。


「確かに、これ、何か意味があるのかしら」


 私は口元に手を当てながら言った。

 すると、楓が私の呟きの答えをくれる。


「『僕の涙で月は曇るだろう』。新聞で連載されていた尾崎紅葉の『金色夜叉』の一文だよ」

「金色夜叉?」


 楓の言葉に聞き馴染みがなかった私は、拓斗と共に首を傾げた。

 私はちらりと拓斗に目をやったが、どうやら拓斗も意味を理解できていないらしい。

 一方、楓は先程からの真剣な面持ちであったが、状況が悪化しているのかどんどん目を細めて険しい表情に変わっていく。

 そうして私と拓斗に視線を向けることなく、先程の文字について解説を始める。


「金色夜叉は男が熱海で許婚に捨てられる話だよ。赤い文字は紅葉の『紅』、新聞の切り抜きは連載された物語の示唆」

「こじつけすぎないか?」


 楓の推察に拓斗が反論した。

 しかし、楓は首を左右に振ってそれを否定する。


「いや、ストーカーするくらいの粘着質な性格と、恐らく主張の強い男。だけど……」


 拓斗は楓の言いたいことがわかったようで、その先の言葉を告げる。


「それを真正面から言えねえってか」

「うん」


 拓斗の言葉はどうやら当たっていたようで、楓は静かに頷いた。

 楓と拓斗が脅迫状について話をしている時も、私は何かが引っかかっていた。

 しかし、そのもやもやした気持ち悪さの正体がわからずに、ただ時間だけが過ぎていく。


「由姫?」


 金色夜叉について何か引っかかりを覚えたのだが、いくら考えてもわからない。



 『金色夜叉は男が熱海で許婚に捨てられる話だよ』



 先程の楓の言葉を思い出して、何度も繰り返してみる。

 私が引っかかりを感じているのはどこで、何に感じているのだろうか。


 そうした時、ようやく私の中でもやもやの正体がわかって顔をあげた。


「熱海……」

「え?」


 私の呟きを聞いた楓が、私の様子を窺っている。

 そうだ、一人いたのだ。

 私からフッた、いわゆるお断りをした人が一人だけいた──。


 私は思い出したことを二人に伝える。


「一人だけ私から交際を断った人がいました」

「名前は!?」


 私の発言に楓が尋ねた。


「わかりません。でも、正確には婚約者じゃありません。お父様の誕生日パーティーでいた給仕の人間でした」

「給仕? 華族じゃなかったのか?」


 拓斗の質問に、私は答えた。


「はい、パーティーの翌日に声をかけられて……それで、大声で断りました……」


 そうだ、私は旅館の庭でその男の人を振った。

 しかも、「華族でもないあなたと私は不釣り合いよ」とまわりの人間に聞こえるように大きな声で……。

 確か一年くらい前だったから、高飛車にふるまっていた私ではあるのだが、なんだか申し訳ない気持ちになる。

 私が彼の立場だったら、確かに私を恨むかもしれない。


「その会場、もしかして」


 私の話を聞いた後、楓が私に確認するように言う。


 そう、あのパーティーの場所はこのトウキョウじゃなかったのよね。

 海が見える素敵な海岸沿いの洋館で、その誕生日パーティーはおこなわれたのだ。

 まさにその場所こそ……。


「熱海……」


 私の脳内で、あの日聞いた波の音が響いた──。

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